十年の船
塔のてっぺんが、朝から燃えていた。
正確には、燃えているように見えていた。ヴェルサリア学府の卒業試験は、ふたり一組で受ける。塔の上まで、魔法だけで登るのだ。外壁にはらせんの足場が組まれているが、時間がたつと下から崩れていく。崩れた先は、はるか下の中庭である。組のふたりがそろって登りきれば、合格だ。
アッシュ・レイドルフは、その足場を使わなかった。
「足場を使えとは言われてない」
言うが早いか、足もとの空気を灼いた。ふくれ上がった大気に蹴り上げられて、少年の体が石壁にそって跳ね上がる。歓声とも悲鳴ともつかない声が、中庭から上がった。試験官の老魔導師が、持っていた羽根ペンを取り落とした。
十六歳。黒髪に赤みのさした短髪。笑うと八重歯がのぞく。十年前、東の小国から送られてきた六歳の子どもは、いつの間にか、学府でいちばんやっかいな生徒になっていた。
三度目に跳んだとき、足が空をつかみそこねた。熱を出しすぎたのだ。体が、落ちる。
落ちた先に、氷の階段があった。
段はひとつずつ、足が届くところに生えてきた。生まれたばかりの氷は白く曇っていて、踏めばきしむ。だが割れない。アッシュは舌打ちして、それを三段飛ばしに駆け上がった。
塔のてっぺんには、先客がいた。
銀白の髪を編んで片側に流した少女が、塔のふちに腰かけて、足をぶらぶらさせている。ネージュ・フォンティーヌ。十年、一度も組を変えたことのない相方だ。淡い青の瞳がアッシュを見上げて、それからゆっくり、風の吹いてくるほうへ戻った。
「遅い」
「階段作ったの、君だろ」
「作らなかったら、あなた死んでたけど」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
表情は変わらない。ただ、足の揺れが少しだけ速くなった。十年見ていればわかる。これは、笑っているのだ。
◇
卒業の式は、拍子抜けするほど短かった。
老魔導師はふたりぶんの巻物を手渡すと、白いひげをひとなでして、一度だけ渋い顔をした。
「片方が落ちて、片方が拾った。ふたり一組の試験としては、文句のつけようがない」
それから、アッシュのほうだけを見た。
「だが、実戦であれをやってみろ。次は、拾うほうもいっしょに落ちるぞ」
「……はい」
「基礎から最先端まで、教えられることは全部教えた。……ひとつだけ除いてな」
「召喚術式」ネージュが言った。「理論は全部やりました。実技だけ」
「実技は誰にもやらせん。あれは開けるものであって、閉じられると決まったものではない」
老人はふたりを見くらべて、それから思い出したようにつけ足した。
「お前たちの国は、魔法使いの国だと聞いた。十年、よく持ちこたえた」
誰も、その言葉の意味を深く考えなかった。
◇
帰りの船は、思ったより小さかった。
甲板の手すりに並んで、ふたりは水平線を見ていた。二週間の船旅。潮が、ずっと同じ匂いをしている。
「父上に何を見せる?」
「塔を登ったやつは絶対怒られる」
「怒られるね」
「じゃあ、氷の階段のほうを見せる。あれ、きれいだった」
ネージュが横目でアッシュを見た。アッシュは水平線を見たままだ。
「……母様に、髪を編んでもらおうと思って」少女は言った。「六つのとき、編んでもらったきりだから。やり方、あれからずっと自己流なの」
「うまいよ、それ」
「知ってる。でも、教わったやつじゃない」
編んだ先を指ではさんで、しばらく黙っていた。それから、思い出したようにつけ足した。
「三秒待って」
「何が」
「……ううん。なんでもない」
言わなかったことが何だったのか、アッシュは聞かなかった。十年いっしょにいると、聞かないでおくのが優しさになるときが、わかるようになる。わかるようになったことが、少しだけ、こわい。
手すりの上で、ふたりの手の甲が触れていた。どちらも動かさなかった。
◇
十四日目の朝、霧が晴れた。
港が見えた。石造りの防波堤。なつかしい灰色の屋根。記憶より小さな街並み。アッシュが身を乗り出して、ネージュが目を細めた。
ふたりは同時に、同じものを見た。
街でいちばん高い鐘の塔に、旗が掲げられている。
六歳の記憶にある旗は、青地に白い星だった。魔法王国リュミエルの星。夜でも道を照らすという意味の、あの星。
鐘の塔の旗は、黒かった。
黒地に、交差した二本の剣。
「……アッシュ」
「うん」
「あれ、何」
「わかんない」
船は止まらない。港は近づいてくる。桟橋に人影が並んでいるのが見えた。出迎えだ、と一瞬思った。
朝日が、彼らの持っているものに当たって光った。
槍の穂先だった。




