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AGAPE  作者: 銀の鍵
第一章『怠惰』
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第二話『マッチの火を灯すように』─5

 路地裏を抜けてしばらくが経った頃。

 わたしは潮風の香る夜道を進んでいた。


 砂浜はない。けれども柵の向こうは海だった。派手派手しかったあの通りとは打って変わり、ここはとても暗い。

 少ない街灯も、頼りなく点滅しているだけである。

 レンガ調の道を濡らすわたしの血は、はたしてそれが巻き上がった海水か否かわからないくらいにここは暗い。ふくらはぎの傷は痛み続ける。まるで、ずっと肉を咀嚼(そしゃく)されているかのような感覚だった。


 寒いのはどうしてか。

 傷のせいか、風のせいか……ともあれ、ひどく寒い。

 くしゅん──小さなくしゃみの振動が、ひどく傷に響いた。


 こんなとき、いつもだったらラファエルが抱きしめてくれた。自分の温度を、わたしに分け与えてくれた。

 でも……会えない。

 天国へ行くことはできない。できたかもしれないが、わたしはそれを放棄した。

 ラファエルを呼ぶことは──できる、かもしれない。


 震える声で、歌おうとする。ラファエルがいつも、いつも……眠る前に聞かせてくれた歌へ、返す歌を。

 けれどもすぐにやめる。

 もしもラファエルが、それでほんとうにわたしがここに居ると知って、ここにやってきて、わたしを連れ戻そうとして……それが悪魔にバレたら、みんな死ぬ。

 ハミルのような……契約に縛られた人々が、わたしのせいで死んでしまう。


 それだけは、それ、だけは──


「……ぁれ?」


 ふと、気が付く。


 気にしていなかったけれど、誰もいない。悪魔も人も、見当たらない。

 それなりに歩いた。もう、意識も薄れるくらいの時間は経った。

 なのにあれから、一度も誰とも会っていない。

 幸運という言葉で片づけるには、それはあまりにも──

 そう思ってすぐだった。


 わたしの視界の真ん中に、それは居た。


 おおきな悪魔だった。前に立てばきっと、見上げるほどだろう。真っ黒い体は夜空に溶け込んでいる。するどく尖った帽子のようなあたまには、よく見ればたくさんの真っ赤な目があった。近くのすべてを見つめるようである。口元を覆う布は、薄っすらと赤く……その内側ではタプタプと、液がため込まれていた。

 唯一、しっかりと明かりを放つライトの下──その体躯には小さすぎるベンチに腰掛けて、そして大きく鋭い指で、不思議な形をした木の像にくくり付けられた、切れた糸を結び合わせようとしている。

 切れ端どうしを絡めて結ぼうとしているが、おおきな手に、細い糸は相性が悪いようで、なんども失敗していた。


 ゆっくりと、悪魔の方へ歩む。


 ──殺されるかな。


 いやだなと、そう思った。


 せっかく生き返ったのに……死にたがりではないのに、生きていたいのに、どうしてこうなるのか──それはきっと、わたしが器用じゃないからだろう。

 愚かで、それでも正しくあろうとする。だから、だから──


「ねぇ、手伝おうか?」


 悪魔を見上げ、木像を見つめてそう聞いた。

 殺されると思った。けれども悪魔はゆっくりと頷き、わたしにそれを手渡す。

 重たくて、そして少し柔らかい──硬くはあるが、少し沈む。きっと、とても古いものなのだろう。それこそ、この悪魔が生まれるよりも前からあったものかもしれない。

 像の首から伸びる二本の糸、その端から少し進んだところ同士を重ねて、からませて、強く、結び付ける。


 悪魔の方に差し出すと、彼は慎重に、その槍のような指がわたしに触れてしまわないようにしながら像を取る。そして自分の首にかけると、また小さく……今度は上半身も巻き込んで頷く。


 ──お辞儀だった。


「また千切れちゃわないように……気を付けてね」


 そう言って去ろうとするわたしを、悪魔は呼び止める。


「オマエに、主はいるか。信じて、崇める……主は」


 大木から削り落されたような声。水の奥から聞こえる声。

 振り返り、懐かしむようにわたしは言う。


「うん、いるよ。名前はわからない、でも、それでも信じてる。目には見えない……だけど包み込んでくれるような、そんな光のような……」


 ──届かないからこそ。

 悲痛な叫びが脳裏(のうり)を過る。

 声を(かす)れさせて、黙るわたしに、悪魔はまた問いかける。


「祈り方を……学ばせてくれ。お前の主に祈るとき、なにをする。お前の主と契約するとき、なにをした?」


 悪魔がどうしてそんなことを。……そう思ってから、自分はどうしてそんなことを思ったのか、嫌になるまでに数秒も掛からなかった。

 自己嫌悪をかき消すように説明をする。


「契約は……教会で、いつもは見かけないすごくキラキラした天使さまに自分の血を少しだけ渡して、それを主のところまで持っていってもらって──祈るときは両手を握り合わせて、こころのなかで言葉を並べる、かな。ひとりでもみんなでも……声に出したり、ほかにもいろいろな祈り方があるから……どれが正しいとか、あんまりないけど」


 そうか、とだけ悪魔は返す。それから口元を覆う布の舌を少しだけ剥がした。

 固形を伴う真っ赤な……誤魔化さず言えば、血が溢れ落ち、彼の手に握られた像を染め上げる。

 口元を覆いなおして、悪魔は握り合わせた両手で木像を包み込むようにしながらすべての目を閉ざす。

 少しの時が過ぎる。

 祈りの言葉を並べるくらいの……時間が。


「……だめだ」


 悪魔は目を開き、うつろにつぶやく。

 ほかにもやり方はある──そう言おうとして、やめる。


「あなたのその……像が何かはわからないけど、でも、それは多分わたしの主とは違うものだから……」

「わかっている。だが、おれは……」


 像にまとわりついた血を大きな指で、手の甲で拭いながら。


「これは一族に継がれるものだ。握りしめて、これに唇を乗せる。そうやって、祈る……だが」


 悪魔の口元の布は、その中は血でいっぱいだった。

 それはつまり、きっと……。

 祈れない。信じるなにかに、言葉を届けようとすることさえ叶わない。

 それは、それはどれほどに……悲しいことか、わたしには想像もつかなかった。。


 せめて、できることを、できる限りやらなければならなかった。


「乗せるのは、自分のじゃなきゃいけない?」

「どういうことだ?」


 意図を測りかねて聞き返す悪魔。

 わたしは自分自身の唇を指さして言う。


「わたしがその像に、わたしの唇を当てる。あなたができない部分だけ、わたしが手伝うのは……どう?」

「……いいのか?」


 もちろん──言いながら悪魔の腕の間に入り込み、彼に背を向け、そして像へ顔を向ける。唇を乗せようと一歩前へ踏み出す。すると悪魔は指で像の頭の上を強くこすり、自身の血をできる限りで落とす。

 空いた隙間に、唇を当てる。

 両手を合わせはしない。ただ、彼の祈りの欠落を埋めるだけ。

 長い、時が過ぎる。

 随分と、随分と……誰かと雑談でをしているような、それだけの時間。


「もういい」


 その言葉を合図に唇を離す。

 悪魔の腕の中から抜け出て、見上げる。

 たくさんの瞳は震えていた。

 悪魔はゆっくりと、膝をつく。それでもわたしよりもずっと高い。


「ありがとう」


 声は変わっていない。けれど、どうしてか透き通るようであった。


「やっと……ほんとうに、久しぶりに……」


 掠れた声。それでも彼は必死に言葉を伝えようとする。

 ひとつ、風が吹く。

 風が心地よいと感じたのは、随分と久しぶりな気がした。

 悪魔は言う。


「これはお前の主じゃない。お前にとってこれは、お前にとってわたしは……敵とさえ言えるはずだ。お前は……祈って良かったのか?」


 案ずるような声。

 風と同じ、久しぶりに聞く温度の声だった。


「祈っては……ないよ。ただあなたの祈りを手伝っただけ。祈りは、祈りたい誰かにとってすごく大切なものだから。それに、その像とあなたがわたしの敵だっていうんなら、愛すべきだしね。それがわたしの主の教えだから」


 ありがとう。悪魔は一言(ひとこと)言って、立ち上がる。

 それと共に、にわたしの足を指さした。


「怪我をしているのか」


 わたしが何かを言う前に、彼はしゃがんで傷を手で覆うようにわたしの足を掴む。

 驚いて飛び退きそうになるが、叶わない。

 動揺しているうちに、足の痛みは消え去る。悪魔が手を離すと、傷は消え去っていた。


「いのちは自然だ。俺の力は自然との調和だ──だから、治りを早くした。何度も繰り返すのはダメだ。これからは気をつけろ」


 恩返しだ──繋げられた彼のその言葉が、頭から離れない。


「──ありがとう」


 言うと共に、一気にあふれ出る。

 こみ上げたそれは涙だった。

 目の周りが圧迫されるようになり、出口を求めた涙がどんどんと頬を流れる。


 止まらない。どうやっても止められない。

 悪魔が慌てたようにその手で拭おうとして、けれど、わたしの頬に少し触れると指を離す。傷つけてしまうと思ったのだろう。

 そのことで、また涙が引きずり出される。

 足の傷はもう塞がったのに、痛くなんてないのに、足に力が入らない。

 震える喉を手で押さえて、息を整える。


「……ごめん、取り乱した」

「落ち着いたのなら、いい」


 少し、沈黙が流れる。

 ──気まずい。

 というより、気恥ずかしい……というのが正しいのかもしれなかった。


「おや、ここにいたのか」


 演じるような声に、悪魔がその方を向く。

 現れたのは海原のような色の……波のような髪の悪魔だった。伸びたスーツの裾が地面を踏みしめて、その身体を宙にユラユラと浮かばせている。ひげ、なのかはわからないけれど、口周りから伸びる仮面のような大きな赤黒い角──鹿の角のように見えた。そしてその角の曲線に合わせるように大きなまぶたが目を象る。右目にひとつ、左の目にはふたつの瞳。


 グンっ──と、角の悪魔の顔がわたしの顔に勢い良く迫る。


「おや人間。それも誰にも飼われていないとは珍しいね」

「こいつに紐を直してもらった。それと祈りも……手伝ってくれた」


 黒い悪魔は角の悪魔に像を見せびらかすようにしながら言った。

 角の悪魔は愉快そうな表情をする。


「へぇ? 身分でも使ったか、それともやっぱり脅したか?」


 黒い悪魔は首を横に振ると、角の悪魔は高らかに笑う。


「それじゃあシンプルな善人か、それも、お前のような見栄えのおぞましいのを救うほどに! ハハッ──久しぶりに見たよ、ただいだけの人間は。こんな地獄じゃほんとう珍しい」


 角の悪魔は三日月の笑みを浮かべたまま人差し指でわたしの顎を上げる。


「わたしの名はフルフル。ゴエティア──フルフルの柱、その今代」


 それから、と挟むと共にわたしの顎を軽くはじいて黒い悪魔の方を向かせる。


「そっちの大きいのはバルバトスの今代」


 フルフルにバルバトス。

 ゴエティア、というのは確か──


「あぁ、貴族(きぞく)みたいな……感じの、正当な血筋?」

「その認識で概ね正しいね。まっ、今じゃ大体滅びて残ったのはわたしとこいつと、あの強欲(マモン)だけなのだけれどねぇ? ともあれだよ、きみはこいつの正体も知らず……こんな──」


 あぁ、悪意は無いが客観的事実に基づく言葉だからね? ──眉を下げ、バルバトスに一度前置きをするフルフル。


「こんな、見るも恐ろしい怪物にやさしさを向けた訳だ」


 フルフルはわたしの手を取る。


「気に入ったよ。どうだい? わたしたちと共に来るというのは。こんな最低な世界でも明日を少し楽しみにできる程度の日々は与えられる。わたしは強いし、それとバルバトスもきっと同じくらい頼りになるさ」


 バルバトスは頷く。期待の混じったような、そんな重みのある頷きだった。

 ──悪い話じゃ、なかった。

 明日を生きられて、そしてフルフルは……まだわからないけれど、バルバトスは多分、やさしい。

 彼らと共にいることはわたしにとって、少しも悪いところはないように思える。

 思えるのと同じように、実際悪いところはないのだろう。


 だけど──


「……大丈夫です! その、なんというかこう……保護者みたいな人はもう、いるので」


 フルフルはわたしから顔を離す。


「そうか、それは残念。けれども何かの縁だ。君が泣きそうなとき、わたしかバルバトスが近くにいたなら助けよう」

「あぁ、かならず助ける」


 言葉を受けて、また泣いてしまうまえに手を振り走り去る──またね、なんて言葉だけを残してから。

 あまり涙もろくは無かったはずなのだけど……きっと、慣れない痛みのせいだろう。

 こころのなかで言い訳をしながら、かどを曲がり、そして呼べと言われた名を呼んだ。


「イシュマエル、とでも呼べば良いんだっけ」

「気が変わったか?」


 待ちくたびれたように、壁に背を預けていたイシュマエル。

 顔をこちらに向けはせず、首を揺らしてカボチャの正面をわたしのほうに向ける。

 わたしは、はっきりと答える。


「気は変わってない。わたしは誰も、死なせたくなんてない。誰も、誰にも……悲しまないでほしい」


 だけど──口角がふるふる震えて自然と持ち上がる。


「地獄のなかでも、天国はあるって分かったから」


 天国は、足で向かうようなものじゃない。


「誰かと誰かが愛し合って、信じ合う。その時こそが、その誰かと誰かの間こそが天国だから」


 イシュマエルの方へ、一歩寄る。


「だから……わたしは生きる」


 わたしのために、そして同じくらい、誰かのために。


「生きて、この地獄で教えを貫く」


 

 一歩、また一歩と歩を進める。


「地獄に神の光が届かないのなら。昨日まで光を受けていたわたしが、その光を届ける」


 イシュマエルのすぐ前にたどり着く。彼は下がらず、その場に留まっていてくれる。


「誰もを愛し、誰もを信じる」


 イシュマエルは壁から背を離す。


「何をすべきかはまだ分からない。だけど頭の中に、ずっと、不思議な感覚がある。呼ばれるような、そしてわたしの方が呼ぶような。これが、あなたの言う大罪の翼への道を示す光なのなら」


 わたしとイシュマエルは真っ直ぐに向き合う。


「わたしはあなたと、大罪を探す」


 そう、宣言する。


「それがいま、やれることだから……やる。その中で愛すために、信じるために何をすればいいか、知りたい」


 少し、苦笑いを彼に見せてみる。


「その、えっと……自分から拒絶しておいて傲慢かもしれないんだけど」


 彼のまえに手を差し出す。


「もう一度、わたしの手を引いてくれる?」


 相当な覚悟で絞り出した言葉だった。けれど。


「勿論だ」


 と、イシュマエルは簡単に言って、わたしの手を取る。

 一気に力が抜けて、身がよろめく。

 気の緩みのままに──何となく、空を見る。


「……あ」


 空で、朱に近い黄金色と深い海の色が混ざり合っていた。

 そしてその中で一際強くきらめく星がある。

 まるで主のような、主に……すごく近い光を放つ星。

 東の空に、浮かぶ星。


明けの明星(ルシファー)


 明けの明星が、わたしとイシュマエルを見つめるように浮かんでいた。

 ……むかしから、この光を見つけるのが好きだった。

 そのために寝なきゃいけない時間に布団から抜け出して、まどの先を眺めて……それで、ラファエルに叱られたこともあった。


「ねぇ、イシュマエル」


 明けの明星を指先に重ねるように人差し指を伸ばす。


「いつかさ、あの星のある場所まで行けるかな」

「行ってどうするんだ?」


 あの星のもとに行って、そしてわたしは──


「ありがとうって、言いたい……かな。見守ってくれて、朝を届けてくれてありがとうって」


 イシュマエルは少しだけ考えてから、カボチャの目の光を強めて言う。


「翼をすべて集めたのなら、きっと……きみに、あの光をすぐ近くで見せてあげよう」


 そう言うイシュマエルの声には、戯言たわごとじゃない、確かな意思が込められていた。

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