第二話『マッチの火を灯すように』─1
「ねぇ、この四角い塔は……いっぱいあるけど、普通の家だったりするの? すっごく大きな長家、みたいな」
見上げる空が狭まるほどに高く、そして多く並ぶ冷たく硬い四角の塔。よく見れば、その表面は分厚いガラスのようで、うっすらと人や悪魔の姿が見える。何をしているかまでは分からないけれど。
「中には——長家とは違うが似たものはある。が、大半は違うな」
イシュマエルは首を傾け、カボチャをぐらりと揺らして考えるふりをする。
「ひとつかふたつか、ともあれ社会が詰まっていると思えばいい。利益を産むために、快楽を産むために……あの箱の中で喰らい合い、箱同士で喰らい合う。まぁ、あえて露悪的に言うならこんなところか」
「あえてってことは、ほんとうはそんなに悪くないってこと?」
「構造自体は否定するほどじゃない。しかしまぁ……回しているのが悪魔共だからな」
あなただってそうだろう——それを言葉にはしなかったが、目は口ほどに物を言うようで……イシュマエルは寝ぼけたニワトリのような声で、頭をぐらぐら震わせながら笑う。
「同族だから分かることはある、という訳だ。それに私は長生きだから、よくよく知っているのだよ」
「悪魔はみんな長生きじゃないの?」
人に比べればな、と返してから彼はわたしを指さし、それから道行く悪魔たちを一瞥する。目の光を当てられた悪魔は少し慌てたように走り去っていく。
「わたしは悪魔より、誰より長く生きている。気が遠くなるくらいにだ」
むかしむかしからね──そう言ってすぐである。どこからか、甲高い声が響いた。
「若さをその身に、命を限り無く永遠に!」
空から耳に刺さるような音がしたかと思えば、どうやらあのヌメヌメ動く水面のような絵画のほうから発せられているようである。
絵の中で、長い足をぴんと延ばす、溢れる血のような髪の悪魔が尖った刃のような靴で地面を叩き、鳴らしている。赤いドレスを着ているのかと思ったが、よく見てみれば背から生える羽で身を包んでいるだけのようである。
周囲の悪魔たちは不思議に思う様子さえなくただ見上げ、あるいは気にも留めず通り過ぎている。──見て良い物かもわからなかったが、どうやら地獄においては普通の景色なようである。
ドレスの悪魔の手に乗せられた瓶が大きく映される。
あざけるような声がまた響いた。
「老いることなく、死に至ることなく、生きて生きて自らの欲をかなえ続けていけばいい! 運動せずとも美を保ち、愛を掴まず快楽を得る。満足を超えた食事をしようともカタチは麗しく、嫌いなアイツの恋を奪い取る! 貴方はこの世で一番正しい美をまとえる! 求めて求めて求めても、この美にはそぐわない」
思わず言葉を失ってしまう。
「……こんなものが平気で披露されてるの?」
「マシな方だ、これでも」
怠惰と色欲と、暴食と嫉妬と……一つはともあれ、強欲と。大きな罪を誇るような言葉が嫌で、不愉快に思えて堪らなかった。
けれどもこれこそが地獄なのだろう。それどころかきっと、それほど珍しいものでもないのだろう。だから、平気なふりをするしかない。
心の中を洗うように、イシュマエルに対して軽口を叩く。
「あなたも、あれを飲んで長生きしてるの?」
ただの冗談である。けれど……。
「そんなわけがあるか。わたしは違う。全くに、違う——勘違いをしてくれるなよ」
……良くないことを聞いてしまったようである。
少しの沈黙が流れる。何を言うべきか、思いつく前にイシュマエルが口を開く──口は見えないけれど。
「あの女の悪魔はリリスだ。分野は広いが、主に薬を作っている」
「お医者さんなの?」
「一般的な治療の薬を作ってはいるようだが、それよりも娯楽や美のためのものだな。生きるためじゃない、悦ぶための薬ばかりを作っている——いや、最近は生と美のどちらもを両立させた怪しい薬を作っていたか」
まぁ、そんなものを詳しく知る必要などはない──言いながら彼は歩き出す。
「リリスはこの地獄の支配者の一人だ」
白く、指先の尖った手袋の手で三を示す。
「さっきも言ったがリリスは基本的に製薬だ。目的は自身の美と、そして利益」
延ばされた指が一本、折りたたまれる。
「そして次にマステマ」
その名が出た途端、周囲の喧騒が一瞬止んだ。
「この地獄にはタルタロスという……言ってしまえば、監獄というやつがある。罪人を堕とす場所だ。そこへ堕とすかどうかの判断を行っている」
「あるんだね、そんなところが……この地獄に」
悪いことしてこその地獄だと思っていたので意外であるのと同時に、少しの期待を抱いたけれど……。
「堕とされるのは罪人であるが、悪人じゃない。立場のある悪魔にとって都合の悪い悪魔……つまり、比較的だが、善良に近い悪魔ばかりが堕とされている。マステマはそんな悪魔どものこれまでを無価値と否定する裁定者だ」
初めてタルタロス建造の話を聞いたときはわたしも期待したんだがな──それは呆れたような、諦めたような声だった。
悪いことをして、その分の罰を受ける摂理そのものはそれほど悪くないのだろう。それこそ、あの大きな箱に詰まった社会のように。
それでも、ここは地獄だから……。
うつむくわたしの顔の前に、人差し指だけ伸ばした手が置かれる。
「つぎに、メフィスト。これに関してはシンプルだ。そして単純ゆえに……なかなか手ごわい」
まるで、いつか対峙するつもりであるかのような言いぶりであった。
「奴はすべての契約を把握している。すべての悪魔の持つ鎖を、見落とすことなくその頭に入れている」
「それは……わたしとあなたの契約も?」
聞いてみるとすぐに彼は立ち止まり、それから、少しいらだったような声で言う。
「きみとわたしは契約などしていない。きみは契約の結果生き返った、それだけだ……ただの人間のいのちを悪魔に預けるような愚か者などと思ってくれるなよ」
「ご、ごめんね……?」
わかればいい。その一言は、一言じゃすまされないほどに重たく、大きな何かを含んでいた。そして、いのちを悪魔にあずけるような、というのはきっと……。
「やっぱり、悪魔と契約した人間はいつでも殺されるようになるんだね」
イシュマエルは頷く。
「支配者の三人──三魔衆の要請を受け、そしてヤツが承認することで、悪魔と契約した人間の首が一斉に、これは比喩などではなくて飛ぶ」
「ヤツ?」
その三魔衆というのが要請を出す相手とするのなら、そいつは間違いなく、この地獄の──
「今の地獄の、最高位の支配者──マモンだ」
「マモン……って」
その名前には聞き覚えがあった。
「サタンの次に現れた五人の悪魔の一人だよね? たしか強欲の罪の」
「名のもとはそうだ。が……きみの知っているマモンとはまた別の存在だ」
イシュマエルは再び歩き出す。
「大罪たちの名は、いまの天国でも忘れられてはいないか?」
「うん。憤怒のサタンに怠惰のベルフェゴール、あと……色欲のアスモデウスに、暴食のベルゼブブと嫉妬のリヴァイアサン……そして強欲のマモンだったよね?」
「そうだ。そしてヤツらは死んだあとも、その力の核……大罪の翼を遺した」
大罪の翼……わたしが見つけるべきもの、らしいものである。
「そうしてそのうち強欲の翼を手にした悪魔──元はゴエティアの……バエルの今代だったか。ともかく、翼を掴んだ悪魔がマモンを名乗っているわけだ」
……また知らない言葉が出てきた。
ゴエティアってなんだよと、そう聞いてみようとするが……。
「あれ、イシュマエル?」
イシュマエルの姿が突然見えなくなる。
こっちだ──その声の聞こえてくる方に顔を向けると、ガラス張りの……多分、食堂のような店の入り口に彼は立っていた。
そういえば地獄に来てから、というか、死んだ日の朝から何も食べていなかった。
小走りで振り向くイシュマエルに追いついて、肩を並べて……というにはその高さには差があるけれど、ともあれ店に入って席に着く。




