第一話『愛を届けに駆けていく!』─3
「アズマ……?」
窓から射す光にラファエルが目を覚ますと、その腕の中にアズマの姿は無かった。
「行ってきますも聞いていませんが……」
ラファエルにとって、アズマは少し元気がよすぎるくらいの子で、だから自分のもとから駆け出していくことくらいあると、そう受け入れている。けれど、アズマが行ってきますも言わずに姿を消すことなど一度もなかった。
「かくれんぼですか? アズマ……? モーニングラッパにはまだ……早いですよね」
家中を探し回り、そして、台所を覗き込んだラファエルはあることに気が付く。
「ケーキがない——」
どうしてかはわからない。けれどラファエルの中で、確実に焦りが生まれだす。
ラファエルはまだ朝の静けさの残る街を回る。
朝の静けさ……はまだあるけれど、しかし騒がしい音が聞こえてくる。
鎧と鎧のこすれる音だ。
「ミカエル……!? その傷はいったい、何があったのですか」
ミカエル。ラファエルと同じ三大天使のひとり。
そんな彼女は全身の……まだ新しい傷から流血しながらも、その足を止めずに進んでいた。後ろに続く能天使たちも、同じように傷を負っている。
ミカエルは口の端から血をこぼしながら答えた。
「ネフィリムの呪いだ。制圧作戦を決行し、あと一歩のところまで追い詰めたのだが……逃げられた」
「そんな……いま、アズマの姿が見えなくなっていて……もしも鉢合わせるなんてことになったら……」
ミカエルが表情をゆがめる。痛みにも堪えなかったその表情を……。
「わかった。アズマの捜索も行おう。ネフィリムの呪いが生まれてから今日までの一年、随分と被害が出たからな。もうこれ以上、誰も死なせる訳には行かない」
「……一年?」
ラファエルの首筋に、いやな風が走る。
「あぁ、丁度な。だから制圧作戦を今日にした」
ラファエルは目を見開き、声を震わせ……叫ぶ。
「誕生日……!」
────
六つの腕。血肉のような肉体。巨大でいびつな人型。
そんな怪物──ネフィリムの呪いが森の奥でうごめく。
「っ……アァ」
ネフィリムの呪いは黒い海水のような血を流しながら、地を這い、唸り声を上げる。
ネフィリムの呪いは悟っていた。
自分はもうじき死ぬ。
このまま死なずとも、間違いなく殺される。
それでも頭に浮かぶのは殺すことだけである。
殺さねば。何かを殺さねば。
自らが恨みである自覚もない。自らがネフィリムたちの想いから産まれた自覚もない。
なぜ自分が何かを殺そうとするのか。
そもそも殺すとは如何なることなのか。
知らない。
ただただ殺すだけの存在なのである。
神にさえ祝福されない存在、ネフィリム。
その恨みから生まれた破壊衝動そのものである。
だから知らない。
知る由もない。
知ることなどゆるされない。
愛も、祝福も——
「ハッピーバースデー!」
だからわたしは、主の教えのままに、その命を祝いたかった。
その結果どうなるかは、わかっていた。
わかってはいたけれど、こうせずにはいられなかった。
アァ、いたい。
おなかがぽっかり空いたようで、すごく……すごく、おなかが減った。
────
怪物は見下ろしていた。
六つの腕でケーキの残骸を抱えて、赤毛の少女の残骸を抱えて……。
すでに殺したソレを呆然と見下ろす。あとどれだけ自らの存在が続くかわからない中で、壊れた肉をただ眺めていた。
「ほんとうに、哀れだ」
静かな森の中、葉と葉のこすれる音の中に、『カボチャ』のなかで響き、籠る声が発せられた。
ネフィリムの呪いは現れた何者かの腹を反射的に貫く。
真っ黒いスーツに風穴が開き、そしてはじけるように血しぶきが草原に舞い散る。
血肉を腹からこぼして倒れるそいつは、口の空けられていないジャックオーランタンを頭にかぶっていた。身が転がると共に頭は傾き、目の穴からあふれる光が地に濡れた草を照らす。
目の前の命を殺すことのために、ネフェリムの呪いはその腕から残骸どもを落としてしまう。さっきよりもさらに崩れる少女の亡骸を必死に拾い集め、抱き寄せる。
「生まれて初めて祝福を、境の無い愛を与えてくれた誰かを殺すことしか出来ないのだから、本当に哀れだ……こころより、同情する」
殺されたはずのカボチャの男は、いつの間にか肉体にも、そのスーツにも傷はなく、平然とした様子で立っていた。
「その子のために、何かをしたいか?」
そいつは亡骸を一瞥して、そして悪魔の常套句を口にする。
「なら──わたしと契約をしよう」
────
「お誕生日おめでとっ──」
そう叫び、飛び起きてすぐにわたしの頭の中は困惑でいっぱいになる。
ここはどこだろう。
ネフィリムの呪いにケーキをわたして、そうして──
「それにしても……なんなんだろ、ここ」
円形の、ぼんやりとしているのに部屋を十分に明るくしてくれる……そして同時に直視すると目が痛く感じる不思議な人工灯。見たこともない材質で作られた……丈夫そうなのに、水面のようになめらかに揺れるカーテン。身を起こし、軋む音のしないベッドから降りる。石のようだけれどもゴツゴツしてない、完璧に平らな床に足裏を乗せる。
「つめたっ……」
床は酷く冷たく、反射的に足を上げてしまう。すると背後の方からクスリと、小さく笑う声が聞こえてきた。
驚いて立ち、振り返る。
「申し訳ない。馬鹿にしたのではない。ただ……反応が可愛らしくてな」
謝る声はカボチャの中から聞こえてくる。
ジャックオーランタンの目からは光があふれ出る。その頭上には、暗く鈍い色をまとったヘイローが浮かんでいた。
天使はヘイローを持つ。そして翼を持つ。
ヘイローは煌びやかに光り、翼は白く美しい。
そして悪魔は——暗いヘイローを持つ。そして血や泥に塗られたような翼を持つ。
目の前の男は翼を持っていない。けれど、このヘイローは間違いなく——
「悪魔……!」
壁に背を当てるところまで、すぐに後退る。
何故、どうして悪魔がここにいる? だってここは……。
「ここ、は……?」
「気づいたか。思っていたより察しが良いな」
悪魔は言いながら、わたしに背を向け大きなカーテンの前に立つ。
舞台の幕を開くように、カーテンを両手で大袈裟な素振りで開いて見せた。
「ここ、が……」
目に突き刺さるような光にあふれる、冷たい鋼のような柱の並ぶ街。統一性のない多色の光の線がどこかからか放たれ、振り回されている。動く大きな写実絵が四角い塔に張り付けられている。景色に戸惑っていると窓の外をとげとげしい人型の何者かが翼をはためかせて横切る。耳の奥に、ずっと遠くからの悲鳴が届く。
知らない。こんな世界、知らない。
私の知らない、天国とは全く違う世界。
それはつまり——
「地獄」
「ご明察だ」
悪魔はカボチャの頭を少し横に傾ける。
「そしてわたしは……名前は無いのだけれど、それは困るか」
悪魔は少しの間考え込むような素振りを見せ、思い付いたように手を叩く。
「まぁ、イシュマエルとでも呼んでくれればいい」
堂々と偽名を名乗る。
「さて、わたしはもう名乗ったし、次は君の番だ」
「うぇ? あ、えっと、私は……アズマ。アズマ・ラファエル」
突然聞かれ、思わず答える。
するとイシュマエルは両手を挙げて首を振り、わざとらしくため息をつく。
「地獄じゃいまの言葉で簡単に奴隷扱いだ。たかが自己紹介でだ。やさしさにまみれた天国育ちのきみには中々難しいだろうが、以後気をつけたまえ」
本題に入ろうか──と、脅かすだけ脅かして、イシュマエルはすぐに話を切り替えた。
「はっきり言おう。君は一度死んだ」
……疑えない。だって、覚えているから。
あの悲しくなるほどの喪失感を、痛みを、覚えているから。
「だがわたしとネフィリムの呪いとの契約により、たった一度だけと言えるほどの奇跡により蘇った。悪魔の契約の鎖の交わる最中にいる君は、当然天国には居られない」
つまりきみは──イシュマエルの背の方、窓の先で、無秩序に操られていた六本の光線が、示し合わせたかのようにイシュマエルの背へと放たれる。
彼の背から、まるで光り輝く六つの翼が生えているかのように。
「つまり君は、地獄に堕ちたんだ」
頭の奥の方が冷たくなっていく感覚を覚える。
言われてようやく、自分が堕天したのだと、そう自覚させられたのだ。
「けれど」
イシュマエルはベッドを飛び越え、わたしのすぐ前に立つ。
「たったひとつだけ天国へと至る道がある」
「……契約はしないから」
わたしが契約を交わすのは絶対に……わたしの主だけである。
悪魔とは、しない。主を裏切らないために。そして、自分の命を悪に使わせないために。
「良い心掛けだ。流石は死のリスクを盛大に背負ってでも命を祝福しようとした者だ」
あざけるような言葉だった。
「これは契約の持ちかけではない」
導きだよ──そう言ってから、イシュマエルは合間も置かずに言葉を置き続ける。
「わたしと契約する必要はまったくさらさらない」
「ただ、集めるだけさ」
「ネフィリムの呪い……その祈りにより生き返った君は感じ取れるのだよ」
「地獄のどこかにある、六つの大罪の在処を」
「かつて存在した六の大罪の悪魔たち、奴らの遺した翼を集めた時……わたしは君を、天国まで連れて行けるようになる!」
やっと声を休め、少し落ち着いたように息を吐いてから。
「……まぁ、なんて言っても信用ならないだろうけど」
そりゃそうだろう、わたしがそう言う前にイシュマエルは言う。
「ならばこそだ。わたしは君をこの危険で危険で仕方ない地獄のなかで護ろう。そして大罪の力を探す中で、地獄で生き抜き、いずれ天国へ帰るための確かな力を君に育ませることを約束する」
カボチャの目の奥の光がさらに強まる。
その光はどうしてか、温かく感じられた。
「これは契約じゃない」
──ひとりとひとりの、約束だ。
その言葉はわたしのあたまのなかに強く、重たく響く。
悪魔の誘惑に惑わされた人間は必ず不幸になる。
わたしはその実態を知らない。けれど、その事実はちゃんと知っている。
だけれど……他に道はない。
そして何より、わたしは目の前にいる誰かを……信じたいと、そう思ってしまう。
たとえ何度裏切りに遭おうとも……目の前にいる誰かを信じなさい。そう、幼い頃から教えられてきた。
そしてその言葉を信じてきた。
だからわたしは──差し伸べられた手を握る。
「契約はしない」
それだけはしない。
「だけど、わたしはあなたを」
きっと、だれもかもを。
「信じるよ」




