第五話『この世でいちばん怠けたヤツ』-1
「うん──ここで間違いない」
フルフルの館からしばらく歩いて──地の底からその暗闇を覗かせる大穴に辿り着いたわたしは頷く。
マモンが怠惰の翼の捜索への援助を決定したその翌日の朝。
たった数時間で、拍子抜けなくらい簡単に集められた大勢の先頭にわたしは立つ。フルフルは自らのプランに賛同し、個人的に集った金持ちそうな悪魔たちと楽し気に会話し、イシュマエルは話しかけてくる悪魔を面倒くさそうにあしらっている。バルバトスは……語り掛けてくる悪魔たちに、何て言葉を返せばよいか、分からない様子であった。……鋭い眼差しを、気に入らない様子でわたしに向ける悪魔もなかには……というか、大勢いた。
メフィストが穏やかな様子でわたしに言う。
「まぁ、この奥にあることは我々が生まれる遥か前より分かっていましたからね——アズマさん、あなたの力が役に立つのはこれからです」
人間的なのに、人間味のない目を光らせながら、メフィストはわたしの肩に手を置こうとする。けれど、実際に肩に置かれたのはメフィストの手ではなかった。
「おいおい、その様子じゃあもうこの子をマモン専用のコンパスだとでも思っているのかい? 困るな、この子はわたし——」
その声の音を伸ばしたままにして、フルフルはちらと背後から見つめてくるイシュマエルに視線を向ける。そして口の端を軽く痙攣させてからはっきりと、宣言する。
「──たちの、大切な心臓ともいえる存在なんだ。そうやって所有権を持ったような態度はやめてもらおうか」
メフィストは余裕の溢れる──フルフルに近しくも思える様子で言葉を返す。
「地獄の中にあるのだ。いずれはマモン様のものになる」
モノクルを外し、何故かわたしにの耳に掛けるメフィスト。
「アズマさんも──そして、彼女が見つけ出す翼も、何もかもすべて」
掛けられ、すぐに外したモノクルを返そうと差し出しても無視をされ、どうしたものかと持て余していると、わたしの身体は持ち上がり、そのままフルフルとメフィストの間から抜け出させられる。
持ち上げたのはバルバトスの両手であった。バルバトスはそのままわたしをその背に乗せる。
「失礼な無駄話に興じるな。──アズマ、行くぞ」
バルバトスの言葉につなげるように、空洞の入り口を見下ろし、わたしは気合を十分に入れる。そして込めた気合を一気に放つように、声を張り上げた。
「いざ──怠惰に向け、出発!」
────
空洞は意外にも一本道であった。道──というにはあまりにも角度は急であり、やはり穴と言うのが正しいけれど。わたしだけはバルバトスの背に乗り、悪魔たちはみな、各々の羽をはためかして降る。
どこまで続くのだろう──光が失せていく中で、意外にもその終点は早く訪れた。まだ見上げれば僅かにだが外の光は見える。それでもバルバトスの足が地に着いたことを、乗る背に伝わる小さな振動から確信する。
「──ここが、底ですか?」
冷たい、失望するような声が聞こえる。
暗闇でだれの声かは曖昧だけれど、おそらくメフィストのものだった。
──まだ、下はある。
はっきりとした感覚。そしてその感覚のままに、わたしは言う。
「バルバトス、ここの地面……全力で踏み鳴らしてみて」
頼んですぐ、バルバトスの肉体は大きく揺れる。
そして揺れたのはバルバトスだけではなかった。
足元が一気に揺れ、そして下から突風が吹き出す。風の勢いは減っていく──けれど、それと共に一瞬で地に足をつけている感覚は消え失せる。
羽があるから良かったが──さっきの地面は底ではなく、むしろ蓋だったらしい。再び下降を開始した悪魔たち。後方の誰かが叫ぶ。
「おい、さっき崩れたとこ……塞がってねぇか!?」
その叫びを聞いてすぐに顔を上げる、すると、微かに残っていた一筋と言える光が闇に蝕まれていくのが分かる。壊れた自然が、こうも露骨に、すぐに傷を塞ぐようにするなんてこと──誰かの、意思が干渉していない限り有り得ない。
そう思いはする。けれどその誰かが誰であるのかに思考を回す余裕は無かった。
──全身が鉄の格子となりその隙間を風が通るような、嫌な感覚を覚える。
「フルフル! 稲妻で壁の穴を見つけて!」
できる限りの切羽詰まる声。発してすぐ、廻る雷の蛇が大穴の中を照らし上げる──壁に空く、無数の穴と共に。
苦笑いをしながら、マモンの部下のひとり……白濁した瞳の悪魔が言う。
「これだけあるなら、照らさなくたって──」
「あそこ、あの穴にみんな行くよ」
言葉を返す余裕なんて無かった。
わたしは全身を駆け巡るこの絶望感に命じられるまま、ただひとつの穴を指し示す。わたしが背に乗るバルバトスが先陣となり、みんなでその穴へ飛び込んでいく。
「何か、良くないものでも感じたか?」
穴に飛び込んで少し──羽ではなく、ふたつの足で進み始めた頃、イシュマエルが問う。
「良くない……すごく、嫌なのを感じた、かも」
そうか──イシュマエルは言いながら目の前の光景を指さす。
「それじゃあ、今度も感じているか? その、感覚を」
目の前にあるのはシンプルな二択であった。
フルフルの電気に照らされるそれはふたつの入り口。
右か、左か、簡単で単純で明快な分かれ道。
わたしは迷わず右を指す。
「左はダメ、絶対に」
そう言って、バルバトスと共に右の道へ歩み出した時だった。
「おや」と、メフィストが少し嬉しそうな声を漏らす。
全員がその方を向くが、メフィストは笑顔で「いえ、わたしも右が良いなと、思っただけですから──」そう言って、後をついてくる。
何でもない、ただの空洞。随分奥深くに位置するが、それでも呼吸に難は感じない。微かにでも地上へ繋がる隙間があるのか、それともやはり……何かの意思が介しているのだろうか。
──イシュマエルなら、何か知っているだろうか?
「イシュマエル。ここ、偶然出来たにしては……あまりに不自然、そう、全然自然って感じがしないんだけど、もしかして誰かが操ってたりとか、する?」
「さぁ……分からないな」
そう言うが、イシュマエルは僅かにも間を置こうとはせず、すぐに言う。
「だが、もし仮にそんな誰かが居るのなら、そいつは随分なお人好しだろうな」
わたしがその言葉の意味を理解するよりも前に──また、メフィストの愉快そうな声が聞こえる。
今度は一度ではない。
おや、と。
おやおや、と。
おやおやおや──と。
何がそんなに楽しいのか、スマホ……というやつを見つめながら、声を漏らし続けるメフィスト。彼は大股で足早にわたしの元に近付く。来い来いと、手招きをするのでバルバトスの背から飛び降り、その前に立つ。
「えっと……どうかしたの?」
聞かれるのを待っていたのだろうか、メフィストはすぐに答える。
「アズマさん、やはりあなたの力は本物ですよ!」
何かを察したのか、フルフルがため息をつく。そんなことは気にも留めず、スマホの画面をわたしに向けて声高らかに語る。
──スマホの画面には、無数の赤いドクロのアイコンが並ぶ。
「さきほど、あえてあなたの言葉に反する道を、一部別動隊たちに行かせたのですよ。するとほらこの通り、あのまま下へ向かった隊も、さっき左を行かせた隊も、全滅だ!」
どれも信頼できる優秀な部下たちでしたからね──ちぐはぐな言葉を並べながら、メフィストは満足そうにする。
叫びそうになるのを、無理やり抑え込む。
それでもわたしの目は、メフィストへの拒絶の色を隠しきれてはいないだろう。
だけれど──いまここで、この場所での対立は、それだけは……ただの愚行だと、わたしでも理解できる。理解……出来てしまう。
だから、拒絶せず、対立せず──ただ、微かに意思を示す。
「……二度と、こんなことはやめて」
そう言ってわたしは穴へ入る前に渡されたモノクルを押し付けるように返して、バルバトスのもとへ戻り、進もうとした。
フルフルの稲妻のひかりが強まる。ひかりは一度、行く先を塞ぐように柵を成して、わたしたちの歩みを止める。
フルフルは全員のまえに立ち、そして手を上げ、「一」と、一言言った。その意図を捉えかねて、みんな当惑する。フルフルは少し呆れたように首を振ってから言う。
「それぞれ順番に番号言って、そしてその数を減らさないように努めよう──そういうことだよ。人数が多いからね、メフィストくんみたいなのが悪さをしても、分かりづらい」
だから──フルフルは炎と稲妻で描く矢印をメフィストに向けてから。
「怠惰の翼を掴み、そしてこの死の穴から抜け出したとき……誰か失われていないかを知るために──」
腰を倒して手を伸ばし、わたしの頬を撫でる。
「誰も、犠牲にしないために」
その手は、その言葉は、本当に……温かかった。
頬に当てられた手を握り、そしてフルフルの隣に立ち、わたしはピースサインを掲げて見せる。
「二!」と……精一杯、声を上げると共に。
三──続くのはバルバトス、そしてその次はやはりイシュマエルであった。
声は止まらず、五と、六と七に八と──重なり、連なり、積まれていく。
洞窟の中を反響する声は高らかで、ただ数が増えるだけであるというのに、まるで歌のようだった。
悪魔たちが……きっと、本当は最悪な外道たちも含めて、どこか平和を享受するように自らのナンバーを口にする。生きるということを、噛み締めるように。
六十五──その声で、音は止む。
一同の視線が向く先はメフィストであった。
メフィストは居心地悪そうに、そして牙の根元を一瞬露出させる。フルフルを睨んでから、瞼を下ろし、観念したように呟く。
「──六十六」
フルフルはわたしを持ち上げ、その腕を椅子代わりに乗せる。
「さぁ! みんな、それでは行こうか、わたしたちの向かうべきゴールへと!」
悪魔たちはフルフルの背に続く。
フルフルの肩越しに後ろを覗いてみる。
真ん丸の目の、わたしに小さく手を振るのは、入り口の前にいたあの時にわたしを睨んでいた悪魔──その中の、蜘蛛の少女の悪魔であった。小柄な身体に黄色と黒の危険色、八つの手足からして、明らかに蜘蛛であるが……しかし、少し前と比べると、どこか親しみが感じられる。
──フルフルなら、ほんとうにこの地獄を変えられるかもしれない。
元から疑ってなんかいなかった。心から、信じようとしていた。
それでもやはり不安だった。けれど、もしかすれば……本当に、本当に、ハミルの絶望を生んだ主のひかりの届かない寒さを、フルフルならその炎の熱さで、雷の光で、終わらせることができると、思える。
そんなわたしの考えを見抜いたのだろうか、フルフルはこちらに目を向け、それから微笑む。
そうして、心の波がやっと安らかになった時である。
──頭の中で、誰かが逃げろとそう叫ぶ。




