第三話『愛は掲げられた』-4
「これはどうだ」
と、言うイシュマエルの声がわたしを現実へと引き戻す。
バルバトスが構えてくれたその手のひらの上に飛び降りて、次はそこから床の方へと着地する。
イシュマエルの持つ本はそれほど大きくはなかった。けれど、その手帳のような縦と横のサイズ感には似合わず、とても分厚い。受け取り、開いてみるとページの一枚一枚が異様に薄いことが分かる。
「どんなものを選ぶか。その基準を今の今まで説明していなかったが……」
イシュマエルは少しの間を置いてから。
「きみが選べ。アズマ──というより、きみが知る言葉のある本を選ぶべきだ」
「理由は?」と聞くのはフルフルだった。
「作るのは法であり、平和のための秩序だ。地獄で生きてきたわたしたちよりも、最近まで天国で暮らしていたアズマが選ぶべきだろう」
フルフルは顎に指を当て、それから角にその指を伝わせて、そして頷く。ふたりに視線を向けられて、そのまま文に目を通す。
始まりは、世界の誕生の話であった。
ひかりがあふれ、与えられ、すべてが形作られていく。
第一、 第二、第三と──六回目の日に、世界はひとまずの完成に辿り着く。
物語は続く。続いていく。ひとつひとつは短く、けれど、沢山積み重なるからとても長い。まるで、この一冊そのものがひとつの書庫であるかのようだった。
罪の話が、罰の話が──
「……?」
髪が揺れる感覚を覚え、振り向く。するとフルフルが本棚を背に床に座りながら、愉快そうにわたしの髪を編んでいた。……読み始めて、それなりの時間がたっていたようである。まぁ、十分程度ではあるが、待つには長い。
わたしも、フルフルに並んで座り込む。
罪は恐ろしく、罰は重たかった。それは……背負いきれないほどに。
そしてつぎは短い、けれど積み重なり長く続くいのちの連鎖の物語が始まる。なんどもうまれ、何度も生み、何度も死ぬ。
そうして生と死の果てに、人々の世が生まれ──そして
「──Nephilim?」
知った言葉……名が、目に入る。
Nephilim──上位に在る存在が、人間と結びつき生まれた勇士。その誕生と時を同じくして、理由は分からないけれど……悪が、現れ始めた。
世に、悪が溢れる。
人は滅びる。大きな波が、滅ぼす。
わたしの知る、現実の歴史とは差異はある。けれどこれはあまりに──近しい。
「これのようだね。まさしく」
イシュマエルは満足した様子で言い、わたしの手からその本を取り上げ、懐にしまおうとした。
「待って。まだちゃんと……ほんとにそれで良いのか分からないよ。だってまだ──」
イシュマエルは迷いのない動作で本を開き、そしてあるページをわたしに向ける。
そのページの言葉を目で追い、読み上げる。
「Thou shalt love thy neighbor as thyself」
つまり——隣人を自分のように愛しなさい──ということ。
この本で、問題は──なかった。少なくとも、わたしに合わせるというのなら。
イシュマエルは今度こそ仕舞おうとする。
けれどわたしは、その手を掴み、本の表紙を見る。見忘れていたのだ。題を……この本の、名前を。
そして、目にする、言葉にする。
「The Bible」




