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AGAPE  作者: 銀の鍵
第一章『怠惰』
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第三話『愛は掲げられた』─3

 走る。走る。走り続ける。悪魔たちがあざける中を駆け抜ける。

 けれど突然、その足は止まる。店員の彼女が走るのをやめたのである。


「こっち、良い道がある」


 そう言って彼女は、今度は逆に私を引っ張り路地裏へといざなう。

 生体的な感のない表の通りとは打って変わり、路地裏は水が(したた)り、水面にハエの死骸が浮かび、足元でねずみがわたしの瞳を見上げ、見つめている。ゴミ袋に穴が開いたような香りに思わず嘔吐えずきそうになる。

 しばらく奥に進み、やっと立ち止まったかと思えば、彼女は振り返り、一言(たず)ねる。


「あなた、名前は?」

「え……? あぁ、アズマだけど」


 そう──一言置いて、彼女はわたしの横に立つ。


「その……アズマ・ラファエルがフルネームね。えっと……あの、あなたの名前、聞いてもいい?」


 お互いにさ……言おうとするが、のどが掠れる。


「無いよ、もう。わたしの名前はあいつに取られちゃったから。……まぁ、ハミルって名前だったよ、むかしは」


 ハミルは芝居がかったしぐさで指の先を彼女自身の顎に当てる。少し、目が怖い。


「ラファエルって……あの大天使の?」


 うん──と、返した。

 知ってるの? ——なんて、呑気に言葉を返そうとした時だった。


 私の視界は(まわ)る。

 縦に、溶けるように廻ったのである。

 ハミルがわたしの首を腕で絞め、そして地面にたたきつけた──のである。


「がっ……ぃ、なにして!?」

「は……は! カボチャとファルザクがあんたを気に入ってたのがパフォーマンスかどうかわからなかったけど、これではっきりした! お前、あの大天使の、ラファエルの娘だろ!? 天国にいた頃に耳にしたことがある! そんな特別なあんただ、そりゃファルザクも気に入るさ!」


 のどぼとけを強く押しつぶすその腕を、藻掻(もが)くようにつかむ。


「あのくちばしの悪魔はっ……わたしのことなんてきっと知らないよ!」

「それでもあんたにら価値がある! 代えがたい価値が!」


 わたしを見下ろす彼女の目は血走っていた。まるで赤い蜘蛛の巣が水晶の中を浮かんでいるようである。


「わたしは終わりだ。終わりなんだよ、あいつの罠にはまって、それで殺されて……終わり」


 だけど! ──ハミルは叫ぶ。


「お前を捕まえて、お前を差し出せばきっと、きっと……いのちだけは助かるから」


 ハミルの喉奥から発作のような笑い声が繰り返し吐かれる。

 笑い声。

 だけれど……死んでしまいそうなほどに悲しそうな声。


「ねぇ、お願いだよ。死ぬのは、それだけは……ほんとう、嫌だから……!」

「こんなことしたって救われない。結局苦しんで、苦しみ続ける……だから逃げよう。一緒に逃げようよ!」


 首にかかる力が強まる。頭は重くなり、地面をこする足裏の感覚が消えていく。

 それでも叫ぶ。


「二人で逃げて、そして助け合って、そうやって善の道を行けばきっといつか救われるから……きっと、主が──」

「救わない」


 冷たくて、重たくて、つらそうな声。


「わたしがいままでこの地獄でどうやって生き残ってきたと思う? いっぱい見殺しにして、いっぱい……殺して……」


 雨は降っていない。けれどわたしの額に、()()()()()()が落ち始める。


「わたしは悪い。わたしは、悪なんだよ、悪そのものなんだよ!」


 悪。それは、善の反対側。……天使に対する悪魔のようなもの。


「悪魔の言葉に誘われて、教えより自分のしたいことをしようとして! それで結局、こんなことになって……」


 全身の感覚が失せていく。彼女の言葉だけがあたまに届く。


「そんな悪のことを、主が……善が救うわけがないでしょう!?」


 そんなことない──その言葉を私は言えない。

 喉が押し潰されていたからか、或いは……心の奥底で、否定しきれなかったせいかは、分からない。

 ハミルは何かを拒絶するように叫ぶ。


「ここは地獄だ。地獄に神の光は……救いは届かない。届かないからこその地獄だ!」


 パン──と、音が路地裏を木霊(こだま)する。

 私の靴底が、地面をはじいた音である。ハミルの腕から抜け出し、駆け出す。

 いまは、少しでもいいから離れなくちゃならなかった。ちゃんと彼女と話し合うために、助け合うために──


「っあ?」


 ジグ。そんな音の似合う感覚がふくらはぎを走る。

 剝がれるような、嫌な感じだ。

 痛い。遅れて、ひどい痛みが足にまとわり、わたしはそのまま崩れ落ちる。


 振り返ればそこにはハミルの姿。

 親の消えたひな鳥のような顔で笑う彼女の手にはナイフが握られていた。

 刃のところには、べったりと血と肉が──

 やっと気が付く。わたしは足を刺され、切られ、肉を抉られた。


「が、ぁづ!」


 痛い。知らない。こんな痛み、知らない。

 この痛みを言い表す言葉なんて、わたしのなかには無かった。


 ハミルが迫る。わたしに迫る。

 死にたくないから、怖いから。生きていたいから、辛いから。

 どうすれば良かったのだろう?

 どうすれば救えたのだろう?

 考えてるうちに、彼女はわたしを捕まえようと手を伸ばし──


 そして、ハミルの頭がはじけ飛ぶ。

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