第八話 「七日で変わる匂い」
8話です。
七日目の朝、
王都の空気は、ほんの少し軽かった。
誰も気づかない程度。
けれど、私は分かる。
匂いが、違う。
施療院の廊下を歩くと、
昨日まであった重い湿気が薄れている。
汗の匂い。
薬の匂い。
それはまだ残っている。
だが、その奥に――
粥の匂いがある。
穀物をゆっくり煮た、
やさしい匂い。
私は、鍋の蓋を開けた。
湯気が、静かに立つ。
ふぅわっと。
穀物の甘さ。
塩のほんのわずかな輪郭。
火は弱い。
鍋の中は静かだ。
ゆーっくり。
ゆっくり。
匙で混ぜると、
木の柄が、やさしい音を立てる。
そのとき、廊下の奥で声がした。
「……歩いてる」
私は振り向いた。
寝台にいたはずの男が、
壁を支えながら歩いている。
七日前、
水も飲めなかった兵士だ。
「おい、まだ寝てろ」
医師が慌てて言う。
「いや……」
男は苦笑した。
「腹が……鳴る」
その瞬間、
廊下の空気が変わった。
腹が鳴る。
それは、回復の音だ。
医師は、しばらく男を見ていた。
やがて、小さく呟く。
「……信じられん」
私は、粥をすくう。
「はい、朝ご飯」
男は、座り込むように椅子に腰掛けた。
一口。
目を閉じる。
「……これだ」
声が、震えている。
「これだよ……」
その声は、
すぐに廊下の奥へ広がった。
寝台の人々が、
こちらを見る。
食べたい顔だ。
私は、次の椀をよそう。
そのとき、
施療院の外が騒がしくなった。
人の声。
足音。
荷車の音。
大きな女性が、窓から覗く。
「……おい」
「何?」
「来てる」
「誰が?」
「街」
私は、鍋を止めた。
外へ出る。
施療院の前には、
人が集まっていた。
商人。
職人。
荷運び。
そして、母親と子ども。
皆、同じ匂いをしている。
期待の匂い。
「……粥の人はどこだ」
誰かが言った。
「施療院の粥がすごいって聞いた」
「うちの親父が飲んで、
昨日から歩いたんだ」
噂は、
もう回っていた。
私は、少し困った顔をした。
「ここ、病院なんですけど」
すると、大きな女性が笑った。
「もう遅いね」
そこへ、
細身の男が現れた。
相変わらず、
顔が犯罪だ。
整いすぎていて、
視線が自然に止まる。
だが今日は、
その顔よりも、声が先だった。
「予定通りです」
私は首を傾げる。
「予定?」
「七日で、
噂は王都を一周します」
「……計算してたんですか」
「はい」
男は、静かに続けた。
「人は、
救われた話を必ず広めます」
大きな女性が、肩で笑う。
「悪い話より早いよね」
「希望のほうが軽い」
男はそう言った。
そのとき、
馬の音がした。
硬い蹄の音。
施療院の前で止まる。
降りてきたのは、
上等な服の男だった。
会議の人間だ。
「……七日だ」
彼は、低く言った。
「ええ」
細身の男が答える。
「結果は?」
医師が前へ出た。
紙を差し出す。
「施療院の患者の
三分の一が食事再開」
「三分の一?」
「嘔吐・下痢は半減」
会議の男の目が動く。
「……偶然では?」
私は、静かに言った。
「なら、止めます?」
男は、黙った。
背後では、
王都の人々が、
施療院を見ている。
匂いが流れている。
粥の匂い。
弱い。
でも、確実だ。
会議の男は、
やがて息を吐いた。
「……続けろ」
それだけ言った。
そして、去る。
私は、鍋を見た。
湯気が、ゆっくり上がる。
王都の空に、
細い白い線。
私は、ぽつりと言う。
「……今日の夕飯、
何にしようかな」
大きな女性が笑った。
「王都でそれ言うの、
ほんと好き」
細身の男は、
ほんの少しだけ頷いた。
「記録します」
「何を?」
「王都が、
回り始めた瞬間を」
私は、鍋を混ぜる。
ゆーっくり。
ゆっくり。
火は小さい。
でも、
王都には十分だった。
美味しそうな匂いのする小説って作れないもんですかね。




