第九話 「王都に残る匂い」
9話です。
施療院の前の石畳に、昼の光が落ちていた。
朝の騒ぎはすでに引き、
人の波は街の奥へ戻っている。
それでも、扉の前にはまだ数人が残っていた。
中を覗くように立ち、湯気の匂いを吸っている。
私は鍋の蓋を外した。
湯気が、静かにほどける。
粥は、昨日より少しだけ柔らかい。
穀物が崩れ、水に溶けて、白く広がっている。
匙を入れると、
鍋底に当たる音が小さく響いた。
背後で足音が止まる。
振り返らなくても分かる。
あの人だ。
整いすぎた顔が、
視界に入るだけで空気が静まる。
男は鍋を覗き込んだ。
湯気が彼の頬をかすめる。
少し目を細めた。
「……匂いが残っている」
私は頷く。
「残るようにしてます」
「どうやって」
私は匙を動かした。
「強くしない」
それだけだ。
強い匂いは、消える。
弱い匂いは、残る。
男は少しだけ考え、
ゆっくりと息を吸った。
湯気が胸に落ちる。
「なるほど」
そのとき、
施療院の奥から足音が近づいてきた。
白衣の医師だった。
紙を持っている。
歩き方が、昨日と違う。
迷いが減っている。
紙を差し出す。
私は受け取らない。
男が受け取った。
目を通す。
黙る。
それから、紙を折った。
「増えています」
短い声。
医師は、頷いた。
廊下の奥から、
誰かの笑い声が聞こえた。
乾いた笑いではない。
腹の底からの音。
私は、鍋を見た。
湯気が静かに揺れている。
そのとき、
外から別の匂いが流れ込んできた。
油。
焼き肉。
強い香辛料。
市場の匂いだ。
だが、少し違う。
男も気づいたらしい。
外を見た。
通りの向こうに、
屋台が並んでいる。
鍋が三つ。
湯気が立っている。
そして、
その匂いの奥に、
粥の匂いが混じっていた。
大きな女性が、笑った。
「……早いねぇ」
腕を組んだまま、
顎を上げる。
「真似された」
私は、少しだけ目を細めた。
屋台の男が、
こちらに気づいた。
慌てた顔をする。
それから、
気まずそうに頭を下げた。
私は小さく手を振った。
別に怒る理由はない。
むしろ、
それが目的だ。
細身の男が、静かに言う。
「回りました」
「何が」
「方法が」
街の風が、
施療院の庭を抜けていく。
粥の匂いを連れて。
私は、鍋を火から外した。
底に残った粥を、
静かにかき混ぜる。
それから、ぽつりと言った。
「今日の夕飯、
何にしようかな」
大きな女性が吹き出す。
「それ、
王都で言う台詞じゃないよ」
男は、ほんの少しだけ笑った。
ほんの一瞬。
それだけで、
顔の整い方が余計に際立つ。
犯罪だ。
私は、鍋の縁を拭いた。
火は落ちている。
でも、
匂いは残っている。
王都の空気の中に。
ゆっくり。
本当に、ゆっくり。
街が、
変わり始めていた。
中々、匂いはしません。




