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『鍋ひとつで、王国を救ってしまった件』(連載版)  作者: くろめがね


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第五話 「湯気が、金の流れを変える」

第5話も美味しくどうぞ。

 街は、村よりも音が多かった。


 荷車の軋む音。

 人の声。

 硬い靴底が石を叩く音。


 けれど、匂いは――

 痩せていた。


 焼きすぎた油の匂い。

 古い酒の酸。

 腹を満たすためだけの匂いが、あちこちで立ち止まっている。


「……なるほど」


 私は、小さく息を吐いた。


「ここ、食べてはいるけど、

 生きてはないですね」


 横で、大きな女性が鼻を鳴らす。


「言い切るね」


「匂いが、先に疲れてます」


 彼女は一瞬黙り、それから笑った。


「ほんと、腹の話になると容赦ない」


 街の中心には、市場があった。

 屋台が並び、鍋がいくつも火にかかっている。


 だが――

 どれも、似た匂いだ。


 濃い。

 重い。

 そして、早い。


 短時間で腹を満たすための匂い。

 長く生きるための匂いじゃない。


「ここが、補給の要です」


 細身の男が言った。

 相変わらず、姿勢が整っている。

 顔は……朝から反則だ。


「村で整えた“回り”を、

 街に通します」


「通す、って?」


「金です」


 即答だった。


「人が動くには、

 必ず金が要る」


 私は、市場を見回した。


「……でも、

 今の金の流れ、胃に悪いです」


 男が、わずかに眉を動かす。


「理由は?」


「重いから。

 毎日、同じ匂いを食べてると、

 身体が拒否します」


「拒否すると?」


「働かなくなる」


 大きな女性が、肩で笑った。


「分かりやすいねぇ」


「腹が回らないと、

 手も回らないので」


 私は鍋を下ろした。


「一日、借ります」


「何を?」


「場所と、火」


 男は少し考え、頷いた。


「許可します」


「早いですね」


「前線で結果を見ました」


 それだけで十分だった。



 私は、市場の端に鍋を置いた。


 派手な場所じゃない。

 人の通りが、少し外れた場所。


 でも――

 風が通る。


 匂いは、風に乗る。


 水を張り、

 骨を入れる。


 村と同じ。

 けれど、今日はもう一つ足す。


 豆。

 乾いた豆。


 この街で、一番安くて、

 一番余っているもの。


 火を入れる。


 ゆーっくり、

 ゆっくり。


 豆は急ぐと、固くなる。

 急かすと、腹に残る。


 だから、待つ。


 鍋の中で、豆が水を吸う音がする。

 しずかに、しずかに。


 匂いが、変わり始めた。


 甘さと、土の匂い。

 素朴で、落ち着く匂い。


「……あれ?」


 最初に気づいたのは、商人だった。


 帳簿を抱えたまま、足を止める。


「なんだ、この匂い」


 次に、荷運びの男が立ち止まる。


「腹、減ったわけじゃないのに……」


 私は、鍋を混ぜた。


 音が、軽い。


 そこへ、刻んだ野菜を入れる。

 売れ残りの、端切れ。


 それでいい。


 湯気が立ち、

 匂いが、少しだけ丸くなる。


 塩を、ほんのひとつまみ。


 すると――

 市場の空気が、変わった。


 人が、集まり始める。

 でも、押さない。

 急がない。


 大きな女性が、腕を組んで言う。


「……これ、

 売り物にしないの?」


「しません」


「は?」


「今日は、配ります」


 彼女が、目を見開く。


「金、いらない?」


「今日は、いらないです」


 細身の男が、静かに口を挟んだ。


「理由は?」


「回すためです」


 私は答える。


「食べられる人が増えると、

 動ける人が増えます」


「動くと?」


「働きます」


 男は、少しだけ考えた。


「……続けると、

 周りが真似をしますね」


「はい」


「豆が、回る」


「野菜も、回る」


 大きな女性が、吹き出した。


「金も、回るってか」


「はい」


 私は、最初の一杯を差し出した。


 受け取ったのは、痩せた靴職人だった。


 一口飲み、

 目を閉じる。


「……重くない」


「でしょう」


「昼に、

 また作業できそうだ」


 その一言で、

 空気が変わった。


 次の人が、手を伸ばす。

 次、次。


 列はできない。

 流れる。


 流れる、という匂い。


 細身の男が、低く言った。


「……市場が、

 止まっていない」


 私は、鍋を混ぜながら答える。


「止めないのが、目的なので」


 大きな女性が、感心したように言う。


「あんた、

 戦わずに街を落とすね」


「落としてません」


「じゃあ、何?」


「……起こしただけです」


 日が傾く頃、

 豆の鍋は空になった。


 でも、市場はまだ動いている。

 人の声が、増えている。


 細身の男が、静かに言った。


「報告します」


「何を?」


「この街は、

 明日も回る、と」


 私は鍋を洗いながら、

 いつもの言葉を口にした。


「今日の夕飯、

 何にしようかな」


 それを聞いて、

 誰かが笑った。


 市場で、

 笑い声が立つ。


 湯気は、もう見えない。

 でも、流れは残った。


 ――次は、

 王都だ。


 火は、

 さらに大きな場所へ運ばれる。


 ゆっくり、

 ゆっくりと。


最後まで美味しく召し上がっていただきありがとうございます。

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