第十話 火は、人から人へ移る
第十話です。
その日の夕暮れ、施療院の門は閉まる気配を見せなかった。
日が傾けば病人は眠り、人の出入りも途絶えるはずなのに、石畳には絶えず足音が響き、誰かが鍋を抱えて訪れ、誰かが空になった器を胸に抱えて帰っていく。その流れには不思議な静けさがあった。列を作って押し合う者はいない。ただ、自分の順番を待ちながら、湯気を眺めている。
その顔は七日前とは違っていた。
腹を押さえていた手が、器を持っている。
俯いていた目が、鍋を見ている。
それだけの変化なのに、庭全体が明るく見えた。
「……増えたねぇ」
大きな女性が空になった桶を肩へ担ぎ、門の外を見渡しながら口元を緩める。
「人だけじゃありません」
私は鍋の底を木べらでゆっくりとなぞった。
「匂いもです」
庭へ吹き込む風が変わっていた。
昼までは施療院から街へ流れていた湯気が、今は逆に街のあちこちから戻ってくる。
玉ねぎを甘く煮た匂い。
豆を炊く匂い。
薄い塩の匂い。
どれも少しずつ違う。
でも、どれも同じ方向を向いている。
細身の男は目を閉じることもなく、その風を静かに受け止めていた。
「……戻ってきています」
「はい」
「面白い」
その一言だけだった。
感情を大きく表に出す人ではない。
それでも、その声が少しだけ柔らかくなったことに気づく。
そのときだった。
馬の蹄が石畳を打つ乾いた音が、庭の空気を一瞬で塗り替えた。
速い。
一頭ではない。
三頭。
門番が慌てて姿勢を正し、施療院の者たちも自然と手を止める。
土煙が夕日に染まり、その向こうから紋章の入った馬車がゆっくり姿を現した。
街で見かける商人のものではない。
兵のものでもない。
深い紺地に銀糸で刺繍された紋章を見た瞬間、周囲の空気がぴんと張る。
細身の男が、小さく息を吐いた。
「……来ましたか」
馬車の扉が開く。
先に降りてきたのは、年配の男だった。
白い手袋。
皺ひとつない上着。
歩幅は小さいのに、周囲が自然と道を空ける。
男は施療院ではなく、真っ直ぐ鍋を見た。
湯気が夕日に照らされ、細い金色の帯になって揺れている。
男は一歩近づき、ゆっくり息を吸う。
ほんの一瞬だけ、目を細めた。
「……この匂いか」
誰へ向けた言葉でもない。
それでも庭にいた全員が聞いていた。
私は木べらを止めず、静かに混ぜ続ける。
ゆーっくり。
ゆっくり。
鍋の底を傷つけないように。
穀物を崩しすぎないように。
湯気は変わらず立ち続ける。
男の視線が私へ移る。
鋭い。
値踏みする目ではない。
確かめる目だ。
「君が作ったのか」
「はい」
「この施療院だけか」
私は首を横に振った。
「違います」
「では?」
「もう、違います」
男の眉がわずかに動く。
私は門の外へ目を向けた。
夕暮れの街に、小さな湯気がいくつも立っている。
屋台。
食堂。
家々の煙突。
細い白い線が、夕焼けの中へ溶け込んでいた。
「火は、一つじゃ広がりません」
木べらをゆっくり返す。
「誰かが持って帰って、誰かが真似をして、また誰かが少しだけ変えて、それでようやく街の匂いになります」
庭が静まり返る。
風だけが吹き抜ける。
その風に乗って、遠くから子どもの笑い声が聞こえた。
昨日まで聞こえなかった声だった。
年配の男は、その笑い声のほうへゆっくり顔を向ける。
ちょうど通りの角から、小さな女の子が椀を両手で抱えながら走ってきた。
「お母さん!」
転びそうになりながらも椀を落とさず、そのまま母親の胸へ飛び込む。
「今日ね、おうちでも作るんだって!」
母親が照れくさそうに笑い、娘の頭を撫でる。
「市場のおじさんが教えてくれたの」
私は思わず目を細めた。
若い料理屋だった。
店先で鍋をかき混ぜながら、こちらを見る。
目が合う。
照れくさそうに頭を掻き、それでも胸を張るように笑った。
その笑顔を見た瞬間、大きな女性が腹の底から笑い出した。
「ほらね!」
桶をどん、と地面へ置く。
「もう誰の鍋でもなくなった!」
その声に釣られるように、庭のあちこちで笑いが起こる。
細身の男だけは静かだった。
夕暮れに染まる王都を見つめたまま、小さく呟く。
「……遅かったな」
「何がです?」
「こうなるのが」
私は鍋を見た。
白い湯気が、今日も細く立ち上る。
強くない。
だから消えない。
その一本が風に乗り、王都の屋根を越え、路地を抜け、誰かの夕飯へたどり着いていく。
その景色を見ていた年配の男が、静かに振り返った。
「明日、王城へ来てもらおう」
その一言で、庭の空気が止まる。
誰も口を開かない。
夕日に照らされた鍋だけが、小さく、小さく湯気を立て続けていた。
美味しい匂いはまだまだしてきません。




