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『鍋ひとつで、王国を救ってしまった件』(連載版)  作者: くろめがね


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11/11

第十一話 王城から、夕飯を作れと言われた

11話です。

 翌朝、施療院の厨房に入った瞬間、私は立ち止まった。


「……増えてる」


 昨日まで壁際に積まれていたのは、欠けた椀と、使い込まれて黒くなった鍋、それからいつ補充されるのか分からない穀物の袋くらいだったのに、今朝はその横に見覚えのない木箱が三つ置かれていて、蓋の隙間から青々とした葉野菜が覗き、さらにその奥には泥のついた根菜と、まだ朝露の匂いを残した細い葱まで束になっていた。


 しゃがみ込み、一本抜いて鼻先へ近づける。


 土。


 青い葉。


 それから、切れば少しだけ辛そうな、瑞々しい匂い。


「いい葱」


「そこなのかい?」


 後ろから呆れた声が飛んできた。


 振り返れば、大きな女性が入口いっぱいに立っている。今日も胸の前で腕を組んでいるせいで、ただでさえ豊かな身体つきがさらに堂々として見え、細い厨房の入口が少し気の毒だった。


「誰が持ってきたんです?」


「知らないよ。朝来たら置いてあった」


「お金は?」


「知らない」


「怖いですね」


「野菜見て最初にそこ心配しな」


 そう言われても、料理人としては野菜の状態のほうが先に目に入る。


 根菜を一つ持ち上げると、形は悪いが固さは十分で、爪を軽く立てても表面がへこまない。長く置かれて萎びたものではなく、おそらく昨日か一昨日に土から抜いたものだろう。


「これ、村から来てます」


「分かるの?」


「匂いがまだ畑です」


「そのうち人間も畑か街か嗅ぎ分けそうだね、あんた」


「さすがにそれは……」


 言いかけて、入口の外へ目を向ける。


 細身の男が立っていた。


 今日も姿勢が妙に綺麗で、朝の光が横から差しているせいか鼻梁の影まで無駄に整って見え、厨房という場所に立っているだけなのに、そこだけ誰かが背景を描き直したみたいになっている。


 私は少し考えた。


「王都」


「何がです」


「いえ。何でもありません」


 危なかった。


 本当に人間まで嗅ぎ分け始めたと思われるところだった。


 大きな女性が腹を抱えて笑っている。


「今、こいつ嗅いだだろ!」


「嗅いでません」


「嗅ぎましたね」


「そっちまで乗らないでください」


 細身の男の口元が、ほんのわずかに上がる。


 朝から顔が犯罪だった。


 私は逃げるように木箱へ向き直り、葱と根菜を分けていく。


 今日は粥だけではなく、少し形を残したものを作ってみようと思っていた。


 施療院には、もう粥しか口にできない人ばかりではない。


 昨日まで寝台から起き上がれなかった人が廊下を歩き、朝になると厨房のほうを覗き込み、まだ飯じゃないのかという顔をするようになった。身体が戻れば、舌も戻る。舌が戻れば、同じものだけでは飽きる。


 それは、嬉しい面倒だった。


「今日は、何を?」


 細身の男が木箱を覗き込む。


「スープにします」


「またですか」


「またって言いました?」


「言いました」


「飽きました?」


「私はまだ三杯しか食べていません」


「十分食べてるじゃないですか」


 大きな女性がまた笑う。


「この男、昨日もおかわりしてたよ」


「余計な報告は不要です」


「顔は涼しいくせに腹は正直だねぇ」


 珍しく、細身の男が視線を逸らした。


 私は見なかったことにして根菜を切る。


 包丁がまな板を叩くたび、こつ、こつ、と乾いた音が厨房に響き、切った断面から土臭さの奥に隠れていた淡い甘さが立ち上ってくる。それを鍋へ落とし、昨日取っておいた薄い出汁を注ぐと、まだ火も入れていないのに、冷たい水の中で野菜の匂いが少しずつ混ざり始めた。


 火を入れる。


 最初は少し強く。


 鍋肌が温まり、小さな泡が底に貼りつき始めたところで弱める。


 ここからは急がない。


 ゆーっくり。


 ゆっくり。


 野菜が、自分から柔らかくなるまで待つ。


「……それ、昨日の店でもやってたよ」


 大きな女性が窓の外を見ながら顎をしゃくった。


 昨日の若い料理屋の店だった。


 朝だというのに、もう七、八人が並んでいる。


 大きな鍋の前で、若い男が木べらを動かしていた。


 少し速い。


 途中で気づいたらしく、手を止める。


 こちらを見る。


 私と目が合う。


 木べらを見る。


 もう一度、ゆっくり動かし始めた。


 私は笑った。


「覚えてますね」


「何も教えてないのに?」


「だからですよ」


 昨日までなら、そこで終わっていた。


 ところが今日は、その隣の屋台にも鍋があった。


 さらに向かい側にもある。


 形は違う。


 中身も違う。


 一つは豆が多く、もう一つは刻んだ葉野菜がたっぷり浮いている。それでも、どちらの鍋も火が以前より穏やかで、店主たちは客を急かさず、熱すぎる椀をそのまま渡すこともしなくなっていた。


 小さな男の子が椀を受け取り、ふう、ふう、と息を吹きかける。


 母親が横から一口もらう。


 何か言う。


 男の子が椀を抱えて逃げる。


 母親が追いかける。


 店主が笑う。


 朝の通りに、その笑い声が混じった。


「……いいなぁ」


 口から勝手に出た。


「何がです?」


「朝ご飯のある街って、いいですね」


 細身の男は何も返さなかった。


 ただ、しばらく通りを見ていた。


 鍋の中で、根菜が少しずつ柔らかくなっていく。


 葱を最後に入れる。


 途端に匂いが変わった。


 煮込んだ野菜の丸い甘さの上を、葱の青い香りがふぅわっと走り、重くなりかけていた湯気を軽くして、そのまま開け放した窓から外へ抜けていく。


「お」


 大きな女性の鼻が動く。


「今日のは元気な匂いだ」


「少し食べられるようになった人向けです」


「なるほどねぇ。腹にも段階があるわけだ」


「昨日まで一口だった人に、元気になったからって肉の塊を出したら、また寝台に戻りますから」


「肉……」


 後ろで声がした。


 振り向く。


 施療院の患者が三人、厨房の入口から顔だけ出していた。


「聞こえた?」


「肉って聞こえた」


「俺も聞いた」


「まだです」


 三人揃って肩を落とす。


「いつだ」


「ちゃんと歩けるようになったら」


「歩ける」


「昨日、廊下で転びましたよね」


「……あれは床が悪い」


「床に謝ってください」


 大きな女性が堪えきれずに吹き出し、入口の三人も悔しそうな顔のまま笑い始める。


 その笑い声を聞きながら、私は塩をほんの少しだけ落とした。


 こういうのでいい。


 病人が病人の顔をしなくなる瞬間は、大げさな奇跡なんかじゃなくて、肉が食いたいとか、隣の奴の椀のほうが多いとか、そういうくだらないことで喧嘩を始める頃にやってくる。


「明日は肉にしましょうか」


 三人の顔が一斉に上がった。


「本当か!」


「食べられる人だけ」


「歩いてくる!」


「走らないでください」


「おい、廊下空けろ!」


「だから走らない!」


 ばたばたと足音が遠ざかる。


 医師が廊下の奥から怒鳴った。


「何をしている!」


「訓練!」


「寝ろ!」


 また笑い声が上がった。


 私は木べらを持ったまま、少しだけ俯いた。


 笑ってしまったからだ。


 前線に落ちてきたあの日、こんな音を聞くことになるとは思わなかった。


 剣の音でも、号令でもない。


 飯を巡って怒られる、大人たちの声。


「……悪くないですね」


 隣から聞こえた。


 見ると、細身の男も廊下を見ていた。


「笑いました?」


「いいえ」


「今、笑ったでしょう」


「証拠は?」


「見ました」


「記録がありません」


「ずるい」


 大きな女性が胸を揺らして笑った、その直後だった。


 外の空気が変わった。


 最初に聞こえたのは、馬の鼻息だった。


 続いて、蹄鉄が石畳を打つ硬い音が一つ、二つ、三つと重なり、通りの喧騒が波を引くように小さくなっていく。


 厨房の窓から外を見る。


 黒塗りの馬車が止まっていた。


 昨日の役人が乗ってきたものより大きい。


 車輪には泥一つなく、扉には銀色の紋章が刻まれている。


 それを見た瞬間、若い料理屋が木べらを止めた。


 向かいの屋台も静かになる。


 大きな女性の笑顔が消えた。


「……あれ、まずいやつ?」


 細身の男は答えなかった。


 いつもの整った顔から、わずかに温度だけが消えている。


「知ってるんですか」


「ええ」


「誰です?」


 返事より先に、馬車の扉が開いた。


 白い手袋。


 磨かれた靴。


 灰色の髪をきっちり後ろへ撫でつけた老人が降りてくると、通りにいた人々が次々に頭を下げ、さっきまで椀を抱えていた子どもまで母親に肩を引かれて脇へ寄せられる。


 老人は誰にも目を向けなかった。


 施療院を見る。


 次に、煙突。


 そして窓から流れ出している湯気へ顔を向けた。


 鼻が、わずかに動く。


「……葱ですね」


 私は思わず瞬きをした。


 老人の視線がこちらへ来る。


「正確には、葱と根菜。それから、薄い骨の出汁」


「分かるんですか」


「王城の厨房を三十七年預かっておりますので」


 大きな女性が小さく口笛を吹いた。


 老人は気にした様子もなく厨房へ入り、鍋の前まで来ると、私ではなく、まず中を覗いた。


「濁っていますな」


「はい」


「王城なら、やり直しです」


「でしょうね」


「怒らないのですか」


「ここ、王城じゃないので」


 一拍。


 大きな女性が横を向いた。


 肩が震えている。


 笑うな。


 絶対笑うなという顔をしている。


 老人の眉が、ほんの少し上がった。


「なるほど」


 細身の男が額に指を当てている。


 珍しい。


「あなたは……もう少し相手を見て話したほうがいい」


「見てますよ」


「そういう意味ではありません」


 老人がこちらと細身の男を交互に見る。


「お知り合いでしたか」


「不本意ながら」


「不本意なんですか」


「今は黙っていてください」


 ちょっと面白くなってきた。


 私は小皿を取り、鍋のスープを少しだけ入れた。


「飲みます?」


 老人が初めて私の顔をまともに見た。


「私に?」


「匂いだけで帰るなら別ですけど」


 また一拍。


 今度こそ大きな女性が吹き出した。


「ご、ごめん……無理……」


 老人は怒らなかった。


 白い手袋を外し、丁寧に畳んで懐へしまうと、小皿を受け取った。


 湯気を嗅ぐ。


 口をつける。


 一口だけ。


 そこで止まった。


 もう一口。


 今度は少し多い。


 私は何も聞かず、鍋を混ぜた。


 葱の香りが、また立つ。


「……塩が少ない」


「はい」


「脂も少ない」


「はい」


「肉もない」


「今日はまだ早いので」


「なのに」


 老人の視線が小皿へ落ちる。


「もう一口、飲みたくなる」


 大きな女性がにやりとした。


「でしょう?」


「あなたが威張ることではない」


「細かいねぇ」


 老人は最後まで飲んだ。


 空になった皿を、音を立てずに台へ戻す。


「明日の正午」


「はい?」


「王城へ」


 厨房が静かになった。


 私は木べらを持ったまま、老人を見る。


「何しに?」


 細身の男が目を閉じた。


 大きな女性が口元を押さえた。


 老人だけが真顔だった。


「料理人を王城へ呼んで、他に何をさせると?」


「……皿洗い?」


「夕餉です」


 外で何かを落とす音がした。


 若い料理屋だった。


 木べらが石畳に転がっている。


「王城の……?」


 大きな女性の声まで、少し裏返った。


「ええ」


「誰の?」


 老人はそこで初めて、細身の男へ目を向けた。


 二人の視線が重なる。


 嫌な間だった。


 ものすごく嫌な間だった。


「……聞いてないんですけど」


 私が細身の男を見る。


「私も今、確定しました」


「何が?」


 老人が白い手袋をはめ直した。


 指先まで丁寧に整え、最後に袖口を一度だけ引く。


「陛下がお召しです」


 木べらが、私の手から落ちた。


 からん。


 やけにいい音がした。


「……誰?」


「国王陛下です」


「それは分かります」


 頭の中で、前線から今日までの出来事がものすごい速さで走っていく。


 倒れた兵士。


 子どもの粥。


 村の鍋。


 街の豆。


 施療院。


 若い料理屋。


 そして――国王。


「ちょっと待ってください」


「待ちません」


「私、王様に出す料理なんて作ったことありません」


「でしょうな」


「作法も知りません」


「でしょうな」


「服もこれです」


 自分の身体を見る。


 転移した日から着ている料理人の服は洗ってはいるものの、袖には小さな染みが残り、どう考えても王城へ行く格好ではない。


 老人は上から下まで眺めた。


「そのままで結構」


「本当に?」


「陛下がお呼びなのは、貴婦人ではありません」


 老人の視線が、鍋へ落ちる。


「この鍋を作った料理人です」


 胸の奥が、妙に静かになった。


 怖くないわけじゃない。


 むしろ怖い。


 前線で目覚めたときより、たぶん怖い。


 でも、鍋を見ると落ち着く。


 根菜が柔らかく煮えている。


 葱の青い香りが、まだ残っている。


 火はちょうどいい。


「……分かりました」


 老人が頷く。


「では明日」


「あ、一つだけ」


 歩き出した老人が止まる。


「陛下って、何が好きですか」


 振り返った顔に、初めて人間らしいものが浮かんだ。


 驚きだった。


「好きなもの?」


「はい。夕飯作るなら必要なので」


 老人はしばらく黙り、それから目を伏せた。


「……誰も、そんなことを聞かなくなりましたな」


 声が少しだけ変わった。


「昔は、鶏の煮込みを」


「昔?」


「王になる前です」


 それだけ残して、老人は馬車へ戻っていった。


 蹄の音が遠ざかっても、しばらく誰も口を開かなかった。


 最初に限界を迎えたのは、大きな女性だった。


「王様だってさ」


「聞こえてました」


「夕飯だって」


「聞こえてました」


「どうすんの?」


 私は鍋を見た。


 鶏。


 煮込み。


 王になる前。


 その三つを頭の中で転がしていると、不思議と怖さより先に、作りたい味が浮かんできた。


 細身の男がこちらを見ている。


「何を作るつもりです?」


「まだ秘密です」


「材料の手配があります」


「じゃあ、鶏ください」


「他には?」


「玉ねぎ。根菜。塩。それと――」


 言いながら、少し笑ってしまう。


「王様のお腹、空かせておいてください」


 大きな女性が、腹を抱えて笑った。


「無茶言うねぇ!」


 細身の男は額に手を当てたまま、深く息を吐く。


「……陛下に空腹を命じた人間を、私は初めて見ました」


「だって」


 鍋から、ふぅわっと葱の香りが立つ。


 私は木べらを拾い、軽く洗ってから、もう一度鍋へ戻した。


「お腹が空いてない人に、ご飯を出しても仕方ないでしょう?」


 夕方の王都には、今日もいくつもの湯気が上がっていた。


 前線でたった一つだった火は村へ渡り、街へ渡り、名前も知らない誰かの台所へ渡って、とうとう王城の門を叩いた。


 でも、明日やることは変わらない。


 火を見て、匂いを嗅いで、その人が食べられるものを作る。


 相手が兵士でも。


 子どもでも。


 病人でも。


 王様でも。


 私は鍋の蓋を閉めながら、いつものように呟いた。


「……明日の夕飯、何にしようかな」


 今度ばかりは、誰も笑わなかった。


 ただ大きな女性だけが、しばらくしてから小さく息を吐いた。


「とんでもないところまで来たねぇ」


 私は窓の向こうに見える王城を眺めた。


 夕日に照らされた尖塔の上で、旗がゆっくり揺れている。


 その下にいる人が、どんな顔でご飯を食べるのか。


 今は、それだけが少し気になった。

誤字脱字はお許しください

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