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はぐれ竜と捨て子の家  作者: Atelier Lotus文庫
本編

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6/8

第5話 さらわれた子ども

 その日の朝も、いつもと変わらなかった。


「ガルド、これ食べる?」


 ユノが何かを差し出してくる。


「お前が食べろ」


「いらない」


「なら最初から取るな」


「食べると思ったんだもん」


「俺が?」


「うん」


 ガルドは差し出されたものを見る。


 食べられないものではない。


 だが今はいらなかった。


「置いておけ。あとで腹が減ったら食べる」


「分かった」


 ユノは素直に引っ込めた。


 少し前なら、そんなやり取りすらなかった。


 けれど今では、朝になればユノがいて、何かを話し、ガルドが返事をする。


 出かけるなら行き先を聞く。


 帰りが遅ければ気にする。


 食べていなければ食べろと言う。


 それだけのことだ。


 ユノがいるのだから、そうする。


「今日はあんまり遠くに行くなよ」


「なんで?」


「昨日、向こうで崩れた場所があった」


「どこ?」


「お前が行く必要はない」


「見るだけ」


「見る必要もない」


「けち」


「けちでいい」


 ユノが頬を膨らませた。


 ガルドは気にせず身体を起こす。


 そのときだった。


 遠くで、鳥が一斉に飛び立った。


 ガルドは顔を上げた。


「……ガルド?」


「静かにしてろ」


 ユノの表情が変わる。


 山の音は、長く暮らしていれば分かる。


 風で枝が揺れた音。


 動物が走った音。


 何かが落ちた音。


 そして、誰かが近づいてくる音。


 今のは最後だった。


 ガルドは住処の外へ出る。


 ユノも後ろからついてきた。


「中にいろ」


「誰か来るの?」


「分からん」


「じゃあ見る」


「ユノ」


「ガルドの後ろにいる」


 言い返そうとして、やめた。


 すでにユノはガルドの後ろへ回っている。


「絶対に前へ出るな」


「うん」


 しばらくして、木々の向こうから人影が現れた。


 男だった。


 旅装の上から防具を身につけ、腰には剣がある。


 山で迷った者には見えない。


 最初からここを目指してきた足取りだった。


 男もガルドを見つけ、立ち止まる。


 その視線が、一度ガルドへ向き――すぐ後ろのユノへ移った。


 男の顔が険しくなる。


「……やはりいたか」


 ガルドは身体を低くした。


「何の用だ」


 男の手が剣の柄へ触れる。


「その子を返してもらう」


 意味が分からなかった。


「返す?」


「人間の子どもだ」


「見れば分かる」


「なら話は早い。その子をこちらへ」


 ガルドは動かなかった。


 後ろでユノが服の裾ではなく、ガルドの鱗へ手を置く気配がした。


「誰に返す」


 男が眉を寄せる。


「人間のもとへだ」


「誰だ、それは」


「……何?」


「誰にユノを返せと言っている」


 男の視線が鋭くなった。


「名前まで付けているのか」


「名前がなければ呼べないだろう」


「そういう話をしているんじゃない」


 男は息を吐いた。


 怒鳴り散らすわけではない。


 むしろ、自分を落ち着かせようとしているように見えた。


「俺は勇者、セドリックだ」


 名乗ってから、男――セドリックはユノへ視線を向けた。


「君を助けに来た」


「……私?」


「ああ」


 ユノがガルドの後ろから半分だけ顔を出す。


「何から?」


 セドリックが一瞬、言葉を止めた。


「その竜からだ」


 ユノはガルドを見上げた。


 それから、もう一度セドリックを見る。


「なんで?」


 今度はセドリックが黙った。


 ガルドにも、ユノが何を聞き返しているのかは分かった。


 だがセドリックにとっては、そうではないらしい。


「君は、ここにいる必要はない」


「いるよ」


「……長く一緒にいたのか?」


「うん」


「なら、そう思ってしまうのも無理はない」


 ユノの眉が寄った。


「思ってしまう?」


「ユノ」


 ガルドは低く呼んだ。


「俺の後ろにいろ」


「いるけど」


「もっと後ろだ」


 不満そうな顔をしながらも、ユノは一歩下がった。


 セドリックの手はまだ剣の柄にある。


 そこから離れない。


「その子を渡せ」


「断る」


「人間の子どもを竜が囲っていて、それを見過ごせると思うのか」


「囲っていない」


「なら、こちらへ来させろ」


 ガルドは答えなかった。


 ユノがセドリックのところへ行く。


 その姿を思い浮かべただけで、胸の奥がざらついた。


 嫌だった。


 理由を考える前に、身体がユノとセドリックの間へ入る。


 セドリックの目が細くなった。


「それが答えか」


「ユノに近づくな」


「近づいているのはどちらだ」


「何?」


「人間の子どもを山の中へ置き、自分のそばから離そうとしない」


「お前は何を言っている」


「聞いた話と何も違わない」


 ガルドの背中で、ユノが小さく動いた。


 聞いた話。


 その言葉だけで十分だった。


 どこかで、自分とユノのことが知られた。


 そして何かが歪んで伝わったのだ。


 セドリックは、最初からガルドをユノをさらった竜だと思っている。


「俺はユノをさらっていない」


「なら、どうして人間の子どもがここにいる」


 答えかけて、ガルドは口を閉じた。


 どこまで話すべきなのか分からなかった。


 ユノが捨てられていたこと。


 誰も戻らなかったこと。


 自分が連れて帰ったこと。


 それを今、この男へ説明する必要があるのか。


 そもそも、剣へ手をかけたままの相手に。


「話せないのか」


 セドリックの声が硬くなる。


「違う」


「なら説明しろ」


「お前に説明する義理はない」


「ある。人の子を連れている以上はな」


 その言葉に、ガルドの爪が地面を掻いた。


「ユノは物じゃない」


「だから言っている」


 セドリックの声が少し強くなる。


「その子には、その子の人生がある」


 ガルドは黙った。


「人間の子どもなら、人間の中で生きる道だってある。学ぶことも、友人を作ることも、自分で行き先を選ぶこともできる」


「……」


「お前がその子を大事にしているつもりなのは分かる」


 予想していなかった言葉だった。


 ガルドはセドリックを見る。


「だが、大事にすることと、ここに留めていいことは同じじゃない」


「私は――」


「ユノ」


 ガルドは反射的に遮った。


 ユノが黙る。


 その瞬間、自分の声が妙に大きく聞こえた。


 セドリックがガルドを見る。


「ほらな」


「何がだ」


「その子自身に答えさせない」


「危険だから下がらせているだけだ」


「俺から守るために?」


「剣を持っているだろう」


「お前が襲わなければ抜かない」


「ユノを連れていこうとしている」


「助けるためだ」


「必要ない」


「それを決めるのはお前じゃない」


 ガルドは言葉を失った。


 すぐに腹が立った。


 何も知らない人間が、勝手なことを言っている。


 ユノが幼い頃から、どれだけ手がかかったか知らない。


 泣いても理由が分からなかったことも。


 眠っているのか何度も確認したことも。


 危ないものをどかしたことも。


 食べるものを気にするようになったことも。


 何も知らない。


 それなのに現れて、連れていくと言う。


 渡せるはずがなかった。


「帰れ」


 ガルドは言った。


「ユノは渡さない」


 セドリックの手が、ゆっくり剣を抜いた。


 金属の音が山の静けさを裂く。


 ユノがガルドの後ろで息を呑んだ。


「なら、力ずくでも連れていく」


 ガルドはユノを完全に背へ隠した。


「やってみろ」


「ガルド」


「下がれ」


 今度はユノが従わなかった。


「でも」


「下がれ」


 声を強くすると、ユノは数歩離れた。


 その足音を確認してから、ガルドはセドリックへ向き直る。


 怖くはない。


 戦うことそのものではない。


 怖いのは、その先だった。


 もし負ければ。


 ユノを連れていかれる。


 その考えだけで、身体の奥から何かがせり上がった。


「そんなに離したくないか」


 セドリックが言った。


「当たり前だ」


「なぜだ」


「何?」


「その子のためか。それとも、お前のためか」


 ガルドの動きが止まった。


「何が言いたい」


「人間の子どもには、人間の子どもの暮らしがある」


「さっき聞いた」


「なら考えろ」


 セドリックは剣を構えたまま、ユノを見る。


「この山で、お前と暮らすことしか知らないままでいいのか」


「……」


「お前が一緒にいたいから、その子の選べるものまで減らしていないと言えるのか」


 言い返せなかった。


 違う。


 そう言えばよかった。


 ユノを閉じ込めたことはない。


 好きな場所へ行くこともある。


 自分の知らないところで何かを見つけて帰ってくることもある。


 それでも。


 ガルドは人型になれない。


 人間と同じ姿で歩けない。


 人間の暮らしの中で、ユノへ何を与えられるのか。


 考えたことがなかったわけではない。


 考えないようにしていただけなのかもしれない。


 ユノが食べればよかった。


 眠ればよかった。


 笑っていれば、それでいいと思っていた。


 それで足りるのか。


 人間の子どもであるユノへ、自分は必要な暮らしを十分に与えられているのだろうか。


「ガルド?」


 背後から声がした。


 返事ができなかった。


「迷うんだな」


「黙れ」


「迷えるなら、まだ話はできる」


「黙れと言っている」


 ガルドは一歩前へ出た。


 セドリックも剣を上げる。


 それでも頭の中では、別のことが離れなかった。


 ユノを失いたくない。


 それは間違いなかった。


 なら、その気持ちは本当にユノのためなのか。


 かつては一人で生きていた。


 誰かを待つこともない。


 誰かの帰りを気にすることもない。


 自分の分だけあれば、それでよかった。


 今さら、あの暮らしへ戻れるのか。


 戻りたくないからユノをここへ置いているだけではないのか。


「ガルド」


 またユノが呼んだ。


 今度の声は、さっきより近かった。


「来るな」


「でも、ガルド――」


「俺が何とかする」


「何を?」


 ガルドは答えられなかった。


 セドリックを追い返すことなのか。


 ユノを守ることなのか。


 それとも。


 ユノが自分とは違う場所で生きる方がいいのなら、それを受け入れることなのか。


 分からない。


 分からないまま、ユノを渡したくない気持ちだけは消えなかった。


 セドリックが剣を握り直す。


「その子の人生を、お前一人で決めるな」


 ガルドの胸に、その言葉が残った。


 腹立たしい。


 何も知らないくせにと思う。


 それでも、完全には振り払えなかった。


「……ガルド」


 ユノの声がする。


 ガルドは振り返らなかった。


 だが今度は、「下がれ」とも言えなかった。


 自分が決めていいのか。


 セドリックが決めていいのか。


 どちらも違うのだとしたら。


 背後で、ユノが一歩踏み出す音がした。

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