第3話 二人の暮らし
翌朝、ガルドは眠らないまま朝を迎えた。
正確には、何度か目を閉じた。
だが、そのたびに小さな音がすると目を開けた。
幼児が寝返りを打つ。
息をする。
少し手を動かす。
それだけで気になった。
「……ちゃんと生きているな」
何度目か分からない確認をする。
幼児は眠っている。
昨日の夜、何度も泣いたくせに、眠ってしまえば静かなものだった。
ガルドは大きく息を吐いた。
「人の睡眠を邪魔しておいて、自分だけよく眠れるな」
もちろん返事はない。
しばらくして、幼児が目を覚ました。
そして泣いた。
「やっぱり泣くのか」
ガルドは身体を起こす。
「今度はなんだ」
昨日から考えている。
泣く理由は一つではないらしい。
腹が減ったのか。
寒いのか。
眠いのか。
どこか痛いのか。
それとも、ただ不安なのか。
全部同じ泣き声に聞こえる。
「せめて違いを教えてくれ」
「うぇぇ……っ」
「そうか。分からないか」
当然だった。
ガルドはまず、幼児の様子を見る。
昨日よりは少しだけ慣れた。
顔色がおかしくないか。
身体を変なふうに動かしていないか。
寒そうではないか。
それくらいなら見られる。
「腹か?」
幼児は泣いている。
「たぶん腹だな」
根拠はない。
だが、何もしないよりはいい。
ガルドは昨日から置いてあった自分の食べ物を見る。
そのままでは、とても幼児の口に入らない。
「これは無理だな」
昨日も同じことを考えた。
自分なら噛めばいい。
多少硬くても問題ない。
大きければ食いちぎればいい。
だが、この小さな口ではそうはいかない。
ガルドは食べ物を前に、しばらく考え込んだ。
「……小さくすればいいのか」
やってみる。
爪を使おうとして、やめた。
幼児へ近づけるものを、その爪で細かくするのは少し不安だった。
「本当に、この身体は細かいことに向いてないな」
結局、ガルドは随分と時間をかけて、幼児でも口にできそうな大きさへ整えた。
自分なら一口で終わるものだった。
幼児の前へ置く。
「食べろ」
幼児は泣いている。
「……食べないのか」
じっと見る。
幼児も泣きながらガルドを見る。
「違ったか」
ガルドは困った。
少し考え、今度は水を用意する。
これも難しかった。
自分が飲むように置けば、幼児には多すぎる。
近づけ方を間違えれば濡らしてしまう。
「少しずつだな」
自分へ言い聞かせながら試す。
何度か失敗した。
幼児の服を少し濡らした。
「……悪い」
幼児は泣いた。
「怒っているのか」
泣いている。
「そうだよな」
ガルドは素直に謝った。
しばらく試しているうちに、幼児は少しだけ口にした。
泣き声が弱くなる。
ガルドは動きを止めた。
「これか?」
もう少し与える。
幼児は口にする。
「腹だったのか」
分かってしまえば簡単だった。
ただ、分かるまでが長い。
ようやく泣き止んだ幼児を見て、ガルドは身体から力を抜いた。
「次から先にそう言え」
幼児は何も答えない。
「……言えないんだったな」
ガルドは伏せた。
朝から疲れた。
自分一人だった頃なら、腹が減れば食べればよかった。
それで終わっていた。
今は、自分が食べる前に別の腹具合を考えている。
そのことへ、ガルドはまだ特別な意味を見つけなかった。
ただ、そうしなければ幼児が泣く。
だからやっている。
それだけだった。
数日が過ぎた。
幼児がいるというだけで、ガルドの一日はひどく面倒になった。
朝、好きなだけ眠れない。
食べ物を探しに行くにも、以前のようにはいかない。
自分一人なら、思いついた方向へ歩けばよかった。
遠くまで行きたければ行く。
帰りが遅くなっても困らない。
だが今は、出かけようとするたびに幼児を見るようになった。
「今日は……遠くは無理だな」
幼児はガルドの近くに座っている。
意味は分かっていないだろう。
「すぐ戻る」
そう言って外へ出た。
数歩進む。
止まる。
振り返る。
住処の中は見えない。
「……」
ガルドは少し考えた。
そのまま進む。
さらに数歩。
やはり止まった。
「…………」
結局、戻った。
幼児は先ほどと同じ場所にいた。
「別に心配したわけじゃない」
誰も聞いていない。
「忘れ物だ」
何を忘れたのか、自分でも分からなかった。
ガルドは幼児を見る。
幼児もガルドを見る。
「……連れていくか」
それも簡単ではない。
住処まで運んだときだけでも神経を使った。
山の中を長く歩くとなれば、さらに気をつけなければならない。
それでも、一人で置いていくよりはましだった。
「お前が小さいのが悪い」
幼児を慎重に抱える。
「俺は悪くない」
幼児がガルドの鱗へ触れた。
「……だから急に触るな」
嫌がっているわけではない。
ただ、少しくすぐったい。
ガルドは歩き始めた。
以前なら気にも留めなかった段差を避ける。
枝が多い場所へは入らない。
足元が悪ければ遠回りする。
そのせいで、目的の場所へ着くまで普段より時間がかかった。
「面倒だな」
ガルドは言った。
幼児は抱えられたまま静かにしている。
「お前がいると、何をするにも遅くなる」
返事はない。
ガルドはまた歩く。
それでも、幼児を置いて近道をするという考えは浮かばなかった。
その日から、出かける場所が少し変わった。
時間も変わった。
戻る頃合いも変わった。
自分が疲れているかどうかより、幼児が落ち着いているかを見ることが増えた。
一度、少し遠くまで行きすぎたことがある。
帰る途中で幼児が泣き始めた。
「もう少しだ」
ガルドは言った。
泣き止まない。
「分かった。急ぐ」
急ぐと言っても、身体を大きく揺らすわけにはいかない。
普段なら一気に進める道を、できるだけ速く、けれど慎重に進む。
住処へ戻った頃には、ガルドの方がぐったりしていた。
「次からは、ここまで遠くへ来ない」
幼児へ言う。
それは幼児との約束というより、自分への決まりだった。
次の日から、本当にそうした。
また何日かが過ぎた。
ガルドは少しずつ、幼児の泣き方を見分けられるようになった。
少しだけだった。
「これは腹……だと思う」
外れる。
「違うのか」
今度は眠いのだろうと思う。
また外れる。
「なんなんだ」
幼児を見ていると、突然泣き止む。
「……俺の顔が見たかっただけか?」
そう思って顔を近づけると、今度は泣かれた。
「違うのか!」
まったく分からない。
それでも、最初の夜ほど途方に暮れることは減った。
分からなければ、一つずつ試す。
嫌がればやめる。
泣き方がひどくなれば別のことをする。
うまくいけば覚える。
次も同じとは限らない。
「昨日はこれでよかっただろう」
そんな文句を言う日もあった。
幼児には関係ないらしい。
ガルドは何度も失敗した。
近づきすぎて泣かれた。
声が大きすぎて驚かせた。
眠ったと思って動き、起こした。
大丈夫だろうと思って置いていたものへ幼児が手を伸ばし、慌てて遠ざけたこともある。
「それは触るな」
幼児がまた手を伸ばす。
「触るなと言っている」
もう一度伸ばす。
「……なぜ触る」
言葉が分からないのだから当然だ。
ガルドはその物を幼児の届かない場所へ移した。
少し考える。
周囲を見る。
他にも危なそうなものがある。
「これもか」
一つ動かす。
「これも……だな」
もう一つ動かす。
気がつけば、住処の中を随分と見回していた。
今までのガルドなら、自分に危険がなければそれでよかった。
何かが転がっていても、踏まなければいい。
尖っていても、避ければいい。
だが幼児は避けない。
知らない。
触る。
口へ持っていこうとする。
「なんでも触るな」
幼児はガルドを見上げる。
「聞いているのか」
笑ったように見えた。
「……聞いてないな」
ガルドはため息をついた。
それからというもの、外から戻ると住処の中を見るようになった。
幼児が触りそうなものはないか。
危ない場所へ行けるようになっていないか。
寒くなっていないか。
眠っているなら、変な姿勢になっていないか。
最初はいちいち考えていた。
そのうち、考えなくても見るようになった。
朝、目を覚ます。
幼児を見る。
外へ出る前に見る。
戻れば見る。
食べる前に見る。
眠る前にも見る。
ある日、ガルドは住処へ戻ってすぐ、いつもの場所へ目を向けた。
幼児がいなかった。
「……?」
足が止まる。
「おい」
返事はない。
「どこだ」
ガルドは住処の中を見る。
いない。
胸の奥が急に騒がしくなった。
「おい!」
少し声が大きくなった。
次の瞬間、奥の方から小さな音がした。
ガルドは顔を向ける。
幼児がいた。
少し離れた場所で、身体を丸めて眠っている。
「…………」
ガルドはしばらく動かなかった。
やがて、ゆっくり息を吐いた。
「そこにいたのか」
幼児は眠ったままだ。
「勝手に移動するな」
もちろん聞いていない。
ガルドは近くへ行く。
起こさないように伏せる。
眠っているのを確認する。
何も問題はない。
それなのに、先ほどまで妙に落ち着かなかった。
「……見えないところへ行くなら、言え」
ガルドは小さく呟いた。
幼児の寝息だけが返ってきた。
また日が過ぎる。
朝になれば幼児が起きる。
泣く日もある。
泣かない日もある。
うまくいくこともある。
昨日できたことが、今日はできないこともある。
ガルドはそのたびに考えた。
試した。
失敗した。
また考えた。
特別なことをしているつもりはなかった。
拾ってしまった。
置いておけなかった。
だから、今日も世話をしている。
その程度の認識だった。
ある朝、ガルドは目を覚ますと、まず幼児を見た。
眠っている。
次に、昨日のうちに危ないものを遠ざけてあったか確認した。
それから、幼児が起きたらどうするかを考えた。
最後に、自分の腹が減っていることへ気づいた。
「……」
ガルドは少しだけ首を傾けた。
以前なら、目を覚まして最初に考えるのは自分のことだった。
今日は違った。
だが、それについて深く考えることはなかった。
幼児が小さく身じろぎしたからだ。
ガルドはすぐにそちらを見る。
「起きるのか」
幼児が目を開ける。
ガルドを見る。
泣くかと思った。
幼児はしばらくこちらを見たあと、小さく声を出した。
「あー」
「……なんだ」
「あー」
「腹か?」
幼児は笑った。
「違うのか」
ガルドは困った顔で見返した。
それでも、もう慌てはしなかった。
「まあいい。起きたなら、まずお前からだ」
ガルドは身体を起こした。
今日も、昨日と同じように一日が始まる。
自分一人では終わらない一日が。




