第2話 見捨てない
幼児は泣いていた。
ガルドは、その前で立ち尽くしていた。
先ほどから何度か周囲を見回している。
木々の向こうにも。
来た道にも。
少し離れた場所にも。
人の姿はない。
「……誰もいないのか」
もう一度、声を張る。
「この子の親はいないのか」
返事はなかった。
幼児の泣き声だけが返ってくる。
「うぇ……っ、う……」
「分かった。分かったから……」
何が分かったのかは、自分でも分からない。
ガルドは困っていた。
人間の子どもが小さいことくらいは知っている。
だが、知っているのはそれくらいだった。
何を食べるのか。
どのくらい眠るのか。
なぜ泣くのか。
どうすれば泣き止むのか。
何一つ分からない。
まして、目の前にいるのは自分の前脚よりずっと小さな幼児だ。
少し力加減を間違えただけでも、傷つけてしまいそうだった。
ガルドはそっと顔を近づけた。
幼児は泣きながら、こちらを見上げた。
「……俺を見ても泣くのか」
当然かもしれない。
幼児から見れば、目の前にいるのは巨大な竜だ。
牙もある。
爪もある。
身体の大きさなど比べるまでもない。
怖がらない方がおかしい。
ガルドは少しだけ顔を離した。
「親が戻るまで待つか」
そうするのが一番いい。
自分が連れていくより、よほどいい。
きっと近くにいる。
何か事情があって離れているだけかもしれない。
ガルドはそう考え、幼児から少し距離を取った。
ただし、完全には離れなかった。
そのまま置いていく気にはなれなかった。
少し待てば誰か来る。
そう思った。
しばらくして、幼児はまた泣いた。
ガルドは周囲を見る。
誰も来ない。
「……遅いな」
もう少し待った。
風が吹いた。
木々の葉が揺れる。
幼児の声が小さくなる。
ガルドは顔を向けた。
泣き疲れたのかもしれない。
それなら静かになった方がいいはずなのに、なぜか落ち着かなかった。
「おい」
幼児がこちらを見る。
目は開いている。
ガルドは少しだけ安心した。
「……寝るなら寝ると言え」
言えるはずがない。
自分でも分かっている。
それでも、黙って見ているよりはましだった。
さらに時間が経った。
木々の間から差し込んでいた光の向きが、少しずつ変わっていく。
それでも人は来ない。
ガルドは一度、辺りを歩いた。
足跡を探す。
誰かが近くにいる気配を探す。
声も聞く。
だが、幼児以外の人間は見つからなかった。
戻ってくると、幼児は地面に座ったまま、ぼんやりとこちらを見ていた。
「……お前、本当に一人なのか」
答えはない。
ガルドは幼児の近くへ伏せた。
逃げる様子はなかった。
泣く力も残っていないだけかもしれない。
「困ったな」
本当に困った。
ここまで来れば、さすがに分かる。
この子は、誰かが少し離れているだけではない。
少なくとも、すぐに迎えへ来る者はいない。
置いていかれたのだ。
なぜかは分からない。
誰が置いていったのかも分からない。
ガルドには知りようがなかった。
ただ一つ分かるのは、この幼児が今ここに一人でいるということだけだった。
「どうする」
幼児へ聞いてみる。
当然、返事はない。
「俺に聞かれても困るだろうが、俺も困っている」
幼児はガルドを見上げている。
ガルドはため息をついた。
自分が連れて帰る。
その考えが浮かんだ。
そしてすぐに、自分で否定した。
「無理だ」
人間の幼児など育てたことがない。
そもそも、人間の子どもと暮らしたことさえない。
自分は人型にもなれない。
大きな身体で、この幼児をどう扱えばいいのかすら分からない。
住処へ連れて帰ったところで、その先をどうする。
腹が減って泣いたら。
寒くて泣いたら。
どこか痛くて泣いたら。
その違いさえ分からないかもしれない。
「俺には無理だ」
今度は、少し小さな声で言った。
幼児は何も答えない。
ただ、ガルドを見ている。
ガルドは視線を外した。
誰か人間に任せるべきだ。
その方がいい。
人間の子どもなのだから、人間に育ててもらう方がいいに決まっている。
そう考えてから、ガルドは周囲を見回した。
誰もいない。
任せる相手がいない。
「……」
山を下りて、人を探すか。
その間、この子をここへ置いていくのか。
自分の住処なら、少なくとも雨風はしのげる。
人を探すにしても、まずはこの子をそこへ移してからだ。
ガルドは幼児を見る。
小さな身体。
弱い声。
先ほどから何度も泣いている。
ここへ来たときより、明らかに元気がない。
日が傾けば、山の空気は冷える。
夜になれば危険も増える。
それくらいは、人間の育児を知らないガルドにも分かった。
「……ここに置いてはいけないな」
言葉にすると、答えはひどく単純だった。
育てられるかどうかは分からない。
これから先、どうすればいいのかも分からない。
だが、それと今ここへ置いていくことは別だった。
できる自信がないからといって、見捨てていい理由にはならない。
ガルドはゆっくり立ち上がった。
幼児がその動きに驚いたのか、身体を小さくする。
「ああ、悪い」
ガルドはすぐに動きを止めた。
「別に食おうとしているわけじゃない」
言ってから、もっと別の言い方があった気がした。
幼児は当然、何も答えない。
「……どうすれば怖くない」
ガルドは考えた。
自分にとっては普通に動いているだけでも、この子にとっては違う。
身体が大きい。
声も大きい。
近づくだけでも怖いかもしれない。
だから、できるだけゆっくり動くことにした。
身体を低くする。
急に顔を近づけない。
幼児の反応を見ながら、少しずつ距離を詰める。
「今から、お前をここから連れていく」
言葉が通じているかは分からない。
それでもガルドは話した。
「ここに置いておくよりは、たぶんましだ」
たぶん。
その程度しか言えない。
自信などなかった。
「俺も、どうすればいいかは分からない」
幼児がガルドを見ている。
「だが……ここに置いてはいけないことくらいは分かる」
ガルドは慎重に身体を寄せた。
幼児へ触れる直前で、また止まる。
爪が当たらないようにする。
力を入れすぎないようにする。
どうすればこんな小さな身体を安全に運べるのか、それだけでも随分と悩んだ。
「動くなよ」
言ってから、また無理な注文だと思った。
「いや、動いてもいい。だが急には動くな」
自分でも何を言っているのか分からなくなってくる。
幼児が小さな手を伸ばした。
ガルドは固まった。
その手が、ガルドの鱗へ触れる。
ほんの少し。
指先が当たっただけだった。
「……」
幼児はすぐに手を引かなかった。
ガルドも動かなかった。
「怖くないのか」
答えの代わりに、幼児の手がもう一度鱗へ触れた。
「そうか」
何がそうなのかは分からない。
だが、先ほどより少しだけ動きやすくなった。
ガルドは時間をかけて幼児を抱え上げた。
自分でも笑いたくなるほど慎重だった。
これまで重いものを運ぶときに、こんなに力加減を気にしたことはない。
「軽いな……」
思わず呟く。
軽い。
あまりにも軽い。
こんなものを、一人で山へ置いていく。
その意味を改めて考え、ガルドは黙った。
幼児が少し身じろぎする。
「待て。今、動かれると困る」
ガルドは身体を固くした。
幼児はまた止まった。
「……よし」
何がよしなのかは分からない。
それでも、ガルドは住処へ向かった。
いつもなら自分の歩きやすい場所を選ぶ。
多少の段差があっても気にしない。
枝が身体へ当たっても、そのまま進む。
だが今日は違った。
一歩ずつ足元を見る。
大きく身体を揺らさない。
枝へぶつからないようにする。
普段なら気にも留めない道が、ひどく歩きにくく感じた。
「人間は大変だな」
抱えている幼児へ言う。
「いや、人間が大変なのではなく、お前が小さすぎるのか」
幼児は返事をしない。
それでも、時々こちらを見上げた。
ガルドはそのたびに歩く速さを少し落とした。
住処へ着く頃には、普段よりずっと疲れていた。
身体を使った疲れではない。
別の疲れだった。
「着いたぞ」
ガルドは中へ入る。
そして、すぐに困った。
「……どこに置けばいい」
自分一人で暮らす場所だ。
自分が困らなければ、それでよかった。
だが今は違う。
幼児をどこへ下ろせば安全なのか。
寒くない場所はどこか。
何か口へ入れてはいけないものが近くにないか。
今まで考えたこともなかったものばかりが目につく。
「待っていろ」
言ってから、すでに抱えているので待つも何もないと気づく。
ガルドはしばらく住処の中を見回した。
結局、自分が休む場所の近くへ幼児を下ろした。
もちろん、それで正しいのかは分からない。
幼児は座ると、すぐにガルドを見上げた。
「……それで」
ガルドも見返す。
「次はどうする」
幼児の顔が歪んだ。
「う……」
「待て」
嫌な予感がした。
「うぇぇ……っ」
「だから待て!」
泣き声が住処に響いた。
ガルドは慌てて周囲を見る。
何を探しているのか、自分でも分からない。
「腹が減ったのか?」
返事はない。
「寒いのか?」
泣いている。
「眠い?」
さらに泣く。
「どこか痛いのか?」
分からない。
何一つ分からない。
ガルドは完全に途方に暮れた。
「……人間の子どもは難しいな」
幼児は泣き続けている。
ガルドは考えた。
まず何をすればいい。
食べ物。
だが、何を食べられる。
自分が食べるものを、そのまま与えていいはずがない。
寒さ。
幼児へ近づき、そっと様子を見る。
触れて確かめようとして、爪を見てやめた。
「……この身体、本当にこういう時は不便だな」
ガルドは伏せた。
少なくとも風が当たらないよう、自分の身体で幼児の周りを囲う。
幼児の泣き声が少し小さくなった。
「これか?」
ガルドは動かない。
しばらくすると、また泣く。
「違うのか」
もう一度考える。
「腹か?」
幼児を見ても分からない。
ガルドは頭を抱えたくなった。
だが、人の姿になれない以上、頭を抱えることさえ思うようにはできない。
「……ひとまず、一つずつだ」
誰に聞かせるでもなく言う。
「分からないなら、分かるまで試すしかない」
幼児が泣く。
「分かった。今考えている」
少しだけ強い声になってしまい、幼児がさらに泣いた。
「ああ、違う。怒ってない」
ガルドは慌てて声を落とした。
「怒ってないから、そんなに泣くな」
それで泣き止むなら苦労はしない。
結局、ガルドはその日、何度も困った。
近づきすぎて泣かれた。
離れればまた泣かれた。
眠ったと思って動けば起きた。
何を求めているのか分からず、何度も幼児の顔を覗き込んだ。
正しかったことがいくつあったのか、自信はない。
ただ一つだけ、決めたことがあった。
今夜は、この子を一人にしない。
それだけだった。
明日のことなど、まだ分からない。
この先どうするのかも決めていない。
人間の子どもを自分が育てられるとも思っていない。
それでも。
今日、この子を死なせない。
今のガルドに決められるのは、それだけだった。
幼児が泣き疲れたのか、やがて静かになった。
ガルドはしばらく、その小さな身体を見ていた。
眠っている。
「……起きるなよ」
小さな声で言う。
少し考える。
「いや、ちゃんと起きろ」
眠ったままでは困る。
「……難しいな」
ガルドは伏せたまま、目を閉じなかった。
いつもなら、眠くなれば眠る。
誰かの様子を気にする必要などなかった。
だが今夜だけは、そうもいかないらしい。
幼児が小さく身じろぎする。
ガルドはすぐに目を向けた。
それから、また動かなくなったのを確かめる。
「今日だけだぞ」
誰に言い聞かせたのか、自分でも分からなかった。
返事はない。
住処には、これまでなかった小さな寝息だけが聞こえていた。




