第9話
「一匹たりとも逃がすな!」窓の外から響く怒声とともに、無数の松明の炎があばら家を取り囲んだ。
重武装の兵士たちが踏み鳴らす軍靴の音が、冷たい夜風に乗って響いてきた。ザルバ帝国の先遣隊だ。彼らの目的はただ一つ、俺の背後で丸くなって眠る小さな竜神である。
あの日、森の奥深くで魔力の尽きた石ころのような卵を拾った。
親に見捨てられ、冷え切っていたその姿が、村の隅で孤児として孤独に生きてきた自分自身と重なった。だからこそ、俺は誰に頼まれるでもなく、自分の体温でその卵を温め続けたのだ。
数日後、そこから孵化したのは、神格を持つ伝説の竜神だった。
もふもふとした愛らしい小竜の姿をしたシルヴィは、俺を親と認識し、異常なまでの執着と甘えを見せてくれた。俺にとって、生まれて初めて得た確かな温もりだった。
竜神誕生の魔力波を察知した各国の王や大貴族たちが、このみすぼらしいあばら家に殺到したこともあった。
彼らは莫大な富と権力を提示し、シルヴィを自国の軍事力として引き入れようとした。だが、シルヴィは俺の膝の上から決して離れようとせず、権力者たちの誘いを完全に無視し続けたのだ。
俺を親として選んでくれたこの子を、道具や兵器として扱うことなど絶対に許さない。
「開けろ! ザルバ帝国先遣隊である!」
乱暴に扉が叩かれ、蝶番が悲鳴を上げた。
俺は小さく息を吐き、寝台で丸くなっていたシルヴィを背中に隠すようにして立ち上がった。恐怖がないわけではない。だが、足の震えを気力で押さえつけ、ゆっくりと扉の閂を外す。
冷たい夜気が流れ込み、松明の赤い光が室内の床を照らし出した。
先頭に立っていたのは、豪奢な鎧に身を包んだ隊長らしき男だった。彼は値踏みするような目で俺を見下ろし、鼻で笑う。
「孤児風情が竜神を独占するなど、世界が許すはずもなかろう。大人しくその竜を渡せば、一生遊んで暮らせる金を与えてやる」
「断る。この子はあんたたちの道具じゃない」
俺は真っ直ぐに隊長の目を睨み返し、はっきりと告げた。
男の顔に不快感が広がり、腰の剣に手が伸びる。その瞬間、俺の背後から圧倒的なプレッシャーが膨れ上がった。
「……ルカの安眠を妨げるゴミどもめ。一瞬で消し飛ばしてくれようか」
いつの間にか目を覚ましていたシルヴィが、俺の肩越しに隊長をねめつけていた。
俺に向ける無邪気な瞳とは全く違う、極めて冷酷で尊大な眼差し。世界最強の存在が放つ殺気に、隊長だけでなく背後の兵士たちも一斉に息を呑み、後ずさる。
「待て、シルヴィ。ここで暴れたら家が壊れちゃうだろ」
「ルカがそう言うなら我慢する。だが、こいつらが少しでもルカに危害を加えようとしたら、即座に灰にしてやる」
シルヴィは俺の頬にすり寄って甘えた声を出しながらも、兵士たちへの警戒は解いていない。
隊長は額に冷や汗を浮かべながらも、強引に踏み込もうと足を踏み出した。
「ええい、たかが小竜一匹に怯むな! 捕らえろ!」
「待て待て待てぇっ!」
緊迫した空気を切り裂くように、あばら家の横から慌てた声が響いた。
癖のある茶髪を振り乱し、小国の騎士の制服を着崩した青年が、俺と先遣隊の間に滑り込んでくる。世話係として村に滞在しているレオンだった。
「ザルバ帝国の先遣隊殿! ここで強引な手段に出れば、他国との重大な国際問題に発展するぞ!」
レオンは片手で胃の辺りを強く押さえながら、必死の形相で隊長を牽制した。
「貴様は……小国の騎士風情が、我が帝国の邪魔をする気か」
「邪魔じゃない、忠告だ! 竜神が少しでも機嫌を損ねれば、あんたらの部隊なんて一瞬で消し炭だぞ。それに、他国の使者たちもこの村の動向を注視している。ここで独断専行すれば、宰相閣下の顔に泥を塗ることになるんじゃないのか?」
レオンの言葉に、隊長の動きがピタリと止まった。
ザルバ帝国の名を出し、政治的なリスクを突きつけることで、相手の理性に訴えかけているのだ。レオンの額には脂汗が浮かんでおり、胃の痛みが限界に近いことが窺える。
「チッ……口の減らない男だ」
隊長が忌々しげに舌打ちをした、その時だった。
「あらあら、夜分遅くに随分と賑やかねぇ」
のんびりとした、この場に全くそぐわない温厚な声が響いた。
兵士たちが驚いて道を空けると、そこには腰の曲がった小柄な老婆が立っていた。薬草屋のエルナさんだ。彼女はお盆の上に湯気を立てるティーポットと、山盛りの焼き菓子を乗せて、平然と歩いてくる。
「ルカくん、お夜食を持ってきたわよ。そちらの兵隊さんたちも、温かいお茶でもいかが?」
「な、なんだこの婆さんは……!」
隊長が目を白黒させて後ずさる。
世界最強の竜神と重武装の兵士たちが睨み合う一触即発の状況で、全く動じることなくお茶を勧めてくるエルナさんのマイペースさに、先遣隊は完全に毒気を抜かれていた。
「ルカ、あれが食べたい。甘いいい匂いがする」
シルヴィが俺の肩から飛び降り、エルナさんの足元にすり寄っていく。
先ほどまでの冷酷な殺気はどこへやら、ただの食いしん坊なペットのような態度だ。エルナさんは微笑みながら、焼き菓子を一つ手に取ってシルヴィの口に運ぶ。
「はいはい、たくさんお食べなさいな」
その光景を見て、隊長は完全に戦意を喪失したようだった。
振り上げた拳の行き場を失い、気まずそうに咳払いをする。
「……今日はここまでにしておいてやる。だが、諦めたわけではないからな!」
負け惜しみのような捨て台詞を吐くと、隊長は兵士たちに撤退の合図を出した。
松明の光が少しずつ遠ざかり、村の境界線へと消えていく。俺は大きく息を吐き出し、張り詰めていた肩の力を抜いた。
「助かったよ、レオン、エルナさん」
「全く……寿命が縮む思いだったぞ。あんたも少しは危機感を持ってくれよ」
レオンがへたり込みながら愚痴をこぼす。
俺は足元で焼き菓子を頬張るシルヴィの頭を撫でながら、夜空を見上げた。
権力者たちの思惑がどうであれ、俺はこの普通の生活を守りたい。誰にも脅かされない、温かい居場所を維持するために、もっと強くならなければならない。
小さな前進の手応えを感じながら、俺は静かに決意を固めた。
◆ーーーー◆
村の境界線から少し離れた暗がり。
撤退した先遣隊の隊長は、苛立ちを隠せない様子で近くの木を蹴り飛ばした。
「あの小僧、思いのほか厄介だ。竜神も小僧にべったりで、力ずくではこちらの被害が大きすぎる」
「ヒヒヒ……お困りのようですな、隊長殿」
暗闇からぬっと姿を現したのは、しわがれた顔に卑屈な笑みを浮かべた村の長老だった。
隊長は眉をひそめ、長老を胡乱な目で見下ろす。
「なんだ、貴様は。我々に協力するとでも言うのか」
「ええ、ええ。あの忌々しい孤児が村に居座っていては、我々も迷惑なのです。竜神を引き剥がすのは難しくとも、小僧の力を削ぐ方法ならございますよ」
長老は懐から、泥のように濁った液体が入った小さな小瓶を取り出した。
「あの薬を、少しばかり濃くして飲ませてやれば……竜との結びつきなど、すぐに弱まりましょうて」
陰湿な笑い声が、冷たい夜風に溶けていく。
俺たちの知らないところで、新たな罠が静かに仕掛けられようとしていた。




