第8話
朝の光が、隙間だらけの壁からあばら家の中に差し込んできた。
前夜の疑問を抱えたまま目を覚ますと、胸の上で心地よい重みが上下している。
膨大なエネルギーを溜め込んでいるはずのシルヴィは、すうすうと規則正しい寝息を立てていた。
毛並みは昨日より少し落ち着いているが、相変わらず両手から溢れるほどもふもふしている。
『ん……ルカ、おはよう』
俺の視線に気づいたのか、小さな竜神が目をこすりながら身を起こした。
その無防備な仕草は、世界最強の存在とは到底思えない。
「おはよう、シルヴィ。よく眠れたか?」
『うむ。ルカの上が一番落ち着くぞ』
甘えるように頬をすり寄せてくるシルヴィの頭を撫でながら、俺は小さく息を吐いた。
この平穏な時間が、いつまで続くのだろうか。
水を汲むために村の広場へ向かうと、井戸の周りに集まった村人たちがひそひそと声を潜めていた。
「聞いたか? ザルバ帝国の宰相が、ついに私兵を動かしたらしいぞ」
「ああ、実力行使で竜神様を奪うつもりだって噂だ。巻き込まれたらたまらないよ」
俺の姿を認めた途端、彼らは蜘蛛の子を散らすように離れていった。
冷たい視線には慣れているが、今日ばかりはその言葉の内容に胸がざわつく。
竜神誕生の魔力波を察知して以来、各国の王や大貴族たちがこのみすぼらしいあばら家に殺到してきた。
彼らは莫大な富と権力を提示し、滑稽なほどにシルヴィを引き入れようと躍起になっていた。
だが、シルヴィは俺の膝の上から一歩も離れず、彼らの甘言を完全に無視し続けている。
権力者たちの欲望が渦巻く中、ただの孤児である俺に、この子を守り切れるのだろうか。
親としてどうあるべきか、答えの出ない問いが頭の中をぐるぐると回っていた。
◆ーーーー◆
水桶を抱えてあばら家に戻ると、見慣れない革靴が土間に転がっていた。
「素晴らしい発見だ、ルカ君!」
部屋の奥から、インクの染みがついた古びたローブ姿の男が飛び出してきた。
ボサボサの白髪を振り乱し、興奮気味に鼻息を荒くしているのは、変人学者のオズワルドだ。
「どうしたんですか、突然。それに、勝手に入らないでっていつも言ってるのに」
「そんな些末なことはどうでもいい。それより、これを見たまえ!」
オズワルドは俺の苦言を完全に無視し、羊皮紙の束を鼻先に突きつけてきた。
そこには、見たこともない古代文字がびっしりと書き込まれている。
「古代の文献の断片を、ついに解読したのだよ。君が拾ったあの卵の真実が記されていたのだ」
『む……騒々しい奴だな。ルカの邪魔をするなら追い出すぞ』
俺の足元で、シルヴィが不機嫌そうに喉を鳴らした。
オズワルドは一瞬だけ身をすくませたが、すぐに知識欲が恐怖を上回ったらしい。
「竜神殿、少しだけ時間をいただきたい。これは君自身のルーツに関わる重要な話なのだ」
オズワルドは咳払いをして、羊皮紙を指差した。
「君が森で見つけた時、あの卵は魔力が尽きた石ころのようだったと言っていたね?」
「ええ。冷え切っていて、親に見捨てられたんだと思いました」
孤児として孤独に生きてきた俺は、自分と同じように見捨てられた卵に同情したのだ。
だからこそ、自身の体温で温め続けた。
「だが、それは違ったのだよ。卵は親に捨てられたわけではない」
オズワルドの声が、一段と熱を帯びる。
「世界を滅ぼす災厄から守るために、先代の竜神が意図的に古代の隠蔽魔法陣の中に隠していたのだ。魔力が尽きたように見えたのも、敵の目を欺くための偽装だった可能性が高い」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
数日後、俺の体温によって卵から孵化したのは、神格を持つ伝説の竜神だった。
シルヴィは俺を親と認識し、異常なまでの執着と甘えを見せている。
ただの偶然だと思っていた出会いが、実は途方もない歴史の延長線上にあったのだ。
「隠蔽魔法陣は、数千年の時を経て効力を失いかけていた。そこに、古代竜騎士の末裔である君が偶然通りかかった……いや、魂が引き寄せ合ったのかもしれないな」
オズワルドは満足そうに頷き、羊皮紙を丸めて懐にしまった。
「君が拾った卵は、ただの魔物の卵ではない。この世界の命運を握る、極めて重要な存在だったというわけだ」
嵐のようにまくしたてると、オズワルドは「では、私はさらなる研究に戻る!」と言い残し、足早に去っていった。
静寂が戻ったあばら家の中で、俺は立ち尽くしていた。
自分が拾った卵が、そんな壮大な運命を背負っていたなんて。
ただの孤児である俺が、そんな重責を担えるのだろうか。
胃の奥が冷たくなるのを感じ、無意識のうちに拳を強く握りしめていた。
『ルカ? どうしたのだ? 顔色が悪いぞ』
不安を感じ取ったのか、シルヴィが足元からよじ登り、俺の胸元にすり寄ってきた。
見上げてくる円らな瞳には、一片の疑いもない純粋な信頼が宿っている。
「……なんでもないよ。少し、考え事をしていただけだ」
俺はシルヴィの小さな体を抱き上げ、そっと撫でた。
温かい体温が、手のひらから伝わってくる。
世界を滅ぼす災厄だとか、古代の魔法陣だとか、そんな壮大な話は俺にはよく分からない。
権力者たちがどれほど莫大な富を積もうと、帝国が軍隊を差し向けようと、関係ない。
俺にとって確かなのは、この腕の中にいる小さな命の重みだけだ。
『私は、ルカと一緒にいられればそれでいいのだ。ルカの膝の上が、私の世界の全てだからな』
シルヴィは心地よさそうに目を閉じ、俺の腕の中で丸くなった。
その無邪気な姿を見ていると、胸の奥に渦巻いていた迷いが嘘のように晴れていく。
世界がどうであれ、俺はこの子の親だ。
誰にも脅かされない、穏やかで温かい居場所を、俺が作ってみせる。
小さな、しかし決して揺るがない決意が、俺の中に確かな根を下ろした。
◆ーーーー◆
夜が更け、冷たい風が村を吹き抜けていた。
決意を新たにした俺は、寝かしつけたシルヴィに毛布をかけ、ふと窓の外に目を向けた。
いつもなら漆黒の闇に包まれているはずの村の境界線に、不自然な光が揺れている。
無数の松明の炎が、村を包囲するようにじわじわと距離を詰めてくる。
闇夜に浮かび上がるように、重武装の兵士たちが整然と列をなしている。
彼らが掲げている旗には、見覚えのある紋章が描かれていた。
ザルバ帝国のものだ。
噂は本当だったのだ。
権力と富で全てを解決できると信じるあの傲慢な宰相が、ついに実力行使に出た。
先遣隊の冷たい金属音が、風に乗って微かに聞こえてくる。
俺は窓から離れ、眠るシルヴィのそばに立った。
迫り来る軍勢を前に、俺の心は不思議なほど落ち着いていた。
守るべき存在が明確になった今、恐れはない。
ただ、この温かい家族の時間を脅かす者には、決して容赦はしない。




