第7話
翌朝。隙間風の吹き込むあばら家に、薄明るい陽射しが差し込んできた。
目を覚ますと、胸の上で心地よい重みが上下している。もふもふとした手のひらサイズの小竜、シルヴィだ。俺の体温を感じるようにぴったりと身を寄せ、スースーと穏やかな寝息を立てている。
そっと頭を撫でると、シルヴィは目を閉じたまま嬉しそうに喉を鳴らした。
ほんの少し前まで、俺は村の隅で誰からも見向きもされず、ただ息を潜めて生きるだけの孤児だった。あの日、森で拾った卵に自分を重ね合わせ、ただ無我夢中で温め続けた記憶は、今でも昨日のことのように新しい。誰にも期待されなかった俺の人生に、初めて守るべき存在ができた瞬間だった。
数日後、そこから孵化したのが神格を持つ伝説の竜神だなんて、思いもしなかった。シルヴィは俺を「親」と認識し、こうして異常なまでの執着と甘えを見せてくれている。
「おはよう、シルヴィ」
『ルカ、おはよう。今日もルカの温もりが一番心地よい』
念話が頭の中に響き、シルヴィがぱっちりと金色の目を開けた。俺の頬にすり寄ってくるその姿は、世界を揺るがす力を持つ存在には到底見えない。
「おい、朝からイチャついてるところ悪いんだが、入るぞ」
不意に、立て付けの悪い木の扉が乱暴に開かれた。
現れたのは、癖のある茶髪を掻き毟りながら、両手に抱えきれないほどの木箱を持ったレオンだった。小国の騎士の制服を少し着崩した彼は、どさりと音を立てて床に荷物を置いた。
「なんだ、それ」
「帝国の経費で落とした最高級の霜降り肉と、純度の高い魔石だ。ご機嫌取りの貢ぎ物ってやつだよ」
レオンは大きなため息をつきながら、額の汗を拭った。
「外を見てみろ。また別の国の王族だか大貴族だかの使者が、馬車を連ねて待機してるぞ。莫大な富と権力を提示して、竜神様をお迎えしたいんだとさ」
窓の隙間から外を覗くと、確かに村には不釣り合いな豪奢な馬車が何台も停まっていた。着飾った使者たちが、あばら家を遠巻きに囲みながらこちらの様子を窺っている。竜神誕生の魔力波を察知した権力者たちが、連日のように殺到してきているのだ。
だが、当のシルヴィは外の騒ぎなど完全に無視していた。俺の膝の上から一歩も動こうとせず、使者たちの方へは一瞥すらやらない。
『下等な羽虫どもが騒々しいな。ルカの膝の上は私だけの特等席だ。誰にも譲るつもりはない』
シルヴィの念話には、俺に向ける甘い声とは打って変わって、極めて冷酷で尊大な響きが混じっていた。
「まあ、そういうこった。外の連中は俺が適当にあしらっておくから、とりあえず飯にしようぜ」
レオンが木箱の蓋を開けると、美しいサシの入った巨大な肉の塊と、青白く発光する魔石が山のように詰まっていた。
それを見た瞬間、シルヴィの金色の目が輝いた。
『ルカ、食べていいか?』
「ああ、ゆっくり食べなよ」
俺が頷いた直後だった。
シルヴィは小さな口を大きく開け、自分の体長よりもはるかに巨大な肉の塊に噛みついた。咀嚼する間もなく丸呑みにし、次々と平らげてしまう。続いて硬いはずの魔石までもが、まるで飴玉のようにボリボリと噛み砕かれた。
「おいおいおい! ちょっと待て、それは一週間分の備蓄のつもりで……!」
レオンの制止も虚しく、木箱の中身は数分のうちに空っぽになってしまった。
シルヴィは満足そうに口の周りを舐め、再び俺の膝の上に戻ってきて丸くなる。そのお腹は、あれだけの量を食べたというのに全く膨れていない。
「嘘だろ……帝国の経費が枯渇するぞ……」
レオンは空になった木箱を見つめ、青ざめた顔で頭を抱えていた。
「いくらなんでも、食べ過ぎじゃないか? お腹、痛くないか?」
俺は心配になってシルヴィの腹をさすったが、本人はケロッとしている。
『ルカが撫でてくれるなら、もっと食べられるぞ』
「そういう問題じゃないと思うんだけどな」
苦笑しながら窓の外へ視線を戻すと、豪華な馬車のさらに奥、村の広場の陰からこちらを見ている村人たちの姿があった。
彼らの目には、かつて俺に向けていた冷たい蔑みだけでなく、得体の知れない存在に対する明確な恐怖と悪意が浮かんでいた。
「関わるんじゃないよ。あんな呪われた孤児が、化け物を手懐けてるなんて……」
「いつ村が焼き払われるか分かったもんじゃない」
ひそひそとした囁き声が、風に乗って微かに届く。
その視線と悪意を感じ取った瞬間、俺の膝の上にいたシルヴィの体に異変が起きた。
ポンッ、という軽い音とともに、シルヴィの毛並みが異常なほどにもふもふと膨らみ始めたのだ。
「え……?」
手のひらサイズだったはずの体が、毛玉のように膨張し、俺の胸元をすっぽりと覆い隠すほどの大きさになった。触れてみると、驚くほど柔らかく、そして温かい。
「なんだこりゃ。毛が爆発したみたいになってるぞ」
レオンが目を丸くして近づいてきた。
「成長期だから、よく食べるし毛も伸びるんだろう。竜神の生態なんて誰も知らないんだからな」
彼は呆れたように言い捨て、空の木箱を片付け始めた。
だが、俺にはそれが単なる成長期の変化だとは思えなかった。
村人たちの負の感情が込められた視線。それが俺に向けられた瞬間、シルヴィは俺を庇うように立ち上がり、毛を膨らませたのだ。
まるで、周囲の悪意や恐怖をそのもふもふの毛並みで吸収し、俺に届かないように浄化してくれているかのように。
『ルカ、私はお前の親だ。お前を傷つけるものは、何であれ私が防いでみせる』
いや、親と子の認識が逆転しているのは相変わらずだが、シルヴィのその不器用な優しさが、俺の胸の奥をじんわりと温かくした。
「ありがとう、シルヴィ」
俺は膨らんだ毛並みに顔を埋め、その温もりを深く吸い込んだ。
権力者たちの欲望も、村人たちの悪意も、この小さな竜神がいれば恐れることはない。俺はシルヴィを、より一層大切に育て、守り抜こうと心に誓った。
◆ーーーー◆
夜が更け、あばら家は静寂に包まれていた。
レオンは外の警備に戻り、室内には俺とシルヴィだけが残されている。
藁のベッドに横たわると、昼間よりもさらに一回りもふもふに膨らんだシルヴィが、俺の腕の中にすっぽりと収まった。
「おやすみ、シルヴィ」
『おやすみ、ルカ。ずっと一緒にいるぞ』
もふもふの毛並みに抱きつきながら、俺はこれまでにない深い安心感に包まれていた。
ただ、ふと疑問が頭をよぎる。
あれだけの大量の肉と魔石を食べ、周囲の悪意を吸収して膨らみ続けるシルヴィの体。この蓄積された膨大なエネルギーは、一体何のために使われるのだろうか。
その答えを知る由もないまま、俺は心地よい温もりに身を委ね、静かに眠りについた。




