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第6話

深夜、薄汚れた窓枠から差し込む月明かりが、見知らぬ人影を床に映し出した。


足音一つ立てずに忍び込んできたその影は、俺とシルヴィが眠る藁のベッドの数歩手前でピタリと止まった。


俺は薄く目を開けたまま、息を殺して相手の動きを窺う。


ザルバ帝国の暗殺者か、それとも他国の手の者か。最悪の事態を想定し、腕の中のシルヴィを庇うように抱き寄せた。


だが、月光に照らし出された侵入者の姿は、俺の予想を大きく裏切るものだった。


そこに立っていたのは、そばかすのある頬と三つ編みにした赤毛が特徴的な、小柄な少女だった。年齢は俺より少し下、十二歳くらいだろうか。みすぼらしい衣服は所々が擦り切れ、夜の寒さに微かに肩を震わせている。


彼女は両手でしっかりと短剣を握りしめ、その切っ先を真っ直ぐに俺たちへと向けていた。


「……動かないで」


少女はぶっきらぼうな口調で、しかし必死さを滲ませた声で言った。


「その竜神の血を、少しだけ寄越して。どんな病も治すって聞いたわ。あたしの弟、もう長くないの……!」


彼女の瞳には、切羽詰まった悲壮感が漂っていた。大人たちに雇われたわけではない。ただ、家族を救いたいという一心で、世界最強の存在に刃を向ける無謀な少女。


俺はその震える手と、泣き出しそうな顔を見て、かつての自分を重ねていた。


村の隅で誰からも必要とされず、ただ一人で絶望と戦っていた日々。助けを求めても誰も手を差し伸べてくれなかった、あの冷たい孤独。


「……短剣を下ろしてくれ。血なんて流さなくても、話は聞くから」


俺は静かに身を起こし、警戒を解くように両手を軽く上げた。


その動きに反応して、腕の中で丸くなっていたシルヴィが目を覚ました。


『ルカの眠りを妨げる愚物め。万死に値するぞ』


シルヴィは不機嫌そうに低い唸り声を上げ、侵入者に向けて冷酷な金色の瞳を向けた。手のひらサイズの愛らしい姿からは想像もつかないほどの、空気を凍らせるような竜神の覇気が室内に満ちる。


「駄目だ、シルヴィ。彼女は敵じゃない」


俺が慌てて背中を撫でて宥めると、シルヴィは途端に覇気を収め、俺の胸元にすり寄ってきた。


『ルカがそう言うなら、許してやる。私はルカの言うことなら何でも聞くからな』


「ありがとう、シルヴィ。いい子だ」


俺が頭を撫でると、シルヴィは嬉しそうに喉を鳴らした。


その一連のやり取りを見て、少女——ニナと名乗った彼女は、目を丸くして短剣を持つ手をだらりと下げた。


「嘘でしょ……。世界を滅ぼす恐ろしい魔獣だって聞いてたのに。ただの甘えん坊じゃない」


「俺にとっては、大切な家族だよ」


俺は藁のベッドに座り直し、ニナに向き合った。


「俺も、ずっと一人だったんだ。親の顔も知らなくて、村の連中からは忌み嫌われて。毎日、誰にも見つからないように息を潜めて生きてきた。そんな時、森の奥の遺跡で、魔力が尽きた石ころみたいな卵を拾ったんだ」


ニナは警戒を解ききれない様子だったが、俺の言葉に静かに耳を傾けた。


「見捨てられて、芯まで冷え切っていたその卵が、なんだか自分と同じように思えてさ。ただ同情して、自分の体温で温め続けたんだ。誰かに必要とされたかったのかもしれないし、ただ、見捨てられなかっただけかもしれない」


それが、俺とシルヴィの始まりだった。


「数日後、卵からシルヴィが孵った。伝説の竜神なんて知らなかったけど、シルヴィは俺を『親』だと認識して、異常なくらい甘えてくれたんだ。俺みたいな孤児を、世界で一番大切にしてくれる。俺がどこに行こうとしても、絶対についてくるんだ」


俺の膝の上で丸くなるもふもふの小竜。その温もりが、俺の心を救ってくれたのだ。


ニナは信じられないというように首を振った。


「でも、昼間はすごい数の王様や大貴族たちが、あんたの家に殺到してたじゃない。莫大な富とか、国の半分とかをちらつかせて、竜神を引き入れようとしてた。あたし、遠くから見てたけど、みんな目の色を変えてたわ。なんで、あんたみたいな孤児のところにずっといるのよ」


俺は苦笑した。確かに、今日の昼間は各国の使者たちがこのあばら家に押し寄せ、滑稽なほどにシルヴィを奪い合っていた。金貨の山を積む者、高い地位を約束する者。彼らは皆、シルヴィの力を自国の軍事力として利用しようと必死だった。


「シルヴィは、そういうのには全く興味がないみたいなんだ。金や権力を積まれても、俺の膝の上から離れようとしない。他の奴らのことは、完全に無視してるんだよ」


『当然だ。あんな下等生物どもの差し出すガラクタなど、ルカの膝の上の温もりに比べれば塵芥に等しい。貴様らのような羽虫に、私の価値が分かってたまるか』


シルヴィがニナを冷たく見下しながら、誇らしげに胸を張る。その尊大な態度は、俺に向ける無邪気な甘えとはまるで別物だった。


ニナは完全に毒気を抜かれたように、カランと音を立てて短剣を床に取り落とした。


「あたし……なんて馬鹿なことを。こんな小さな子を傷つけて、弟を助けようとしたなんて」


彼女は顔を覆い、その場にへたり込んだ。張り詰めていた糸が切れたように、小さな肩が震えている。


その時、あばら家の戸がギシッと音を立てて開いた。


「あらあら、夜遅くにお客さんかしら?」


入ってきたのは、ランタンと木のお盆を持った薬草屋のエルナさんだった。腰の曲がった小柄な老婆は、俺の顔を見てにっこりと微笑んだ。


「エルナさん!? どうしてこんな時間に……」


「夜風が冷えるから、ルカくんに温かいスープでもと思ってね。そしたら、可愛らしいお嬢さんの声が聞こえたものだから、ついお邪魔してしまったわ」


エルナさんは、床に短剣が転がっている異常な状況にも全く動じず、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。世界最強の竜神を前にしてもお茶を淹れるような人だ。夜の侵入者程度では驚きもしないらしい。


「さあ、あなたも冷えているでしょう。お上がりなさいな」


エルナさんはお盆を小さな木箱の上に置き、湯気の立つスープを二つの器に注いだ。野菜と肉の優しい匂いが、薄暗い室内に広がっていく。


ニナは戸惑いながらも、エルナさんに促されてスープを受け取った。


一口飲むと、彼女の目から大粒の涙が溢れ出した。張り詰めていた緊張が、温かいスープと共に解けていったのだろう。


「ごめんなさい……あたし、竜神の力を利用しようとして……」


罪悪感に苛まれ、泣きじゃくるニナ。


俺は彼女の隣にしゃがみ込み、その肩にそっと手を置いた。


「弟さんを助けたい気持ちは、痛いほど分かるよ。だから、謝らなくていい」


俺は膝の上のシルヴィに視線を落とした。


「シルヴィ、お願いがあるんだ。少しだけ、君の力を貸してくれないか?」


シルヴィは不思議そうに首を傾げた。


『ルカの頼みなら何でも聞くが、この小娘に力を与えるのか? 貴様に刃を向けた不届き者だぞ』


「うん。彼女の弟を助けてあげたいんだ。俺の大切な家族であるシルヴィの力で、誰かの家族を救えたら、俺はすごく嬉しい」


『……ルカがそう望むなら、仕方ない。ルカに褒められるためなら、少しだけ力を分けてやろう』


シルヴィは渋々といった様子で立ち上がると、エルナさんが持ってきた水差しの前に移動した。


そして、小さな前足を水差しに触れさせ、微かな魔力を込めた。


水が淡い金色の光を帯び、すぐに元の透明に戻る。


「これでいい。どんな病でも治す、竜神の加護が込められた水だ」


俺は水差しをニナに差し出した。


ニナは震える手でそれを受け取り、信じられないという顔で俺とシルヴィを交互に見つめた。


「本当に……いいの? あたし、あんたたちを脅したのに」


「俺がそうしたかっただけだよ。弟さん、元気になるといいな」


ニナは水差しを胸に抱きしめ、深く頭を下げた。


「ありがとう……! あたし、敵対するつもりだった自分が恥ずかしいわ。あんたたちのこと、絶対に誰にも言わないから!」


彼女の顔には、もう悲壮感はなかった。代わりに、希望に満ちた明るい光が宿っている。


俺は、新たな友人を得たような小さな喜びを感じていた。


◆ーーーー◆


ニナを見送った後、あばら家には再び静寂が戻った。


エルナさんも「また明日ね」と微笑んで帰っていき、室内には俺とシルヴィだけが残された。


俺は藁のベッドに横たわり、胸の上で丸くなるシルヴィの頭を優しく撫でた。


もふもふとした毛並みが、心地よい温もりを伝えてくる。


「シルヴィ、ありがとうな。俺のわがままを聞いてくれて」


『ルカに褒められるのが、私にとって一番の喜びだ。ルカが笑ってくれるなら、安いものだ』


シルヴィは嬉しそうに喉を鳴らし、俺の手に頬をすり寄せた。


俺たちを狙う権力者たちは、これからも絶え間なくやってくるだろう。


ザルバ帝国も、他の国々も、この小さな竜神の力を諦めるはずがない。彼らはまた、あの手この手で俺たちを引き離そうとするはずだ。


それでも、俺はこの温もりを手放すつもりはなかった。誰にも邪魔されない、俺たちだけの不可侵の家族。それを守り抜く覚悟はできている。


「俺たちも、ずっと一緒にいような」


俺の言葉に、シルヴィは力強く頷いた。


窓の外では、夜明け前の冷たい風が吹いている。


この平穏な関係は、果たしていつまで続くのだろうか。


そんな不安を打ち消すように、俺はシルヴィを強く抱きしめた。小さな前進の手応えを感じながら、俺は静かに目を閉じた。

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