第5話
馬車から降り立ったのは、豪奢な毛皮のコートを羽織った初老の男だった。
鋭い眼光と、口元に刻まれた深い皺。ただ歩みを進めるだけで、周囲の空気が重く沈み込むような錯覚を覚える。
「大公閣下……」
レオンが血の気を失った顔で呟き、慌てて姿勢を正した。
ザルバと呼ばれたその男は、レオンには目もくれず、俺の住むみすぼらしいあばら家へと足を踏み入れた。隙間風が吹き込む薄暗い室内を見回し、露骨に顔をしかめる。
「ひどい悪臭だ。このような豚小屋に、至高の存在が身を置いているとはな」
ザルバの冷たい視線が、俺を射抜いた。
蛇に睨まれた蛙のように、全身が硬直する。村の連中から向けられる蔑みとは次元が違う、絶対的な権力者だけが持つ威圧感だった。
「お前が、竜神を囲っているという孤児か」
「……」
俺は何も答えられず、腕の中のシルヴィを庇うように強く抱きしめた。
ザルバは鼻で笑うと、背後に控えていた騎士に顎でしゃくった。騎士が進み出て、ずしりと重い革袋を床に放り投げる。袋の口が開き、中から眩い光を放つ金貨が溢れ出した。
「帝国の地位と、一生遊んで暮らせるだけの富を与えよう。その小竜を私に渡せ」
まるで路傍の石ころでも買い取るかのような、傲慢な響きだった。
俺は床に散らばった金貨と、ザルバの顔を交互に見つめた。
たしかに、俺は村の隅で誰からも必要とされず、孤独に生きてきた。
あの日、森の奥深くで魔力の尽きた石ころのような卵を拾った時も、ただの気まぐれだったのかもしれない。自分と同じように見捨てられ、冷え切っていた卵に同情し、みすぼらしいあばら家の中で、自分の体温だけで温め続けた。
数日後、その卵から孵化したのが、このもふもふとした愛らしい小竜だった。
伝説の竜神だなんて、思いもしなかった。シルヴィは俺を「親」と認識し、異常なまでの執着と甘えを見せてくれた。俺の膝の上を特等席だと定め、片時も離れようとしない。
俺にとって、シルヴィは初めてできた家族だ。
金貨なんかで、売り渡せるはずがない。
「……断る」
震える声で、俺は言った。
「なんだと?」
ザルバの眉がピクリと動いた。
「シルヴィは、あんたの道具じゃない。俺の、大切な家族だ。いくら積まれたって、絶対に売らない」
恐怖で足がすくみそうになるのを必死に堪え、俺はザルバを真っ直ぐに睨み返した。
ザルバの顔から、スッと表情が消えた。
「哀れな孤児が。自分の立場を理解していないようだな」
地を這うような低い声が響く。
「私がわざわざ足を運んでやったのだ。お前のような虫ケラが、私の厚意を無下にするなど許されると思っているのか。やれ」
ザルバが短く命じると、背後の騎士たちが一斉に剣を抜いた。
鋭い刃の輝きに、俺は思わず息を呑む。
その時だった。
「——貴様ら」
俺の腕の中で丸くなっていたシルヴィが、ゆっくりと顔を上げた。
「ルカの温もりを邪魔するだけでなく、危害を加えようというのか」
先程まで俺にすり寄っていた無邪気な気配は完全に消え失せていた。
シルヴィの小さな体から、周囲の空気を凍りつかせるような、圧倒的な覇気が放たれる。
あばら家の壁がミシミシと軋み、床に散らばっていた金貨が目に見えない圧力でひしゃげていく。
剣を構えていた騎士たちの顔が恐怖に引き攣り、ガタガタと震え出した。彼らは一歩も動くことができず、ただ圧倒的な死の気配に呑み込まれていた。
竜神誕生の魔力波を察知して、各国の王や大貴族たちがこのあばら家に殺到してきている。彼らは莫大な富と権力でシルヴィを引き入れようとしているが、シルヴィは俺の膝の上から離れず、他を完全に無視し続けていた。
だが、俺に危害を加えようとする者に対しては、一切の容赦をしない。
「身の程を知れ、下等生物。貴様らのような塵芥が、私の親に触れることなど万死に値する」
シルヴィの喉の奥で、赤黒い光がチロチロと瞬き始めた。
放たれれば、この場にいる全員が灰も残さず消し飛ぶだろう。
「ま、待て! お待ちください!」
悲鳴のような声を上げ、レオンが慌てて俺とザルバの間に割って入った。
「閣下! ここで竜神の怒りを買えば、帝国そのものが地図から消え去ります! 他国の使者たちも周辺をうろついています。ここで強硬手段に出れば、国際問題になりかねません!」
レオンは必死の形相でザルバを宥めようとする。
ザルバはチッと舌打ちをし、忌々しげにシルヴィを睨みつけた。
「……私の権力に屈しない者がいるとはな。だが、強大な力は帝国が独占すべきものだ」
ザルバは踵を返し、扉へと向かう。
「覚えておけ、孤児。その小竜は、必ず私が手に入れる。お前のような薄汚いガキには、到底扱いきれん代物だ」
捨て台詞を残し、ザルバは騎士たちを引き連れて馬車へと戻っていった。
重低音を響かせて馬車が遠ざかっていくのを見送り、俺はとうとう膝から崩れ落ちた。
「はぁっ……はぁっ……」
冷や汗が全身から噴き出している。
もしシルヴィが怒りを爆発させていたら、どうなっていたか分からない。
「ルカ、大丈夫か? どこか怪我はないか?」
シルヴィが俺の胸元にすり寄り、心配そうに見上げてくる。
さっきまでの冷酷な覇気は嘘のように消え去り、いつもの甘えん坊なもふもふの小竜に戻っていた。
「ああ……大丈夫だ。お前が守ってくれたからな。ありがとう、シルヴィ」
俺は震える手で、シルヴィの背中を撫でた。
シルヴィの恐るべき力の一端を目の当たりにして、正直、少し怖かった。だが、それ以上に、俺を守ろうとしてくれたことが嬉しかった。
「当然だ。ルカは私の親なのだからな。ルカに危害を加える者は、私が全て焼き尽くしてやる」
シルヴィは誇らしげに胸を張り、再び俺の膝の上で丸くなった。
「……胃に穴が開きそうだ」
レオンが壁に寄りかかり、げっそりとした顔で腹を押さえている。
「あんた、よく大公閣下を前にしてあんな口が叩けたな。普通なら、その場で首が飛んでるぞ」
「俺だって、必死だったんだよ。シルヴィを連れて行かれるわけにはいかなかったから」
俺は苦笑しながら、シルヴィの温もりを確かめるように抱きしめた。
ザルバは諦めていないだろう。これからも、あの手この手でシルヴィを奪いに来るはずだ。
それでも、俺はこの小さな家族を手放すつもりはなかった。
◆ーーーー◆
その夜。俺は藁のベッドで、腕の中で寝息を立てるシルヴィを抱きながら浅い眠りについていた。
その時、微かな物音がした。
風の音ではない。何かが、意図的に立てた音だ。
俺は薄く目を開け、気配のする方へと視線を向けた。
月明かりが差し込む窓枠に、黒い影が音もなく降り立っていた。
影は室内を素早く見回し、俺とシルヴィが眠るベッドへと、足音一つ立てずに近づいてくる。
ザルバの差し金か、それとも他国の手の者か。
俺は息を潜め、腕の中のシルヴィをそっと抱き寄せた。
夜の侵入者は、一体何を目的としてこのあばら家に忍び込んできたのか。
静かな緊張が、暗闇の中で張り詰めていた。




