第39話
切り立った灰色の岩肌が、天を突くように連なっていた。
宿場町を背にして踏み出した足元は、すり減った雪と鋭利な砂利に覆われている。一歩踏みしめるごとに、凍てついた小石が微かな軋み声を上げた。見上げる霊峰の斜面は傾斜を増し、風は高度が上がるにつれて容赦なく体温を奪っていく。
「ルカ、足元に気を配れよ。霜が降りて滑りやすくなってる」
前方を進むレオンさんが、腰の鞘を軽く手で押さえながら声をかけてきた。息を吐き出すたびに、白い煙のような気体が寒空に溶けていく。
「はい、気をつけてます」
俺は町の人たちから譲り受けた厚手の防寒着をしっかりと掻き合わせた。内側には確かな温もりが宿っている。懐にすっぽりと収まったシルヴィが、もふもふとした頭を俺の胸元に預けていた。
ふいに、小さな鼻先が防寒着の隙間から覗く。シルヴィは短く鼻を鳴らすと、金色の瞳を細めて山頂の空をじっと見つめた。
『……る、か……。やな、におい……する……』
頭の中に、澄んだ鈴の音のような念話が響いた。愛らしい幼い声音だが、そこに含まれる警戒の度合いは濃い。
「いやな匂い?」
『う、ん……。かぜ、のなかに……くろくて、にがい、の……あそこから……くる、よ……』
シルヴィが小さな前足で指し示したのは、遥か頭上、霊峰の峰々を覆い隠すように垂れ込めている重苦しい雲だった。通常の雨雲とは明らかに色が異なる。紫がかった鈍い黒が、まるで生き物のようにうねり、渦を巻いていた。
立ち止まった俺の視線に気づいたのか、レオンさんも歩みを緩め、同じ空を見上げる。その端正な顔立ちが、苦々しげに歪んだ。
「シルヴィの言う通りだな。あれはただの悪天候じゃねえ。……大気中の魔力がひどく歪んでやがる。肌がちりちり痛むぜ」
「狂信者たちの仕業でしょうか」
「ああ。麓の町にまで瘴気が漏れ出していたんだ、山頂付近に近づけば濃度が跳ね上がるのは当然か。エルナ殿が言っていた第一の神殿は、あの黒雲の真下にあるはずだ。連中、思った以上に手を広げてやがるな」
レオンさんは短く舌打ちし、腰の剣の鍔に親指をかけ、鞘からわずかに刃を押し出した。「……いつでも抜けるようにしとけ」
冷たい風が、山肌を滑り落ちるように吹き抜ける。その風に混じる不気味な気配に、俺の胸元に下げた卵の殻の破片が微かに反応し、布越しにひやりとした感覚を伝えてきた。
俺は息を深く吸い込み、足元の凍った岩を強く踏みしめた。
中腹の渓谷に差し掛かる頃には、周囲の明かりが目に見えて失われていた。
両脇を削り取られたような切り立つ断崖が挟み、狭い隘路が延々と続いている。太陽の光は頭上の黒雲に遮られ、薄暗い黄昏時のような薄気味悪さが漂っていた。
異変が起きたのは、谷の最も狭まった地点を通り抜けようとした時だった。
突風が吹き荒れたわけでもないのに、谷底の裂け目から墨汁を流し込んだような濃密な黒い霧が、音もなく噴き出してきたのだ。
「っ、なんだこれ……!?」
レオンさんの警戒する声が、すぐ隣にあるはずなのに酷く遠く聞こえた。わずか一歩先すら塗り潰される圧倒的な暗がり。視界を完全に奪われ、冷気と共に漂う腐敗した油のような悪臭が鼻腔を塞ぐ。
『る、か……! うえ……くる、よ……っ!』
シルヴィの切迫した警告が脳裏に響いた。
直後、頭上を覆う黒霧の彼方から、耳を劈くような甲高い啼き声が幾重にも重なって降ってきた。バサバサと巨大な翼が空気を裂く重々しい羽音。風圧が頭頂部を叩きつける。
「チッ、待ち伏せかよ!」
レオンさんが即座に抜刀する金属音が響いた。だが霧に遮られ、敵の正確な位置を捉えきれていない気配が伝わってくる。
影が落ちてきた。
霧の裂け目から突如として現れたのは、巨大な猛禽の姿だった。常人の胴体を優に超える太さの鉤爪が、黒く濁った瘴気を纏いながら、無防備なレオンさんの背後へと音もなく迫る。
考えるより先に、足が動いていた。
俺は恐怖で縮こまりそうになる両脚を叱咤し、レオンさんと怪鳥の間に割り込んだ。胸元で小さく身を縮める我が子の気配を感じながら、両手を力強く前へと突き出す。
「させるか……ッ!」
胸の奥底から、滾るような温かな力が奔流となって両腕へと駆け巡る。
それは誰かを傷つけるための力ではない。自分を信じ、温もりを分け合ってくれた大切な家族を、何があっても守り抜くという意志そのものだった。
俺の手のひらから、眩い黄金色の光が扇状に展開した。半透明の強固な障壁が宙に広がり、凶悪な鉤爪を真正面から迎え撃つ。
硬質な衝突音が渓谷に轟いた。
怪鳥の爪撃は、俺が展開した光の壁に触れた途端、まるで分厚い鉄板に激突したかのように火花を散らして弾き飛ばされた。衝撃はすべて障壁が吸い取り、俺の腕には微かな振動しか伝わらない。守りの力は、いかなる暴力にも揺るがなかった。
「ギャアッ!?」
獲物を仕留めたはずの怪鳥が、困惑と苦悶の混じった悲鳴を上げて体勢を崩す。
「ルカ、よくやった!」
視界を確保できず体勢を崩しかけていたレオンさんが、俺の障壁の光を頼りに素早く身を翻した。だが、黒霧の奥からは、さらに十数羽に及ぶ同種の巨大怪鳥が、禍々しい赤い目をぎらつかせて旋回を始めていた。瘴気にあてられて完全に理性を失い、狂暴化している。
霧に紛れた波状攻撃を受け続ければ、いずれ防ぎきれなくなる。
その時、俺の防寒着の中から、勢いよく小さな影が飛び出した。
「キュオオオオオオオンッ!!」
愛らしい手のひらサイズの体からは想像もつかない、荘厳で神聖な咆哮が谷間に木霊した。
空中に飛び上がったシルヴィの小さな背中から、神々しい金色の光波が同心円状に爆発的に広がっていく。光はただ周囲を照らすだけでなく、熱波となって渓谷を満たした。
ジュウ、と何かが蒸発するような激しい音が響く。
谷を埋め尽くしていた濃密な黒霧が、シルヴィの放った神威の光に触れた瞬間に残らず浄化され、跡形もなく消し飛んだのだ。日光が遮られていた薄暗い隘路に、突き抜けるような青空と陽光が一気に戻ってくる。
「目が眩むほどの光だな……だが、これで丸見えだぜ!」
レオンさんの鋭い気合いが飛ぶ。
霧を奪われ、シルヴィの神聖な威光に怯んで動きを止めた怪鳥たち。その群れの中心でひときわ巨大な体躯を誇る統率個体へ向け、レオンさんは地面を蹴った。
電光石火の踏み込み。青白い刃の軌跡が、怪鳥の首元を一瞬で両断していた。
主を失った群れの怪鳥たちは、シルヴィが空中で威嚇するように喉を鳴らすと、完全に戦意を喪失した。恐怖に羽を震わせながら、蜘蛛の子を散らすように霊峰の彼方へと逃げ去っていく。
静寂が、再び渓谷に戻ってきた。
シルヴィはふわりと空中で身を翻すと、滑空するように俺の胸元へと戻ってきた。俺は両手で受け止め、柔らかな毛並みをそっと撫でる。
「ありがとう、シルヴィ。助かったよ」
『えへへ……る、かが……まもって、くれたから……がんばった、よ……』
誇らしげに胸を張る姿はいつもの愛らしい小竜そのものだが、その瞳にはどこか鋭い緊張感が残っていた。
レオンさんは剣の血を払って鞘に収めると、息を整えながら俺たちに歩み寄ってきた。そして、足元に転がっていた黒い破片を爪先で指す。
「怪鳥どもの巣の跡じゃねえな。……これを見ろ」
岩壁の裂け目に、禍々しい紫黒の光を放つ鉱石の杭が深々と打ち込まれていた。先ほどのシルヴィの光波で亀裂が入り、砕け散っているが、周囲の岩肌は黒く爛れ、大地の魔力が無理やり吸い上げられていた痕跡が歴然と残っている。
「黒魔石……。狂信者たちが使っていたやつですね」
「ああ。奴ら、この山道全域にこんなものを仕掛けてやがったんだ。瘴気を発生させて魔獣を狂わせ、神殿への道を封鎖するために。エルナ殿の言った通り、山全体がすでに奴らの手中に落ちかけてる」
レオンさんの表情は硬い。怪鳥の群れを退けた安堵など、微塵も湧いてこなかった。敵の破壊工作は、すでにここまでの深さで霊峰を蝕んでいるのだ。
「急ぎましょう。第一の神殿が、どうなっているか……」
「そうだな。行くぞ」
散らばる黒魔石の破片を踏み越え、俺たちは切り立つ岩肌を一気に駆け上がった。
険しい最後の坂を越えた先で、視界が一気に開けた。
霊峰の山頂近く、屹立する灰色の断崖を背負うようにして、それは鎮座していた。
何千年も風雪に耐え抜いてきたはずの、巨大な白亜の石造建築。エルナさんの古文書に記されていた、第一の古代神殿だった。
しかし、遠目からでもわかるその異様さに、俺たちは息を呑み、足を止めた。
かつて神聖な祈りを捧げていたであろう大門は、見るも無惨な姿に変わり果てていた。太い石柱や何十段もの石段の至る所に、あの黒魔石で作られた巨大な楔が何十本も打ち込まれているのだ。
楔の根元からは、毒々しい紫黒色の亀裂が血管のように走り、白亜の壁を汚染していた。大地の霊脈が無理やり捻じ曲げられ、悲鳴を上げているかのように不気味な脈動を繰り返している。
「酷い……こんなの、あんまりだ」
神殿が受けている痛みが、肌を刺すような悪寒となって伝わってくる。
その時、首から下げた小さな布袋の中、肌着の内側で大切にしまっていた卵の殻の破片が激しく反応した。
今までにないほど冷え切っていた。まるで氷の塊を押し当てられたかのような激痛に近い冷たさとともに、チチチ……と微弱で不穏な警告音が、頭の芯を直接揺らすように鳴り響く。
シルヴィが俺の服を前足でぎゅっと掴み、神殿の大門の奥を鋭くにらみつけた。
『る、か……。なかに……だれか、いる……よ……』
念話の声が強張っていた。
直後、足元の大地が低く唸りを上げて震動した。
黒魔石の楔が打ち込まれた大門の隙間、底知れぬ暗黒が広がる神殿の最奥から、風に乗って重苦しい音が這い出してきたのだ。
それは風の音でも、岩の崩れる音でもなかった。
気の遠くなるような長い年月を生き、そして今まさに肉体を苛まれ、精神を削り取られている何者かが絞り出すような——低く、深く、震えるような老いた苦悶の呻き声だった。
「っ……おい、今の声は……」
レオンさんが青ざめた顔で剣の柄を握りしめ、神殿の大門を見据える。
黒魔石に侵食され、毒に沈みゆく第一の神殿。その閉ざされた扉の向こうで、一体何が起きているのか。苦痛に満ちた呻き声を上げる存在の正体は何なのか。
冷たい風が吹き抜け、神殿の奥底から漂う底知れぬ不穏が、俺たちの体を重く包み込んでいた。




