第40話
楔が穿たれた大門の隙間を押し広げ、俺たちは薄暗い回廊へと足を踏み入れた。
外の肌を刺すような寒風とは異なり、神殿の内部には澱んだ重苦しい熱気が充満していた。石造りの高い天井からは細長い鍾乳石のようなものが垂れ下がり、磨き上げられていたはずの白い敷石には、幾筋もの黒ずんだ亀裂が走っている。その裂け目から、紫黒色の靄が不気味に立ち昇っていた。
胸元で丸まっていたシルヴィが、小さな鼻先をひくつかせた。白いもふもふの毛を逆立て、俺の胸板を前足でかりかりと引っ掻く。
『る、か……あっち。くるしいの、いる』
頭の中に直接響く幼い念話には、敵意ではなく戸惑いが混ざっていた。シルヴィの大きな金色の瞳が、崩れかけた巨大な角柱の根元をじっと見つめている。
「レオンさん、あそこです」
「ああ、油断するなよ。何が潜んでいるか分からん」
レオンさんは腰の剣を鞘からわずかに押し出し、柄に手をかけたまま、俺の半歩前を進んで歩幅を緩めた。床の亀裂を避けるように慎重に歩みを進める。
柱の影に回り込んだ時、俺たちの視界に飛び込んできたのは、想像していた魔物や敵兵の姿ではなかった。
そこにいたのは、淡い燐光を放つ半透明の老人だった。片手に節くれだった古びた木の杖を握り、豊かな白い髭を蓄え、古代の幾何学紋様が織り込まれた麻のローブを纏っている。だがその体はところどころ輪郭が歪み、大地の裂け目から伸びる黒い棘のような瘴気に足元を絡め取られていた。
「ぐ、うぅっ……! 地の底の……脈が、引き裂かれる……」
老人は杖を敷石の上に倒し、両膝を突き、胸を掻きむしりながら掠れた声を絞り出していた。苦悶に歪む顔はひどく青白く、その輪郭が明滅するたびに、神殿全体の空気さえも悲鳴を上げるように微動する。
「精霊……いや、この神殿の守護霊か……!?」
レオンさんが目を見張り、剣を握る手に力を込めた。敵ではないと察したのか、切っ先を下ろす。
苦しげにあえぐその姿を前にして、俺の足は勝手に動いていた。かつて村の片隅で、冷たい雨に打たれながら泥水の中にうずくまっていた自分の姿が、不意に重なったからかもしれない。
「待ってください、今……」
俺は老人の前に膝を突き、そっと両手を伸ばした。懐のシルヴィが小さく喉を鳴らし、俺の掌にぽかぽかとした温もりを分けてくれる。
自分の意思というよりは、シルヴィの暖かな力を老人に届けたいという純粋な願いだった。胸の奥から湧き上がった熱い波動が、指先を通して柔らかな金色の光となり、老人の透き通った肩を包み込んでいく。
肌を焼くような黒い靄が、金色の光に触れた端からパチパチと音を立てて霧散していった。足元を縛っていた黒い棘がほどけ、老人の荒い呼吸が次第に穏やかなものへと変わっていく。
「ほ、ほう……? これは、なんとも温もりある奇跡よな……」
老守護霊がゆっくりと顔を上げた。深く刻まれた皺の奥にある瞳が、最初は驚きに、次いで深い動揺に見開かれる。
老人の視線は、俺の顔、そして俺が首から下げている小さな布袋へと注がれていた。神殿に入ってからも微かに熱を放ち続けていたその袋には、シルヴィが生まれた時の卵の殻の破片が入っている。さらには、俺の胸元からひょこりと顔を出し、老霊を値踏みするように見つめるシルヴィへと移る。
「お主、その首から下げた袋の中にあるものは……竜神様の揺り籠であった卵の殻の破片か。……いや、それだけではない。その破片と魂を共鳴させ、温もりを通わせるその佇まい……まさか、かつて竜と魂を分かち合った気高き戦士たちの血を引く者か」
老守護霊は、震える手で自身の髭を撫で下ろすと、まじまじと俺を見つめ直した。
「俺は……親の顔も知らない孤児です。血筋のことなんて何も分からなくて……」
「いや、血は嘘を吐かん。何より……」
老守護霊の視線が、シルヴィに注がれた。その瞬間、老守護霊の半透明の体が畏敬の念によって微かに震えた。
「数千年の長き眠りより目覚めし、始まりの竜神様。その尊きお方を懐に抱き、あまつさえこれほどまでに深く懐かれている人間の若者が存在しようとはな。……我が名はテオバルト。この第一の神殿にて、かつて先代竜神様が大地に刻んだ調和の楔を護り続けてきた者じゃ」
老霊は静かに居住まいを正すと、敷石の上に両手をつき、俺たちに向かって深々と頭を垂れた。
「竜神の親たる少年よ。貴殿の無私なる慈愛に救われた。世界最強の力を宿す御方を導く資格を持つ者が、ようやくこの地へ辿り着いてくれたのだな」
「頭を上げてください、テオバルトさん。俺はただ、苦しんでいるあなたを放っておけなかっただけで……」
戸惑いながら言うと、横からレオンさんがふうと息を吐き出しながら肩をすくめた。
「まったく、どこへ行っても規格外の扱いだな、ルカ。……テオバルトの爺さん、あんたが神殿の主なら話が早い。この神殿に打ち込まれた黒い杭と、暴走しかけてる霊脈は何なんだ? 狂信者どもの仕業なのは間違いないが」
レオンさんの問いに、テオバルトは杖を拾い上げて立ち上がり、厳粛な面持ちで頷いた。
「うむ。黒魔石の楔じゃ。災厄の復活を望む狂徒どもが神殿に侵入し、あろうことか大地の霊脈を縛る要石へ呪詛の楔を打ち込みおった。……ついてまいれ。現物を見れば、事態の深刻さが嫌でも理解できよう」
テオバルトは浮遊するように滑らかな足取りで回廊を抜け、神殿の最奥へと俺たちを案内した。
重厚な青銅の扉を押し開けた先は、円形の巨大な吹き抜け空間だった。中央には、かつて白く輝いていたであろう祭壇が鎮座している。
だが、その光景はあまりにも痛ましいものだった。
祭壇の中心に、大人の背丈ほどもある禍々しい漆黒の角柱——黒魔石の楔が、深々と突き刺さっていた。その根元からは、毒々しい紫黒の雷光がバチバチと火花を散らし、床一面に彫られた古代の紋様を侵食している。
大地の底から、低い唸り声のような不快な振動が絶え間なく伝わってくる。霊脈そのものが悲鳴を上げ、逆流を始めているのだと直感できた。
「ひでえ有様だな……。力任せにあの黒い岩をへし折るわけにはいかんのか?」
レオンさんが眉をひそめ、腰の剣に手を伸ばす。
「ならん、絶対に手を出すな」
テオバルトが鋭い声で制止した。
「あの黒魔石は、霊脈の魔力を吸い上げて肥大化しておる。物理的な破壊や強大な魔力で無理やり粉砕しようとすれば、凝縮された呪詛と霊脈の力が一気に爆発し、この神殿はおろか、霊峰全域が吹き飛ぶぞ」
「そんな……じゃあ、どうやってあれを取り除けばいいんですか?」
俺が尋ねると、テオバルトは振り返り、俺とシルヴィを交互に見据えた。
「方法は一つしかない。先代竜神様が遺した『調和の術式』を起動させるのじゃ」
「調和の術式……?」
「然り。大地の霊脈と竜の息吹を完全に同調させ、荒れ狂う魔力を鎮めながら、異物である黒魔石の呪詛を清らかな光で包み込んで無害化する秘法。かつて竜と魂を交わした古代の竜騎士のみが成し得た、真の絆の証明よ」
テオバルトは祭壇の足元、黒い靄の合間にかすかに残る光の魔法陣を指し示した。
「だが、それには条件がある。竜神様とそれを導く者が、互いを完全に信じ合い、命の波長を一つに重ね合わせねばならぬ。少しでも心の揺らぎや恐怖、疑念があれば、逆流する霊脈の濁流に呑まれ、術者の魂そのものが砕け散るじゃろう」
テオバルトの言葉は重く、冷徹な現実を突きつけていた。失敗すれば命はない。そんな危険な儀式に、俺のような名もない少年が挑んでいいのか。
だが、迷いは生まれなかった。
もしここで退けば、黒魔石は霊脈を食い破り、やがて山を下りて麓の町へ、そして俺とシルヴィを受け入れてくれたあの温かな村へと厄災を広げてしまう。エルナさんが焼いてくれたパンの匂いも、マルコさんが笑いながら振る舞ってくれたシチューの温もりも、すべてが奪われてしまう。
何より、俺の腕の中にいるシルヴィが、居場所を失って怯えるような世界になんて、絶対にしたくなかった。
「……やります」
俺は静かに、けれど迷いなく口を開いた。
胸元から顔を出したシルヴィを見つめる。小さな小竜は、俺の決意を感じ取ったのか、くりくりとした瞳を細め、柔らかな額を俺の掌にこすりつけてきた。
『る、かと、いっしょ。わたし、るかの……こども、だもん』
甘えるような、けれどどこまでも純粋で力強い念話が、心の奥底を満たしていく。孤児だった俺に、初めてできたかけがえのない家族。この子の温もりがある限り、俺の心に迷いなど微塵も入り込む隙はなかった。
「シルヴィ、力を貸してくれるかい?」
『うんっ!』
シルヴィが力強く喉を鳴らし、俺の腕から飛び降りて祭壇の前へと歩み出た。その小さな背中は、どんな城壁よりも頼もしく見えた。
「ふむ……見事な覚悟じゃ。竜の親よ、その首の布袋——卵の殻の破片に意識を集中させ、祭壇の術式へ己が魔力を注ぎ込むのじゃ。竜神様の神聖なる息吹を導く水路となれ!」
テオバルトが杖を掲げ、儀式の開始を告げる。
レオンさんが通路の入り口に立ち、背後を睨み据えながら言った。
「ルカ、後ろは俺が見張っておく。お前はお前のやるべきことに集中しろ!」
「はい、レオンさん!」
俺は祭壇の階段を一段ずつ上がり、黒魔石の楔の前へと進み出た。
間近で見る黒魔石は、まるで生き物のように不気味な脈動を繰り返していた。油のような黒い瘴気が渦を巻き、周囲の空気を歪ませている。胸元の布袋を握りしめ、俺はシルヴィと視線を交わした。
呼吸を合わせる。鼓動を一つにする。
「調和の術式……起動!」
俺が叫び、布袋に魔力を込めて祭壇の縁へ手を伸ばした。
その手が高まりゆく光を帯び、黒魔石の表面に触れようとした、まさにその時だった。
ズドォォォンッ!
祭壇の底から、耳を聾するような轟音が響き渡った。
「な、なんじゃと……!? 大地の霊脈が……拒絶反応を起こして逆流しておる!」
テオバルトの悲痛な叫びが空間を揺らす。
黒魔石の楔が異様な紫の光を放ち、ひび割れた大地から噴き出したのは、暴走した大地の怒りそのものだった。幾筋もの黒紫の雷光がバチバチと跳梁し、親子の行く手を阻むように巨大な魔力の壁となって立ち塞がる。
激しい衝撃波が祭壇の空気を吹き飛ばし、足元の敷石が砕け散って宙を舞った。
『る、かぁっ……!』
シルヴィの切迫した声が響き、黒紫の稲妻が俺たちの視界を容赦なく覆い尽くしていった。




