第38話
薄暗い夜の帳が街道を覆う頃、行く手に頑丈な丸太組みの外門が見えてきた。
霊峰の懐に抱かれた宿場町だ。普段なら山越えを控えた商人や旅人で賑わっているはずの場所だが、いまは重々しい沈黙に包まれている。門扉は隙間なく閉ざされ、松明の明かりの下で歩哨たちが殺気立った視線をこちらへ投げかけていた。
「止まれ! 何者だ!」
柵の上から、震えを帯びた鋭い声が響く。構えられた数本の槍の穂先が、頼りなく揺れていた。大地の異変と山から吹き下ろす不気味な気配に、町全体が怯えきっているのが遠目にも伝わってくる。
街道を歩いてきた俺たちが立ち止まると、レオンさんが片手を軽く上げて前へ進み出た。
「怪しい者じゃない。東の街道を抜けてきた旅の者だ」
「嘘を言うな! 東の枯れ森はすでに濃い瘴気に飲まれ、生き物の通れる道ではなくなったはずだ! 化け物か、さもなくば狂信者の一味だな!」
怯えは容易に過剰な防衛心へと姿を変える。レオンさんが小さくため息をつき、腰の剣帯を直しながらさらに身を乗り出した。
「やれやれ、これだから過敏になっている連中を相手にするのは骨が折れる。冒険者ギルドの証書を見せて手早く済ませるとするか」
だが、レオンさんが懐へ手を伸ばすよりも早く、俺の腕の中でモゾモゾと動く気配があった。
外套の隙間から、銀白色の小さな頭がひょっこりと顔を出す。黄金の瞳を瞬かせたシルヴィが、退屈そうに小さなあくびを零した。
『る、か……? ……だれ、か……さわがしい……?』
頭の中に直接染み入る、まだ幼く頼りなげな念話に、俺は苦笑しながらその柔らかな背中を撫でた。
「ごめんな、起こしちゃったか。でも、威嚇しちゃ駄目だぞ」
シルヴィは小さく鼻を鳴らすと、ふわりと俺の胸元から浮き上がり、門の前の木柵の上へと軽やかに降り立った。小さな四肢を踏ん張り、町の門へ向けてピンと尾を立てる。
門番たちが息を呑み、槍を取り落としそうになるのが見えた。
「な、なんだあの光るトカゲは……!?」
「化け物のお出迎えたあ、傑作だな!」
シルヴィは失礼な言葉など気にも留めず、ただ喉の奥を微かに震わせた。きゅるる、と鈴を転がすような愛らしい声が澄んだ夜気に染み渡る。
直後、シルヴィの全身から淡い光の波が広がった。
それは朝露のように清らかな神気の波紋だった。冷たく湿っていた空気が、日だまりのような温もりを帯びて町を包み込んでいく。門扉の周囲に澱んでいた黒ずんだ瘴気の残滓が、光の粒子に触れた途端、雪が解けるように跡形もなく霧散していった。
「な……息が、苦しくない……?」
「胸の奥のつかえが消えたぞ……おい、あの子は一体……」
門番たちが茫然と自分の手を見つめ、それから木柵の上のシルヴィを、そして歩いてやってきた俺たちを凝視した。張り詰めていた殺気が、潮が引くように消え去っていく。
『る……か……。もう、だいじょう……ぶ……?』
ふわりと宙を舞って戻ってきたシルヴィは、満足そうに俺の胸元へと飛び込んできた。くるりと丸まって、当然のような顔で額をすり寄せて甘えてくる。
ギィィ、と鈍い音を立てて重い門扉が開かれた。そこから駆け出してきた門番頭らしき男性は、武器を捨て、深々と頭を下げて俺たちの前に跪いた。
「ご無礼をお許しください! まさか、これほど尊き御方を連れた旅のお方だったとは……! どうか、我が町へお入りください!」
平伏する門番に慌てて声をかけながら、俺はシルヴィの温もりを両手で包み込んだ。恐れが敬意へと変わるその光景に、かつて村の片隅で疎まれ続けていた日々の記憶が微かに掠める。けれど、いま胸の内に広がるのは、誰かを理不尽な恐怖から救えたことへの、静かな安堵だけだった。
町の中央にある大きな旅籠は、信じられないほどの熱気に満ちていた。
普段なら硬い干し肉と薄いスープで済ませるはずの夕餉の席に、湯気を立てる山盛りのシチューや焼きたての麦パン、果実酒の樽が次々と運び込まれてくる。
「さあさあ、遠慮しないで腹いっぱい食ってくれ! あんたがたが持ち込んでくれた清らかな風のおかげで、ここ数日寝込んでいたうちの娘が起き上がれるようになったんだ!」
恰幅のいい旅籠の主人が、涙ぐみながら巨大な肉料理の皿をテーブルへ置いた。周囲を取り囲む町の住人たちも、代わる代わる俺たちの元へやってきては、口々に感謝の言葉を紡いでいく。
「霊峰の瘴気が下りてきてから、井戸の水まで濁っちまって生きた心地がしなかったんだ」
「本当にありがとうございます、旅の旦那様」
差し出される手、向けられる温かな笑顔。そのどれもに打算はなく、純粋な感謝だけが宿っていた。かつて村人たちから浴びせられた冷たい視線とは、まるで正反対の温もり。
居心地の悪さに少し身を縮めていると、隣の席で大振りの串焼きを頬張っていたレオンさんが、からかうように肩をつついてきた。
「おいおいルカ、そんなに縮こまるなよ。お前がシルヴィを連れて瘴気を払ったんだ。堂々と受け取っておけばいい」
レオンさんは豪快にエールを呷り、気負う俺の背中を軽く叩いて笑った。
シルヴィはといえば、俺の膝の上で最高級の干し肉を器用に前足で押さえ、夢中になって食らいついていた。黄金の瞳をとろけさせ、ちびちびと肉を噛みちぎる姿は、世界を救う尊き竜神などとは到底思えない愛らしさだ。
『る、か……これ、おいし……い……。るか、も……たべる……?』
咥えていた肉の端を、差し出すように俺の口元へ押し付けてくる。
「ありがとう、シルヴィ。でもそれはシルヴィの分だよ」
頭を撫でてやると、喉をぐるぐると鳴らして甘えてきた。その無防備な重みが、俺の心に確かな芯を通してくれる。
宿の土間では、町の男たちが俺たちの背嚢へ次々と物資を詰め込んでくれていた。厚手の毛皮で仕立てられた頑丈な防寒外套、霊峰の氷雪を踏みしめるための鉄爪付きの靴、過酷な山歩きを支えるための干し肉や滋養に富んだ木の実。
どれも、これから徒歩で挑む過酷な山道を越えるために欠かせない、一級品の装備ばかりだった。
「旦那方、山頂の神殿を目指すそうだな」
旅籠の主人が、真剣な眼差しで俺の手を握った。
「あそこには狂信者どもが巣食い、不気味な黒い石を使って悪さをしていると聞く。止める義理などないはずなのに、この町のため、世界のために行ってくれるんだろう? これくらいしか力になれねえが、どうか無事で戻ってきてくれ」
「……ありがとうございます。大切に使わせてもらいます」
深く頭を下げた。自分のような孤児が、誰かに必要とされ、背中を押されている。その事実が、胸の奥底をじんわりと温めていく。
守るべき日常があり、信じてくれる仲間がいる。シルヴィの親として、この温もりを決して手放しはしないと、俺は静かに誓った。
翌朝、霊峰の麓は痛いほどの静寂に包まれていた。
見晴らし台へと続く登山口に立つと、夜明けの冷気が肺を刺すように染み込んでくる。見上げる霊峰の巨躯は、空を突くように険しくそびえ立ち、その頂付近には異様な黒雲が重く渦巻いていた。
あの雲の奥に、第一の古代神殿がある。
「……あそこまで登るのか。考えただけでも腰が痛くなりそうだな」
レオンさんがため息を吐きながらも、背負った長剣と重い荷嚢の留め具をしっかりと締め直した。軽口とは裏腹に、その両目には一切の油断がない。町の人々から託された装備をそれぞれ背負い、俺たちは徒歩で険路へと挑む覚悟を固めていた。
「町の人たちのためにも、必ずやり遂げましょう」
「ああ。過酷な山道になるが、俺がしっかり前を歩く。ついてこいよ、ルカ」
「はい!」
俺の胸元の外套から顔を出したシルヴィが、きゅるんと頼もしそうに喉を鳴らした。
『る……か、いっしょ……。こわく、ない……よ』
小さな前足で俺の服をぎゅっと掴むシルヴィの思念は拙くとも、親である俺を信じ切る強い愛情に満ちていて、胸の奥がじんわりと熱くなる。
その時、首から下げた小さな布袋の中、肌着の内側に肌身離さずしまってある卵の殻の破片に、そっと意識が向いた。
祭壇跡で感じた激しい熱さとは異なり、いまは胸元で静かに、けれど確かに、トクンと鼓動のように穏やかな温もりを放っている。まるで、これから向かうべき霊峰の頂を教え、俺たちを守護するかのように。
「ルカ、どうかしたか?」
レオンさんが振り返り、俺の様子を窺う。
「いえ……なんでもありません。行きましょう」
俺は胸元の小さな布袋を衣服の上からそっと指先で押さえ、前を見据えた。
足元に広がるのは、白く凍りついた過酷な巡礼の路。町を出て霊峰の険路へと足を踏み入れた瞬間、山頂を包む黒雲がうねり、吹き下ろす冷気の中に異質な呪詛の唸り声が微かに混じり始めた。過酷な霊峰の先に待つ神殿を目指し、ルカたちの新たな戦いが幕を開ける。
けれど、恐れはなかった。
腕の中には愛する家族の温もりがあり、隣には背中を預けられる仲間がいる。この先どれほど険しい道が待っていようと、歩みを止める理由にはならない。
「行こう、シルヴィ」
きゅるん、と力強い鳴き声が返ってくる。
俺たちは朝靄を切り裂き、霊峰の神殿を目指して確かな一歩を踏み出した。




