第37話
ざくざくと土を踏みしめる靴音が、澱んだ大気の底に沈むように響いていた。
街道を東へと進むにつれて、道端の景色は見る影もなく変わり果てていく。青々としていたはずの木々は黒ずみ、葉をすべて落とした枝が、天を呪う痩せた指先のように突き出ていた。足元に立ち込める薄紫色の靄は、湿った腐葉土と錆びた鉄が混ざり合ったような、胸の悪くなる悪臭を放っている。
「ひどい有様だな……。空気が重く、息を吸うだけで肺の奥がチクチクと痛みやがる」
隣を歩くレオンさんが、口元を布で覆いながら苦々しく呟いた。油断なく周囲へ視線を巡らせ、いつでも抜刀できるよう腰の剣の柄に指をかけている。騎士の制服の襟元を固く閉じ、神経を尖らせているのが横顔からも痛いほど伝わってきた。
「大地の霊脈が根底から濁っている証拠だ。ここまでの汚染となると、神殿の結界が弱まっている影響どころの話じゃないぞ」
俺は歩行の衝撃を和らげるように足運びを慎重に保ちながら、胸元に抱いた毛皮の外套越しに、シルヴィの体を懸命にさすり続けていた。
小さな掌大の体が、小刻みに震えている。普段なら白銀に輝く愛らしい毛並みは艶を失い、触れると火傷しそうなほどの熱を帯びていた。大地の乱れが、幼い竜神の体に直接突き刺さっているのだ。
「きゅぅ……ぅ……る、か……」
「シルヴィ、大丈夫だ。ここにいるよ」
村を出るときにエルナさんから受け取った魔除けの香草袋を外套の隙間に差し込み、少しでも呼吸が楽になるよう胸元を緩める。だが、乾いた熱い吐息が細く漏れ出るばかりで、苦痛は和らぎそうになかった。苦しそうに瞼を震わせる姿を見ていると、胸の奥を万力で締め付けられるような痛みが走る。
村の門前で魔獣と対峙したときは、無我夢中で光の膜を張り、敵の爪を弾き返すことができた。だが、魔獣を防ぐあの障壁の力があっても、体内の熱に苦しむこの小さな命の苦痛を代わってやることも、蝕む瘴気を払うこともできないのか。
焦りとやり場のない歯痒さが渦を巻き、視界が滲みそうになる。
不意に、街道を包む霧の濃度が跳ね上がった。墨汁を水に垂らしたような黒い瘴気が、両脇の立ち枯れた木立から吹き抜けてくる。
「ぐっ……急に濃くなりやがった! ルカ、足元に気をつけろ!」
「レオンさん、一旦街道脇の岩陰に入りましょう!」
街道沿いに突き出た巨大な黒岩の影へ身を寄せる。だが、足を止めても、シルヴィの呼吸はさらに浅く、乱れていった。小さな四肢を強張らせ、身悶えしながら苦しげな唸り声を絞り出している。
限界だった。
理屈や打算なんて、頭のどこにもなかった。ただ、この子が苦しんでいる。誰よりも冷え切っていた俺の孤独を埋めてくれた、かけがえのない我が子が、熱の底で喘いでいる。
俺は外套を広げ、震える小さな体を両腕の中に深く包み込んだ。
自分の胸板にシルヴィをぴたりと押し当て、冷たい風も不浄な靄も一切触れさせないよう、全身で覆い隠す。
「大丈夫だよ、シルヴィ。パパが絶対に守るから……寒くなんかないよ」
耳元で何度も語りかけながら、心臓の鼓動を伝えるように強く抱き締めた。
拾ったあの日、森の奥で凍りついていた卵を、あばら家の中で自分の体温だけを頼りに温め続けたように。この命に何かを求めるわけでもなく、ただ生きていてほしいと願った、あの時の温もりをすべて注ぎ込む。
胸元で、ドクン、と深い脈動が跳ねた。
服越しに密着したシルヴィの胸骨の奥から、柔らかな波紋が広がる。それは熱病の濁った熱気ではなく、春の陽だまりのような、どこまでも澄み切った温かさだった。
外套の隙間から、淡い黄金の光が溢れ出す。
シルヴィのもふもふとした白い毛並みが、俺の体温を吸い上げるように微細な光の粒子を放ち始めた。その光は、周囲を取り囲んでいたどす黒い瘴気に触れた途端、まるで朝日に溶ける霜のように悪意の靄を掻き消していく。
光は二人の体を包む円を描いて広がり、岩陰を、そして街道の数十歩先までを一瞬で満たした。肌を刺していた異臭が消え去り、澄んだ森の香りが鼻腔をくすぐる。
「な……っ!?」
剣を構えて周囲を警戒していたレオンさんが、息を呑んで目を見張った。
「瘴気が……消えた? いや、浄化されたのか……?」
レオンさんが呆然と呟き、ゆっくりと俺たちを見つめた。その瞳には、単なる驚きだけではない、底知れない畏敬の念が宿っていた。
「ルカ、お前……魔獣の一撃を防いだ守りの力だけじゃないのか。お前のその体温と魂が、逆に竜神の力を引き出し、瘴気そのものを浄化して癒やしているっていうのか……」
腕の中を見下ろすと、シルヴィの荒い呼吸はすっかり落ち着いていた。高熱は綺麗に引き、艶やかな白銀の毛並みを取り戻した愛娘は、俺の胸にすりすりと小さく鼻先を押し当ててくる。
『……る、か……あたたかい……』
脳裏に直接響いた念話は、まだ幼く微弱だったが、確かな安らぎに満ちていた。シルヴィは安心しきったように小さなあくびを零し、俺の腕の中で規則正しい寝息を立て始める。どうやら過剰な瘴気を光に変えて無害化し、力を使い果たして眠りに落ちたようだった。
「よかった……本当によかった……」
張り詰めていた糸が切れ、目尻に滲んだ涙を袖で拭う。防ぐだけじゃない。俺がこの子を信じて抱きしめる温もりが、シルヴィの苦しみを癒やす盾になり、薬になるのだと、魂の奥底で確信できた。
「まったく……とんでもない御仁だな、お前は」
レオンさんが安堵の息を吐きながら、感嘆の笑みを零した。
光が収まると、街道の先に覆い被さっていた分厚い霧もすっかり吹き払われ、数十歩先の広場まで視界が開けていた。
その時、首から下げた小さな布袋の中、肌着の内側に肌身離さずしまってある卵の殻の破片が、チリチリと微かに発熱し、耳鳴りのような微細な振動を伝えてきた。
「……何かあります」
俺はシルヴィを起こさないよう慎重に抱き直した。
レオンさんが素早く前に出て、抜身の刃を下げた姿勢で街道脇の広場へと歩み寄る。そこは本来なら旅人の野営地だったのだろうが、今は見るも無惨に荒れ果てていた。
地面には不気味な赤黒い紋様が焼き付けられ、その中心を取り囲むように、幾つもの黒い石柱が突き立てられている。
「これは……」
近づいたレオンさんが、忌々しそうに眉根を寄せた。
突き立てられた石柱の表面には、村を襲った魔獣の体内から見つかったものと同じ、古代の呪詛がびっしりと刻まれていた。エルナさんが言っていた通り、黒魔石を用いて大地の霊脈を歪める儀式が、ここでも大掛かりに行われた痕跡だ。紫黒の不快な光を微かに放ち、足元の土壌をじわじわと腐らせている。
「狂信者どもの祭壇跡だな。大地の霊脈に直接呪詛を流し込んで流れを堰き止め、神殿へ注がれる清浄な力を断ち切るためのものだ。これほど大規模な術式をここで展開していたとはな」
レオンさんが石柱の根元を軍靴の先で蹴りつけ、苦々しく吐き捨てる。
「そして見ろ、ルカ。奴らの標的の先だ」
レオンさんは広場の中央に立つ、ひときわ大きな石柱を指差した。その先端には鋭い刃物で削り取られた深い溝があり、彼方にそびえる霊峰の頂を穿つ禍々しい矢印の形を象っていた。
「エルナ殿の推察通り、狂信者どもの狙いは間違いなく第一の古代神殿だ。この地脈の歪みも、全てあそこを崩すための布石にすぎん」
霊峰を指し示す不吉な道標を前に、胸の奥で静かな、けれど決して消えない怒りの火が灯る。神殿を侵し、大地を穢し、シルヴィの平穏を脅かそうとする狂信者たちの企みを、絶対に許すわけにはいかない。
「行きましょう、レオンさん。この先へ」
俺は腕の中のシルヴィをそっと外套で包み直し、小さな柔らかな手をぎゅっと握り締めた。もう二度と、理不尽な痛みに怯えさせたりはしない。パパとして、この子を守り抜いてみせる。
「ああ。案内しよう」
レオンさんが力強く頷き、再び先頭へと立った。
祭壇跡の向こう、晴れ渡った街道の切れ間からは、霊峰の険しい稜線が黒々とそびえ立っていた。その麓、山の入り口にあたる谷間には、黒雲の影に怯えるように頼りない宿場町の灯りが、ちらちらと小さく揺れているのが見えた。
本格的な山越えに挑むには、あそこで物資を整え、情報を集める必要があるだろう。大地の歪みが生み出した爪痕は、あの町にも確実に及んでいるはずだ。
俺たちは足を速め、夕闇が迫る街道を、宿場町の明かりを目指して進み始めた。




