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第36話

不吉な亀裂が、村を包む半透明の光壁を走った。


乾いたガラスが割れるような甲高い音が響き渡り、空気がびりびりと震える。我が家の庭先、門扉のすぐ外にある結界の境界に群がる影は、三頭や四頭どころではなかった。泥濘のような濃い紫黒の霧を毛並みから立ち上らせ、牙の隙間から粘つく涎を垂らした四足の獣たちが、幾重にも重なり合って押し寄せてくる。


「ルカ、ぼさっとすんな! 来るぞ!」


レオンさんが鋭い呼気とともに鞘から銀の長剣を抜き放ち、俺の斜め前に滑り込んだ。


胸元で、小さな身体が激しく震えている。毛布越しでも分かるほどシルヴィの皮膚は熱く、荒い息を吐き出していた。大地の霊脈が乱れた影響で、この子は今、立っていることすらままならない。それでも、薄く開かれた黄金の瞳には、かつて俺を庇おうとした時と同じ、痛々しいほどの強い光が宿っていた。


「ヒィッ! な、なんちゅう数だ! 結界が持たねえぞ!」


庭先に停めた馬車から、マルコさんが荷台の分厚い防護板を外して駆け寄ってきた。小太りな身体を必死に揺らしながら、震える手で防護板を地面に突き立て、即席の遮蔽壁を作り出す。額には大粒の脂汗が浮いていたが、逃げ出さずにその場に踏みとどまっていた。


ピキィン、と決定的な破断音が鼓膜を打った。


光壁の一角が砕け散り、黒い瘴気の渦とともに先頭の巨獣が門扉を蹴破って跳躍する。熊を二回り大きくしたような筋骨隆々の肉体に、幾本もの角が生えた異形の魔獣だ。血走った赤い眼球が、俺の腕の中にいるシルヴィを正確に捉えていた。


避ける暇はない。逃げれば、後ろにいるマルコさんや村の家々が蹂躙される。


俺は右足を強く踏み込み、左腕でシルヴィを抱き締めながら、空いた右手を真正面へと突き出した。


「シルヴィには、指一本触れさせない……!」


言葉が唇を突いて出たと同時に、胸の奥底で何かがカチリと噛み合った。拾った日から温め続けてきたあの卵の殻の感触が、記憶の底から鮮明に蘇る。全身の血が奔流となって指先へと集まり、黄金色の淡い光膜が、俺の身体を中心に扇状に展開された。


激突の瞬間、耳を塞ぎたくなるような重低音が炸裂した。


魔獣の巨大な鉤爪が、俺の張った光膜の表面で激しく火花を散らす。骨を軋ませるほどの衝撃が腕を通して伝わってきたが、障壁は揺らぎすらしない。かつて帝国の軍勢をも阻んだ、竜の親としての加護。絶対に破らせないという意思が、不可視の硬度となって空間を固定していた。


「ルカの旦那ァッ!」


「レオンさん!」


俺が叫ぶより早く、横合いから銀光が閃いた。


「お前は最高だな、おいッ!」


レオンさんの剣撃には迷いがなかった。魔獣が障壁に弾かれて体勢を崩した刹那、喉元を正確に貫き通す。肉を断ち切る鈍い手応えとともに、レオンさんはそのまま体重を乗せて横一文字に刃を薙ぎ払った。首を深々と裂かれた巨獣が、断末魔の呻きを上げて門前の敷石の上へと崩れ落ちる。


だが、息をつく暇など与えてくれない。結界の裂け目から、さらに三頭の変異狼が黒い霧を撒き散らしながら庭先へと雪崩れ込んできた。


「マルコさん、右だ!」


レオンさんが鋭く叫ぶ。


「へ、へいっ! 商売道具を舐めるんじゃねえぞ、この駄犬どもが!」


マルコさんが懐から取り出した護身用の魔導球の封印環を素早く引き抜き、地を這うように突進してきた狼たちの足元へ投げつけた。炸裂したのは目も眩む閃光と轟音だ。行商人が夜道で盗賊や夜行性の獣を追い払うために持ち歩く特製の目くらまし玉が、強烈な白光を放って弾け散る。


視界を奪われた狼たちが敷石の上で前足を滑らせ、狂ったように顎を鳴らして宙を噛んだ。


その隙を逃すまいと、俺はさらに障壁の魔力を前面へと押し出した。胸元のシルヴィが、ふうふうと熱い吐息を漏らしながら、額を俺の胸板へと押し当ててくる。


『る……か……』


微かな念話が、直接頭の中に響いた。弱々しい、だが確かに自分を信じてくれている声だった。シルヴィの背中の小さな翼から、粉雪のような金色の燐光が舞い上がり、俺の腕を伝って障壁へと溶け込んでいく。高熱に苦しんでいるはずなのに、この子は自分に残された神威を振り絞って、俺の守りを補強しようとしていた。


「ありがとう、シルヴィ。無理しちゃ駄目だ、あとは任せてくれ」


光膜が一気に輝きを増し、突風のような衝撃波となって前方に広がった。


体勢を崩していた二頭の狼が木の葉のように吹き飛ばされ、庭を取り囲む石垣へと叩きつけられる。残る一頭が着地ざまに牙を剥いて飛びかかってきたが、そこにはすでにレオンさんが回り込んでいた。足元の土を蹴り上げ、下段からの鋭い斬り上げが獣の胴を両断する。


黒い血が庭先の敷石を汚し、異臭を放ちながら蒸発していった。


静寂が戻ってきた。結界の裂け目から外を窺うと、森の奥へと引き返していく魔獣たちの気配が遠ざかっていくのが感じられた。先鋒が全滅したことで、瘴気に狂わされた獣たちも本能的な恐怖を思い出したのだろう。


「はぁ、はぁ……結界の内側まで入ってこられるなんて、前代未聞だぞ。どうなってやがる」


レオンさんが剣の血糊を素早く布で拭い、肩で息をしながら呟いた。茶髪が汗で額に張り付いている。普段は軽口ばかり叩いている男の顔に、冗談の欠片も残っていなかった。


「シルヴィ様、ご無事ですか……! あー、寿命が縮んだ。まさか本当にあの群れを押し返すとは」


マルコさんがへたり込み、胸を押さえながら息を整えている。その足元はまだ微かに震えていたが、俺とシルヴィに向ける瞳には、深い安堵と変わらぬ敬意が宿っていた。


「二人とも、怪我はないですか?」


「俺は平気だ。それより、ルカ。ちょっとこいつを見てくれ」


レオンさんが倒れ伏した熊型の巨獣の死骸の傍らに屈み込み、切っ先でその胸部を突いた。厚い毛皮と筋肉を押し広げると、異様な光景が露わになった。


心臓のすぐ隣、肋骨の隙間に、拳ほどの大きさの不気味な鉱石が埋め込まれていたのだ。鉱石は濁った紫黒の光を放ち、周囲の肉を腐食させるように黒い血管状の筋を張り巡らせている。そこから立ち上る悪臭は、結界の外に漂っていた瘴気そのものだった。


「これは……?」


「自然にできたものじゃないわね」


背後から落ち着いた声が届いた。振り返ると、エルナさんが手袋をはめた手で、静かな眼差しを魔獣の胸元に向けて歩み寄ってくるところだった。突然の戦闘にも取り乱した様子はなく、状況を的確に見定めている。


「エルナさん、危ないですから近寄らないでください」


「大丈夫よ、ルカ。息は完全に絶えているわ。……やっぱり、そうなのね」


エルナさんは手袋越しに、慎重にその黒い塊を摘み上げた。肉を無理やり引き裂いて取り出された石には、幾何学的な細い溝が彫り込まれており、その溝に沿って禍々しい光が脈打っていた。


「エルナさん、この石が何なのか知っているのか?」


レオンさんが眉をひそめて問うと、エルナさんは静かに首を横に振り、それから石の表面の溝を指し示した。


「黒魔石の楔よ。大地の霊脈を逆流させ、魔獣を人為的に暴走させるために用いる呪詛の結晶だわ。昔の書物でしか見たことがなかったけれど……これは、野生の獣が体内に宿すようなものじゃないわ」


胸が冷たく締め付けられるのを感じた。


各地の古代神殿が崩壊し、霊脈が枯渇し始めたという報せ。そして、この魔獣の胸に埋め込まれていた人工の呪具。点と点が、残酷な一本の線で繋がっていく。


「自然現象なんかじゃない……。誰かが、意図的に魔獣を暴走させて、結界を破ろうとしたってことか」


「ええ。厄災の復活を目論む狂信者たちの仕業ね。神殿を壊して封印を解くだけじゃ飽き足らず、シルヴィちゃんの命を狙って、あるいは目覚めたばかりの神威を削ぐために、こんな真似をしているのよ」


エルナさんの言葉に、怒りが腹の底で静かに燃え上がった。


この村でようやく手に入れた、穏やかで温かい日常。シルヴィと笑い合い、誰にも怯えずに暮らせるはずだった場所を、奴らは理不尽な悪意で踏みにじろうとしている。シルヴィが苦しんでいるのは、大地が傷ついているからだけではない。奴らが意図的に撒き散らした毒のせいなのだ。


「許せないな」


呟いた言葉は低く、自分でも驚くほど冷徹だった。腕の中のシルヴィが、俺の感情に呼応するように、微かに喉を鳴らした。


「……改めて、行くしかないな。狂信者どもの企みを止めるためにも」


レオンさんが立ち上がり、長剣を鋭い音とともに鞘へと収めた。その横顔には、いつもの気苦労に満ちた表情ではなく、かつて帝国と対峙した時のような騎士の厳しさが戻っていた。


「ああ。東の霊峰にある、最初の神殿へ急ごう」


すでに旅の支度を整えてくれていたエルナさんが、俺の背負い袋の位置を直しながら優しく微笑んだ。


「村の結界は、残った私たちで修復しておくわ。心配いらないわよ。ルカ、あなたはその子の親として、やるべきことをしておいで」


「エルナさん……ありがとうございます」


マルコさんも、馬車の傍らから力強い頷きを返してくれた。


「街道は瘴気で冷え込んでやす。シルヴィ様を冷たい風に当てちゃいけねえ。先ほどお渡しした外套をしっかり巻いて、必ず無事に戻ってきてくだせえよ」


「マルコさん、ありがとう。大切に使わせてもらいます」


事前に受け取っていた厚手の外套を引き寄せ、シルヴィを胸元に深く抱き込んだ。毛皮を内側に張り巡らせた上質な生地が外の不快な冷気を遮断し、俺の体温がシルヴィへと逃げずに伝わっていく。シルヴィは安心したように目を閉じ、俺の胸に小さく鼻先を擦り寄せてきた。


守るべきものがある。帰るべき場所がある。だから、俺はもう迷わない。


村の門扉を抜け、東へと伸びる街道に足を踏み出した。


見上げる東の空は、厚く淀んだ鉛色の雲に覆われ、地平線の彼方にそびえる霊峰の影を黒く塗り潰していた。大気を撫でる風には、微かに焦げ付くような呪詛の臭いが混ざり合っている。


魔獣の胸から抉り出された黒魔石の楔。そこに刻まれていた古代の呪詛は、自然の摂理を歪め、大地を食い破る狂信者たちの暗躍を雄弁に物語っていた。


あの黒い石を使って霊脈を汚染し、世界を破滅へと導こうとする者たちの真の狙いは何なのか。そして、この荒れ狂う瘴気の街道を越えた先に待つ第一の神殿で、俺たちを何が待ち受けているのか。重苦しい暗雲が、行く手を阻むように立ち込めていた。

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