第35話
腕の中に伝わってくる熱は、小さな命が削られていく音のようだった。
毛布越しに抱きしめたシルヴィの体は、かつてないほど熱く、浅い息を繰り返している。普段なら機嫌よく俺の胸元に顔を埋めてくるもふもふの愛らしい頭が、今はぐったりと垂れ下がっていた。額を合わせると、焼けるような熱気とともに、弱々しい鼓動が頼りなく伝わってくる。
東の地平線に目をやれば、夜明けの白みを塗り潰すように、黒い瘴気の渦が立ち上っていた。不可侵の結界に守られたこの村のすぐ外側まで、草木を枯らす穢れが迫っているのが見て取れる。
「……村を出る」
自分の喉から出た声は、驚くほど低く、硬かった。
すぐ隣に立っていたレオンさんが、息を呑んでこちらを振り向いた。
「おい、本気かよルカ。外に出るって……今のシルヴィを連れてか? あいつを狙ってる各国の上層部だけじゃない、東の空を見ろよ。あんな瘴気の渦中に突っ込むなんて正気の沙汰じゃねえぞ」
「ここに残っていても、シルヴィは助からない」
俺は腕の中の重みを確かめるように、力を込めて抱き締めた。痛がらせないよう、けれど決して手放さないように。
「大地の霊脈が腐り落ちれば、いくら結界があっても意味がないんだろ。この子が苦しんでいる元凶を叩かなきゃ、いずれ息絶えてしまう。……誰かに頼る気はない。あいつらはシルヴィの力を利用することしか考えていないんだから」
帝国も、聖騎士団も、シルヴィを最強の兵器としてしか見ていなかった。そんな連中に愛娘の命を預けられるはずがない。俺自身の手で、この子を守り抜く以外に道はなかった。
レオンさんは唇を真一文字に結び、眉間に深い皺を刻んだ。常識人である彼にとって、平穏な聖域を自ら捨てて危険な荒野へ踏み出す選択が、どれほど無謀に映っているかは痛いほど分かっていた。
「……外の過酷さは、お前の想像以上だぞ。補給も宿もろくにねえ山道を行くことになる。それでも行くって言うのか」
「ああ。どれだけ危険だろうと関係ない」
俺はレオンさんの目をまっすぐに見据えた。かつて村の片隅で凍えていた俺に、生きる意味と温もりをくれたのはシルヴィだ。この子のいない平穏など、俺にとっては冷たい暗闇と同じだった。
「俺が、シルヴィの親だからな」
レオンさんは呆れたように天を仰ぎ、深く、長いため息を吐き出した。乱暴に茶髪をかきむしると、腰の剣帯を締め直す。
「……はぁー、分かってたよ。お前がそう言い出すことはな。まったく、とんだお人好しの護衛を引き受けちまったもんだ。一人で行かせるわけねえだろ。俺もついていく」
「レオンさん……」
「勘違いすんなよ。仕事熱心なだけだ。お前たちに野垂れ死にされたら、俺の寝覚めが悪すぎるからな」
ぶっきらぼうに背を向けたレオンさんの言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。かつては帝国の任務で俺たちを監視していたはずの青年が、今ではこうして当たり前のように隣に立ってくれている。
背後の戸口から、静かな足音が近づいてきた。盆の上に湯気の立つ薬湯を載せたエルナさんが、静かに微笑みながら佇んでいた。
「決めたのね、ルカくん」
「エルナさん……勝手を言ってごめんなさい。せっかく守ってもらったこの家を、空けることになって」
「謝る必要なんてないわよ」
エルナさんは穏やかな手つきで、冷たい湿布をシルヴィの額に当て直してくれた。世界最強の竜神を相手にしても、この老婦人の態度はいつだって変わらない。
「大切な家族が苦しんでいる時に、じっとしていられる親なんていないもの。行ってあげなさい。旅の支度なら、私が手早く済ませてあげるから」
エルナさんは居間の奥へ向かい、乾かしてあった保存用の薬草や滋養に効く干し肉を手際よく麻袋へと詰め始めた。迷いのないその背中に深く頭を下げ、俺たちは居間の円卓へと移動した。
居間の円卓の上には、蝋燭の灯りに照らされた古文書の写本が広げられていた。
レオンさんが荷物の底から取り出したそれは、古風な革表紙に包まれた分厚い冊子で、かつてこの村を訪れていた学者オズワルドが、もしもの時のためにとレオンさんへ託していった調査資料だという。
「オズワルドの旦那が大陸中の文献を漁って突き止めた記録だ。東の神殿で起きている異変を止める手立てが書かれている」
レオンさんが指先で古文書に綴じられた煤けた地図をなぞった。天を衝く巨竜の紋章とともに、複雑な古代文字がびっしりと書き込まれている。
「霊脈の逆流を食い止めるには、神殿の最奥にある祭壇で『調和の術式』を起動しなきゃならねえ。先代竜神の遺志を継ぎ、乱れた霊脈の結節点を再封印する唯一の方法だ。だが……これを発動できるのは、先代竜神の血脈か、その魂と深く共鳴した者だけとされている」
「シルヴィと……俺か」
胸元に手を当てると、首から下げた小さな布袋の中、肌着の内側にしまってある卵の殻の小さな破片が、トクン、と熱を帯びて微かに震えた。あの日、冷え切っていた卵を温め続け、孵化の瞬間に立ち会った時に手元に残った大切な破片だ。
俺が肌着の中から布袋を引き出し、中の殻を取り出して古文書の地図の上にかざすと、淡い真珠色の燐光が指先から溢れ出した。
光は羊皮紙の頁に吸い込まれるように走り、東方の山脈の一角――雲海を突き抜けるように聳え立つ険しい霊峰の頂を、静かに照らし出した。
「光った……ここが、最初の場所なのか」
「東の第一神殿だな」
レオンさんが険しい表情で地図の記号を睨みつける。
「標高が高く、普段なら近づくことすら困難な断崖絶壁の上だ。しかも今は黒い瘴気が麓を覆い尽くしているはずだ。生きて辿り着ける保証はどこにもねえぞ」
「それでも行くよ。手掛かりがあるなら、迷う理由はない」
目指すべき場所は定まった。暗中模索の絶望の中に、わずかとはいえ明確な道筋が見えたのだ。それだけで、冷え切っていた足元に微かな力が戻ってくるようだった。
夜が完全に明け、薄暗い朝の光が庭先を照らす頃、外からけたたましい荷馬車の車輪の音が響いてきた。
門扉の前に停まった馬車から転がり出るように降りてきたのは、派手な上着を着崩した小太りの男――行商人のマルコさんだった。息を切らし、額に大粒の汗を光らせながら、荷台から木箱を抱えて駆け寄ってくる。
「ルカの旦那! 起きてますかい!」
「マルコさん? こんな朝早くにどうしたんですか」
「どうしたじゃありませんよ! オズワルドの旦那から大至急の報せが届きやしてね、旦那たちが出立するって聞いて、ありったけの物資をかき集めて飛んできたんです!」
マルコさんは息を弾ませながら、抱えていた木箱をどさりと庭の敷石に降ろした。蓋を開けると、丁寧になめされた軽くて頑丈な魔獣革の防具や、過酷な旅に耐えうる厚手の天幕に頑丈な野営道具、さらには日持ちのする貴重な乾燥果実や保存食が所狭しと詰まっていた。
「これ……全部、俺たちに?」
「当たり前ですかい! 代金なんざいりませんよ。あっしがこれまで無事に商売を続けてこられたのも、旦那とシルヴィ様のおかげなんですから。こんな時に役立たずの守銭奴でいられるもんですかい」
愛想笑いを浮かべながらも、マルコさんの瞳は真剣そのものだった。普段のがめつさは微塵もなく、無償で手渡された装備の数々に、人の情けのありがたさが身に染みる。
「ありがとうございます、マルコさん。大切に使わせてもらいます」
「へへっ、シルヴィ様が全快したら、また美味い果物でもたんまり仕入れてきますからね。……旦那、どうかご無事で」
荷造りを終えたレオンさんが荷物を馬車の手配と照らし合わせ、エルナさんから特製の水筒を受け取る。俺は毛布をしっかりと巻き直したシルヴィを、胸元にしっかりと結んだ丈夫な帯布の中に収めた。
微かな気配に気づいて胸元を見下ろすと、熱に浮かされていたシルヴィが、薄くまぶたを持ち上げていた。金色の瞳は濁り、苦しげに細められている。
「……る、か……」
小さな小さな、震える念話が頭の奥に響いた。
シルヴィは弱々しく前足を伸ばすと、俺の服の襟元を、頼りなげな力でぎゅっと握りしめてきた。いつもなら威風堂々と俺の膝の上を占領し、他者を威圧する世界最強の竜神が、今はただ怯える幼子のように俺の体温にしがみついている。
俺はそっと自分の指を差し出し、その小さな前足に重ねた。
「パパが必ず助ける。だから、怖がらなくていいよ」
額を寄せ、優しく囁きかける。シルヴィは安心したように小さく息を漏らすと、再び瞼を閉じて俺の胸に体重を預けてきた。この温もりを、何があっても途絶えさせはしない。
「よし、行こう」
俺が門へ向けて最初の一歩を踏み出した、まさにその時だった。
チリッ、と胸元で肌を刺すような痛みが走った。
肌着の内側、首から下げた布袋の中にある卵の殻の小さな破片が、かつてないほど激しい熱を放ち、耳を劈くような金属質の鋭い警告音を鳴り響かせたのだ。
「な、なんだ!?」
レオンさんが即座に腰の剣の柄に手をかける。マルコさんが悲鳴を上げて馬車の陰へと飛び退いた。
ただの共鳴ではない。明確な敵意と悪意の接近を告げる、痛烈な拒絶の音だった。
直後、村を包む不可侵の結界の彼方から、大気を激しく震わせる地鳴りが轟いた。
ゴォオオオオオオン――ッ!
地響きのような咆哮が、東の森の奥から吹き抜けてくる。木々がバキバキと音を立ててなぎ倒され、立ち込める黒い瘴気の中から、おびただしい数の紅い光が浮かび上がった。
それは、瘴気に呑まれて正気を失い、異形へと変わり果てた凶暴化魔獣の群れだった。血走った無数の瞳が、結界のすぐ外側から、狂気を孕んで俺たちを睨みつけている。
結界の境界線に黒い火花が散り、激しい軋み音が朝の静寂を破壊した。
「嘘だろ……結界のすぐそこまで、もう群れが押し寄せてきてやがるのか!?」
レオンさんの叫びが木霊する中、俺は衰弱したシルヴィを庇うように抱きしめ、迫り来る異形の影を睨みつけた。旅立ちの第一歩を踏み出そうとしたその足元を、容赦のない厄災の牙が阻もうとしていた。




