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第34話

赤黒い光は、もはや布切れ一枚で覆い隠せるような強さではなかった。


首から下げた布袋から取り出し、手のひらに乗せたその破片は、指先を焼くほどの熱をじりじりと放ち続けている。


手のひらにあるのは、かつてシルヴィが生まれ落ちた際に割れた、卵の殻の小さな破片だ。普段は半透明の硬質な殻として穏やかに澄んでいたはずの表面が、今はまるで煮え立つ溶岩のようにどす黒い朱色へと染まり、不気味な脈動を繰り返している。耳の奥を直接針で刺されるような高い金属音が、部屋の隅々まで染み渡るように鳴り響いていた。


「ルカ、危ねえ! 手放せ!」


レオンさんが腰の長剣に手をかけながら身を乗り出す。だが、俺は首を横に振った。手放すことなどできるはずがなかった。俺の手のひらで、この殻はただ熱を発しているのではない。まるで助けを求めるように震えているのだ。


不意に、視界が歪んだ。


赤黒い光が瞳の奥へ焼きつくように広がり、周囲の音がすっと遠のく。レオンさんの叫びも、エルナさんが立ち上がる気配も消え失せ、俺の意識は得体の知れない暗闇へと乱暴に引きずり込まれていった。


――ゴォォォォォッ、と耳を劈く地鳴りが響く。


目を開けたわけではない。けれど、脳裏に生々しい光景が雪崩れ込んできていた。


見知らぬ空だ。紫色の雷雲が渦を巻き、天を貫くほどの白亜の神殿が、黒い瘴気の嵐に飲み込まれていく。巨大な礎石が爆音とともに吹き飛び、かつて神聖な輝きを宿していたはずの術式が、黒魔石の光によって無残に塗りつぶされていく光景。


大地を巡る魔力の奔流が、堰を切ったように逆流を始めていた。澄んだ脈動だったはずの大地の息吹が、濁った泥水のように変色し、四方八方へと毒を撒き散らしていく。神殿の奥底に封じられていた何かが、ぎちぎちと爪を立てて結界を内側から引き裂こうとしていた。


それは、遠い昔にこの殻を残した存在――先代竜神の記憶の残滓だった。


『我が子よ……大地が、枯れ果てる……』


掠れた嘆きが頭蓋を震わせる。単なる外敵の襲来ではない。世界の底が抜け、命の循環そのものが反転しようとしている。この殻が放つ警告は、差し迫る厄災の真実を告げていた。


「ぐっ……!」


激しい眩暈とともに、意識が急速に引き戻された。足がもつれ、俺はその場に膝をつく。荒い息を吐き出しながら床板を見つめると、手の中の破片はゆっくりと光を収め、くすんだ灰色へと落ち着きを取り戻しつつあった。


「ルカくん! しっかりなさい!」


エルナさんが駆け寄り、背中に温かい手を当ててくれる。心配そうに覗き込むレオンさんの顔も、酷く青ざめていた。


「今のは……一体何だったんだ、ルカ。お前の顔、紙みたいに真っ白だぞ」


「神殿が……」


乾き切った喉から、かすれた声を絞り出す。


「聖騎士の言っていたことは、本当だったんだ。東の神殿だけじゃない。各地の封印が何者かに壊されて……大地の魔力が、狂い始めてる」


ラウル率いる聖騎士団を追い払った時は、国家の身勝手な都合にシルヴィを巻き込ませてたまるかという一心だった。不可侵の条約を盾に村に籠もり、外界の争いから愛娘を守り抜くことこそが親の務めだと信じていた。


だが、この警告の真意は違った。外敵を退ければ済むような話ではなかったのだ。大地そのものが壊れてしまえば、どれほど強固な結界を張ろうと、この村の平穏も砂上の楼閣に過ぎない。


背筋を冷たい汗が伝い落ちる中、俺はハッとして傍らに目を向けた。


「シルヴィ……?」


いつもなら、俺が怯えたり倒れ込んだりすれば、真っ先に駆け寄って顔を寄せてくるはずの相棒の姿がなかった。居間の絨毯の上、少し離れた場所に、白く小さな塊が横たわっている。


「……く、ぅ……」


漏れ聞こえてきたのは、絞り出すような苦悶の呻きだった。


膝頭を擦りむくのも構わず這い寄り、小さな体を両手で抱き上げる。持ち上げた腕の重みに、俺の血の気が一気に引いた。


「熱い……!?」


普段のもふもふとした心地よい温もりなどではない。まるで高熱の鉄板を抱え込んだかのように、シルヴィの全身が尋常ではない熱を帯びていた。手のひらサイズの小さな体が小刻みに震え、金の瞳は濁り、苦しげに細められている。


『ル、カ……くる、し……我が、体が……言うことを、聞かぬ……』


脳裏に届く念話は、今にも途切れてしまいそうなほど細く、頼りなく揺れていた。


「シルヴィ! 目を開けろ、シルヴィ!」


呼びかけても、力ないまぶたが微かに震えるだけで、焦点が合わない。ふさふさとした尾はだらりと垂れ下がり、俺の指を握り返そうとする小さな爪も、力なく滑り落ちてしまう。


「どうしたんだ急に!? 怪我でもしたのか!?」


レオンさんが驚愕の声を上げ、床に屈み込んでシルヴィの体を改めようとする。だが外傷などどこにもない。エルナさんが眉をひそめ、シルヴィの額に皺だらけの手をかざした。


「待って。……これは、外からの毒や傷じゃないわ。この子の内側にある、力そのものが暴走しかけている」


「魔力の暴走……? そんな、さっきまで元気に飯を食ってたんだぞ!」


「竜神はね、この世界の息吹そのものと繋がっているのよ。……さっきルカくんが見たという記憶の通りなら、各地の神殿が崩れたことで、大地を巡る魔力の質が急速に変質してしまったんだわ。綺麗で澄んだ空気を吸うべき生き物が、突然毒煙の中に放り込まれたようなものよ」


エルナさんの言葉が、鋭い刃のように胸に突き刺さる。


大地の乱れ。神核の消耗。世界最強の守護者であるはずのシルヴィは、この大地と最も深く結びついているがゆえに、世界が受けている傷の痛みを、真っ先にその身で引き受けてしまっていたのだ。


「とにかく、寝かせよう。体を冷やすんだ」


俺はシルヴィを落とさないよう固く胸に抱きしめ、奥の寝室へと急いだ。


ベッドのシーツの上にそっと横たえると、シルヴィは苦痛に顔を歪めながら、俺の袖口を弱々しく甘噛みしてきた。俺から離れたくないと、そう訴えかけているかのように。


エルナさんが手早く冷たい井戸水で濡らした手ぬぐいを持ってきて、シルヴィの熱い首筋や額にそっと当てる。レオンさんは棚をひっくり返し、彼が持てる最高の解毒ポーションや滋養薬の小瓶を次々に開けた。


「頼む、効いてくれよ……!」


レオンさんが薬液をスプーンに取り、シルヴィの口元へ運ぶ。だが、神の血を引く幼い竜の体は、人間が調合した薬など受け付けなかった。スプーンが唇に触れた途端、弾けるような青白い火花が散り、薬液は煙を上げて蒸発してしまう。


「くそっ、人間の薬じゃ駄目なのか……!」


レオンさんが悔しげに拳をベッドの枠に叩きつける。エルナさんが取り替える濡れ手ぬぐいも、シルヴィの体に触れてわずか数息で、湯気を立てて生ぬるく干からびていく。


何の処置も通用しない。


『熱、い……ルカ……我は、どうなってしまったのだ……? 体が、燃えるように痛むのだ……』


助けを求めるその細い声に、喉が引きつって返事すら出ない。


かつて俺が冷え切った卵を抱きしめ、体温を分け与えたあの日が頭をよぎる。あの時は、俺の温もりだけでこの子を目覚めさせることができた。孤独だった俺たちの間に灯った小さな光が、奇跡を起こしてくれた。


だが、今は違う。俺の体温など比べ物にならないほどの熱に侵され、もがき苦しむ愛娘を前にして、俺には冷たい布を当てることすら満足にできないのだ。


無力感が、鉛のように胃の腑を重く押し潰す。


村の連中に虐げられていた頃の、何も持たず、何も選べなかった惨めな自分に戻ったかのような錯覚。歯を食いしばり、俺はシルヴィの熱い前足を両手で包み込んだ。拒絶の火花が散り、掌の皮が焼ける痛みが走る。それでも、絶対に手だけは離さなかった。


「大丈夫だ、シルヴィ……俺がここにいる。絶対にお前を死なせたりしない……!」


震える声で何度も語りかける。シルヴィは荒い息の合間に、ふっと微かに瞳を動かし、俺の親指に小さく頭をすり寄せてくれた。けれど、その力は刻一刻と弱まっていくのが残酷なほど伝わってきた。


部屋の窓の隙間から、冷え冷えとした夜風が吹き込んできた。


その風に乗って届いた微かな異臭に、レオンさんが弾かれたように窓辺へと歩み寄る。カーテンの端を引き絞り、外を窺った彼の背中が、見たこともないほど強張った。


「おい……ルカ、ちょっとこれを見ろ」


ただ事ではない響きに、俺はエルナさんに目配せをした。エルナさんは静かに頷き、俺の代わりにシルヴィの小さな背中を優しく撫で始める。俺はシルヴィを厚手の毛布で包み込むと、自分の腕の中に抱き上げたまま、足音を忍ばせて寝室を出た。


靴を履く暇も惜しく、勝手口から裏庭へと出る。


未明の冷気が肌を刺した。澄み切っているはずの夜の空気は、埃と錆が混ざり合ったような不快な匂いを帯びていた。


「あそこだ……見ろよ」


レオンさんが指差した先――東の地平線に、俺は息を呑んだ。


夜明け前の藍色の空を、下から貪るように黒い帳が侵食していた。星々の光を塗りつぶし、重苦しく渦を巻く瘴気の雲。村を囲む不可侵の結界のすぐ外側、見晴らし台の麓に広がる森の木々が、音もなく立ち枯れ、黒ずんでいくのが遠目にも分かった。


大地が死にかけている。


聖騎士の言葉は誇張でも何でもなかった。災厄はすでに、この平穏な辺境の喉元にまで刃を突きつけていたのだ。


腕の中で、シルヴィが苦しげに身じろぎをする。毛布越しに伝わる熱は、先ほどよりもさらに高くなっているように思えた。東の瘴気が蠢くたびに、シルヴィの小さな胸が引きつるように激しく上下する。


どれだけ各国との間に不可侵条約を結ぼうが、どれだけ強力な結界で村を閉ざそうが、大地の霊脈が腐り落ちれば逃げ場などどこにもない。村に留まり、平穏な殻に閉じこもるという選択肢は、愛娘をこの手で緩慢な死へと追いやるのと同義だったのだ。


「ルカ」


隣に立つレオンさんが、低く絞り出すような声で言った。いつもの軽口は影を潜め、その横顔には苦渋が滲んでいた。


「あいつらの言う通り、東の神殿はもう手遅れかもしれねえ。……だが、原因を叩かなきゃ、この瘴気は大陸全土を呑み込むまで止まらねえぞ。シルヴィのこの状態も……」


「分かってる」


遮る言葉は、自分でも驚くほど冷たく、乾いていた。


世界を救うためじゃない。大層な大義名分や、神聖国家の都合になんか興味はなかった。ただ、この腕の中で弱々しく息を喘ぐ愛娘を、失いたくない。


熱に浮かされ、きつく閉じられたシルヴィのまぶたに、俺はそっと額を押し当てた。


東の空を覆う黒い瘴気は、夜明けの光さえも呑み込もうと狂い咲いている。平穏という名の安らぎは、音を立てて砕け散っていた。夜明け前の底知れぬ冷気の中、愛する家族の命を繋ぎ止めるため、俺は己の足元が音を立てて崩れ落ちていくのを感じていた。

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