第33話
坂道を駆け上がってきた騎馬の蹄音が、見晴らし台の麓に敷かれた石畳を乱暴に叩いた。
荒い息を吐き出す軍馬の群れから飛び降りたのは、泥と赤黒い飛沫で汚れきった白銀の甲冑を纏う一団だった。擦り切れたマントには、神聖国家を象徴する百合の紋章が痛々しく歪んでいる。
先頭に立つ金髪の青年が、村の境界を示す古い道標の前で足を止めると、金具を軋ませてその場に片膝をついた。
「ルカ殿とお見受けする! 不躾な来訪、平にご容赦願いたい!」
張り詰めた青年の声が、真昼の乾いた空気に突き刺さる。
背後で即座にチャキンと乾いた金属音が鳴った。レオンさんが腰の長剣の柄に指をかけ、青白い顔のまま一歩前へ進み出る。
「おいおい、聖騎士団総隊長ともあろうお方が、泥まみれで何のお出ましだ。ここは大陸全土が認めた神聖不可侵の地のはずだが? 条約の文面を忘れたわけじゃあるまいな、ラウル殿」
苦虫を噛み潰したようなレオンさんの問いかけに、ラウルと呼ばれた青年隊長は顔を伏せたまま、唇を固く引き結んだ。
「条約の重みは骨身に染みている。処罰ならば後刻いかようにも受ける所存だ。だが、もはや一刻の猶予もないのだ……!」
ラウルが顔を上げた。碧眼の奥に宿る焦燥と切迫の色に、俺は思わず息を呑む。彼らの背後、遥か東方の空を覆う黒い染みが、昼の青空を喰い破るように蠢いていた。
「東方に鎮座する古代神殿の封印が、何者かの手によって爆破された。地下底から解き放たれた濃密な瘴気は、平原の要衝都市を瞬く間に呑み込み、防衛にあたった我が騎士団の半数が息絶えた。このままでは数日のうちに、大陸全土へ死の霧が満ちる」
震える声で語られる惨状に、胸の奥がきしりと軋む。
俺の腕の中にいたシルヴィが、喉の奥からグルルと低く地を這うような唸り声を漏らした。もふもふとした白い毛が鋭く逆立ち、金色の瞳が冷徹な敵意を宿して騎士たちを射すくめる。その鋭い黄金の双眸には、神殿の崩壊を告げる男たちへの容赦ない警戒が滲んでいた。
世界最強の竜神から放たれる目に見えない威圧に、膝をついていた聖騎士たちが息を詰まらせ、青ざめて身じろぎする。ラウル自身も蒼白になり、額に冷たい汗を滲ませながら、それでも必死に視線を逸らさず俺へと向けた。
「古き伝承によれば、あの災厄を鎮められるのは神託の竜神様のみ。頼む、ルカ殿……! どうか竜神様をお貸しいただき、災いの根源を討つため前線へ出陣させてほしい!」
地面に額を擦りつけんばかりに下げられた頭。
世界を救うための出陣要請――その言葉の響きに、俺の胸の中に冷たい澱のような違和感が広がっていくのを覚えざるを得なかった。
◆ーーーー◆
見晴らし台の麓での押し問答を経て、俺たちは自宅の庭先へと場所を移していた。傾き始めた午後の日差しが、白銀の甲冑にぎらついた光を投げかけている。
縁側の端には、薬草の籠を抱えたエルナさんが静かに佇み、村長も不安そうに遠巻きに見守っている。庭の中央に立ったラウルは、従者に命じて革張りの豪奢な木箱を二つ、泥の上に広げさせた。
蓋が開かれると、眩い輝きが溢れ出す。
ぎっしりと敷き詰められた特級の金貨の山、そして神聖国家の玉璽が押された羊皮紙の巻物だった。
「我が国の全財産にも匹敵する補償金と、最高位の特権階級を保証する証書だ。竜神様を我が軍の象徴として前線へお導きいただけるなら、ルカ殿には生涯にわたる富と、王族と同等の栄誉を約束しよう。どうか、世界を救う救世主としての御決断を」
ラウルは恭しく、かつ切迫した調子で黄金の目録を差し出した。
だが、腕の中のシルヴィは、目の眩むような財宝に目もくれなかった。それどころか、差し出された紙片に不快そうに鼻を鳴らすと、小さな前足で俺の服の襟元をぎゅっと掴み、怯えるように胸元深くへと潜り込んでしまった。
柔らかいもふもふの温もりが、肌を通して直接伝わってくる。
この子は、怯えているのだ。自分をただの力、便利な切り札として見つめる大人の眼差しに。
俺は足元に差し出された豪奢な木箱を一瞥もしなかった。ただ静かに靴の先でそれを押し戻し、ラウルを冷ややかに見据える。
「断る。帰ってくれ」
短く告げた拒絶に、ラウルが弾かれたように目を見開いた。
「な……なぜだ! 条件に不満があるというのか!? 望むなら領地でも爵位でも、我が国の持てるすべてを差し出そう! 今この瞬間にも、東の都市では名もなき民が黒い瘴気に呑まれて命を落としているのだぞ!」
「条件の問題じゃない」
胸元で小さく震えるシルヴィの背中を、手のひらで包み込むように撫でた。
虐げられ、誰からも見向きもされなかった俺が、あばら家で冷え切っていた卵を温め続けた日々。生まれてきてくれたこの子は、俺を親として選び、ただ隣にいることだけを望んでくれた。それを、国家の都合で前線へ差し出せというのか。
「あんたたちは、シルヴィを兵器として見ているだけだ。強い力があるから、都合のいい奇跡を起こしてくれる道具として使い潰そうとしている」
「道具などと滅相もない! 我らは神として崇め、救世の御使として仰ぐと言っているのだ!」
「呼び方を変えたって同じだろ!」
思わず声を荒らげていた。喉の奥からせり上がってきた怒りが、自分でも驚くほど鋭い響きとなって庭先に落ちる。
ラウルが気圧されたように言葉を詰まらせた。
「あの子はまだ、生まれたばかりの小さな子どもだ。世界を救う責任なんて、背負わされる筋合いはない。神様だとか救世主だとか祭り上げて、危険な前線へ矢面に立たせる気か? そんなことのために、俺はこの子を温めて孵したんじゃない」
「だが……! このままでは数万、いや数十万の無辜の民が死に絶えるのだぞ! 大いなる力を持つ者がその責務を果たさねば、世界は滅びる! 少数の犠牲を厭うて、全土を見殺しにするというのか!」
ラウルの瞳に、正義を信じる者特有の激情が燃え盛る。その言葉の正しさは、俺にも痛いほど分かっていた。彼が私利私欲ではなく、本気で人々を救うために必死になっていることも。
だが、それでも譲れない一線がある。
「家族を差し出して守る平和なんて、俺には何一つ価値がない」
冷徹なまでに平坦な声で、俺は言い放った。
「世界がどうなろうと、俺はシルヴィの親だ。この子を守るためなら、俺は世界中を敵に回したって構わない。頼むから、もう二度と俺の家族を道具扱いしないでくれ」
毅然とした拒絶の言葉に、ラウルは息を呑み、力なく両腕を垂らした。
世界を救う大義を掲げて突き進んできた若き隊長は、名もなき少年の頑なな愛の前に、自らの掲げる正義の刃を完全にへし折られたようだった。
「……そうか。それが、貴殿の答えか」
ラウルは深く頭を垂れ、悔しさに震える手で木箱の蓋を閉じた。背後の聖騎士たちもまた、重苦しい沈黙の中で武器を収め、失意を滲ませながら村の境界へと引き返していく。
去っていくその背中を、レオンさんが長いため息と共に静かに見送っていた。
◆ーーーー◆
夜の静寂が、新しく建てられた木造の家を包み込んでいた。
居間の暖炉には薪がくべられ、パチパチと心地よい爆ぜる音を立てている。聖騎士団は村の外、街道沿いの荒地に野営を張ったようだが、再び境界を越えて乗り込んでくる気配はなかった。
「はい、ルカくん。少し冷えたでしょう」
湯気を立てる素焼きのカップが、木製のテーブルに置かれた。エルナさんが優しく目を細め、淹れたてのカモミールティーを差し出してくれる。独特の甘い香りが、張り詰めていた神経をわずかに解きほぐした。
「……すみません、エルナさん。勝手なことを言って。俺のせいで、村がまた騒動に巻き込まれるかもしれないのに」
カップを両手で包み込みながら呟くと、エルナさんは穏やかな笑みを崩さず、俺の強張った肩をそっと撫でてくれた。
「いいのよ。あなたは親として、当たり前のことを言っただけだもの。誰かが背負わなきゃいけない理不尽を、あんな小さな子に押し付ける大人の都合なんて、突っぱねて当然です」
「エルナさん……」
「それにね、シルヴィちゃんはとても嬉しそうよ」
視線を落とすと、俺の膝の上を独占しているシルヴィが、もふもふの顎を俺の太ももに擦り付けながら、ゴロゴロと喉を鳴らしていた。前足を器用に使って俺のズボンの布地を揉みほぐし、甘えるように見上げてくる。
「……ふん。ルカの膝の上は、我だけの特等席だぞ。誰にも渡さぬ。ずっとルカと一緒におるのだ」
幼くも凛と澄んだ声には、先刻までの刺すような冷たい気配など微塵も残っていなかった。尊大に胸を張りつつも、ただ純粋に、自分を守ってくれた親への全幅の信頼と愛情だけが満ちている。
「ああ、ずっと一緒だ。どこにも行かせないよ」
俺はそっと息を吐き、シルヴィの柔らかな背中を撫でた。
これでよかったのだ。どんなに責められようと、世界中の誰から罵倒されようと、俺はこの子の平穏を守り抜いてみせる。
胸の奥に広がる安堵に身を委ね、カップのお茶を一口すすろうとした。
――ツン、と。
突如、肌着の内側に忍ばせていた布袋から、針で刺されたような鋭い熱気が走った。
「っ……!?」
思わずカップを取り落としそうになり、慌ててテーブルへ戻す。
胸元の布越しに、肌が焦げるような強烈な高熱が伝わってきた。驚いて肌着の内側に手を差し入れ、首から下げていた布袋を取り出す。
中に入っているのは、昼間から異様な熱と光を帯びていた、シルヴィの卵の殻の破片だ。
半透明の硬質な殻が、昼間見せた光を遥かに超える勢いで、不吉な赤黒い光を帯びて激しく脈打っていた。
まるで生き物の心臓のように、ドクン、ドクンと一定の間隔で熱の波を放っている。それだけではない。目に見えない振動と共に、キィィィンと耳の奥を掻きむしるような共鳴音が、昼間よりもずっと高く部屋の中に響き始めたのだ。
膝の上で甘えていたシルヴィが、弾かれたように顔を跳ね上げた。
喉を鳴らしていた愛らしい気配は一瞬で消え去り、金色の瞳を限界まで見開いて、俺の手元の破片を凝視している。
『――痛い』
脳裏に直接飛び込んできたのは、いつものシルヴィの声ではなかった。
もっと遠く、深い闇の底から響いてくるような、何者かの苦悶に満ちた叫び。
「ルカ、その殻……昼間よりさらに熱と光が増してねえか!?」
部屋の隅で警戒を続けていたレオンさんが、異変を察知して目を見開く。エルナさんもまた、手元のお茶を止め、息を呑んで赤黒く発光する破片を見つめていた。
熱は下がるどころか、ますます勢いを増していく。
外からの理不尽を跳ね除け、ようやく守り抜いたはずの平穏。その中心で、決して侵されないはずの日常を内側から食い破るように、卵の殻は狂ったような警告の光を明滅させ続けていた。




