第32話
掌の上で、卵の殻が赤黒い光を脈打つように明滅させていた。皮膚をチクチクと刺すような熱が、指の腹からじんじんと伝わってくる。微かな共鳴音は次第に高くなり、まるで細い針で耳の奥を撫で回されるような不快感を伴っていた。
「――グルルァッ!」
膝から身を躍らせたシルヴィが、縁側から庭の乾いた土の上へと飛び降りた。もふもふとした白い毛並みが一本残らず逆立ち、背中を弓なりに丸めている。手のひらほどの小さな体からは想像もつかないほど重い威嚇の唸り声が、喉の奥から絞り出されていた。
その黄金の双眸は、東の地平線だけを射抜くように凝視している。
「ルカ君、どうしたの……? その殻、急に赤く光り出して……」
隣に座っていたエルナさんが、手にしていた湯呑みを縁側に置き、青ざめた表情で立ち上がった。そのただならぬ雰囲気に、同じく並んで座っていたレオンさんも勢いよく身を起こし、腰の長剣の柄に自然と手を添える。
「おい、ルカ! 何があったんだ、急に」
普段の飄々とした空気は消え失せ、かつて帝国の前線で培った騎士としての緊張感がその全身に張り詰めていた。鋭い視線が庭先のシルヴィへと向けられる。
「わかりません。でも、この殻が急に熱くなって……耳鳴りみたいな音が止まらないんです」
俺が差し出した殻を見て、レオンさんがわずかに目を細めた。触れてもいないはずなのに、赤黒い光の明滅に合わせて、足元の芝生がざわざわと不自然に揺れている。
「おいおい、冗談だろ……。帝国の連中が撤退して、この村は不可侵の聖域になったはずだぜ。結界を揺るがすような魔力なんて、どこにも見当たらないが」
「シルヴィちゃんも、あんなに毛を逆立てて……東の空に、何かあるのかしら」
エルナさんが胸元をぎゅっと押さえながら、不安そうに庭の先を見つめた。
「シルヴィ、おいで」
俺が屈み込んで呼びかけると、シルヴィは東の空を睨みつけたまま、後ずさりするようにして俺の足元へ擦り寄ってきた。だが、いつものように甘えて膝へよじ登ろうとはしない。俺の靴にぺたりと体を密着させ、全身の毛を逆立てたまま、敵を威嚇する唸り声を響かせ続けている。
誰にも侵されないはずの場所に、外の世界から冷たい刃のような気配が忍び寄ってきている。言葉にできない焦燥が、胸の奥でじわじわと広がり始めていた。
その張り詰めた空気を切り裂くように、村の小道から激しい足音が響いてきた。
「ルカの旦那ぁッ! 大変だ、大変なことになっちまった!」
小太りな体を揺らし、派手な上着の裾を泥で汚しながら飛び込んできたのは、行商人のマルコさんだった。額にびっしりと脂汗を浮かべ、息を喘がせながら庭先へと駆け込んでくる。その手には、真紅の封蝋が施された小さな革筒がしっかりと握りしめられていた。
「マルコさん? 落ち着いて、どうしたんですか」
「落ち着いてなんかいられねえよ! 帝都に残してきた俺の部下から、緊急通信用の魔導鳥が商館へ飛び込んできたんだ! 王立学会で主席研究員を務めてるっていうオズワルドとかいう気難しい大物の学者から、ルカの旦那と竜神様宛てに緊急の親書が届いたって持ち込まれたらしくてよ!」
マルコさんは震える手で、その革筒を差し出してきた。封には王立学会の紋章と、見知らぬオズワルドという人物の走り書きによる署名が歪に刻まれている。筒を開けると、中から羊皮紙が滑り落ちた。そこには、普段なら几帳面であろう筆跡をかなぐり捨てたような、殴り書きの文字が並んでいた。
『ルカ君、シルヴィ君。緊急の事態だ。大至急これを読んだら警戒を最大にしてくれたまえ』
手紙の冒頭を声に出して読み上げると、レオンさんが息を呑んで俺の肩越しに紙面を覗き込んできた。
『大陸東方に位置する三つの古代封印神殿が、昨夜から今朝にかけて相次いで崩壊した。何者かが神殿の楔を故意に破壊した痕跡がある。あれは太古の昔、先代の竜神が世界を滅ぼしかけた厄災を縫い留めるために築いた聖域だ。神殿の崩壊に伴い、封じられていた黒い瘴気が大気と大地を急速に侵食し始めている』
「古代封印神殿……」
俺の手の中で、卵の殻がチリチリと嫌な振動を繰り返す。熱は冷めるどころか、じわりと温度を増していた。
『神殿が壊された影響は、霊脈を通じて世界中へ伝播している。特に、先代竜神の血脈や痕跡を色濃く残す場所に、強烈な共鳴と負荷がかかるはずだ。シルヴィ君の感覚器には、すでにその激震が届いているかもしれない。君たちの村にも、瘴気の余波が及ぶ可能性がある。どうか身を守る準備を――』
手紙はそこで、インクの大きな滲みとともに途切れていた。オズワルドさん自身も、逃げるか調査に向かう途中でこれを書いたのだと知れる。
「神殿が壊されたなら、封じられていた古代の災厄が漏れ出しているのか……?」
レオンさんが青ざめた顔で呟いた。普段の軽口は完全に消え、険しい眉根が寄っている。
「おい、まさかとは思うが……。今朝、シルヴィがやたらと特級魔石を平らげてただろ。あれ、腹が減ってただけじゃなくて、近づいてくる瘴気や霊脈の乱れを本能で察知して、魔力を蓄えてたんじゃねえのか」
「魔力の……備蓄……」
足元を見下ろすと、シルヴィは唸り声を止めず、俺の脛にぴたりと背中を押し当てていた。いつもなら山盛りの肉や魔石をねだって無邪気に喉を鳴らすはずなのに、今のシルヴィの眼差しには、冷え切った敵意と防衛の意志だけが満ちている。
殻が警告音を鳴らし、シルヴィが異変を察知していた理由が、ようやく腑に落ちた。俺たちの与り知らぬ遠い場所で、世界の均衡が決定的に崩れ去ろうとしていたのだ。
ドォン――……。
その思考を断ち切るように、足の裏から重苦しい振動が這い上がってきた。
微かな揺れではない。地面の底深くにある巨大な岩盤が、軋み声を上げながら歪むような、不快極まりない微振動だった。縁側の柱がカタカタと乾いた音を立て、庭の木々から小鳥たちが一斉に飛び去っていく。
「何だ、地震か!?」
マルコさんが悲鳴を上げて尻もちをつく。だが、レオンさんは即座に首を横に振った。
「違う、揺れが東から抜けてきてる! ルカ、高台へ行くぞ!」
「はい!」
「エルナさん、念のため村の人たちに声をかけて、家の中に留まるよう伝えてもらえますか!」
「ええ、わかったわ! ルカ君も気をつけて!」
エルナさんが力強く頷いて駆け出すのを見届け、俺は足元のシルヴィを抱き上げようとした。だが、するりと腕をすり抜けられる。シルヴィは俺を庇うように斜め前へ躍り出ると、そのまま先頭を切って走り出した。
俺とレオンさんは庭を駆け抜け、村外れの丘へと続く坂道を一気に駆け上がった。
見晴らし台と呼ばれるその場所は、かつて村の監視所として使われていた小高い丘だ。東に広がる広大な平原と街道を一望できるその場所に辿り着いた瞬間、俺たちの足が凍りついた。
地平線の彼方――東の空が、濁った墨をぶちまけたような色に染まっていた。
大気を揺るがしながら噴き上がっているのは、雲ではない。禍々しい黒い瘴気だった。まるで大地そのものが黒い血を流しているかのように、地平線沿いの緑が、見る見るうちにどす黒く変色していくのが遠目にも分かった。
草木が生命力を奪われ、土が死んでいく。不可侵の条約など気にも留めない圧倒的な暴力が、確実にこちらへ向かって押し寄せていた。
遅れて息を切らしながら登ってきたマルコさんが、その光景を目にしてへたり込む。
「なんだよ……あれ……。あんなの、国中の軍勢を集めたって止められねえぞ……」
シルヴィの喉から、これまで聞いたこともないほど鋭い威嚇の咆哮が放たれた。
小さな体の背中から、淡い黄金の光が陽炎のように立ち上る。だが、その光は黒い瘴気の威圧に押されるように、時折細かく揺らいでいた。シルヴィは牙を剥き出しにして黒い空を睨み据えながらも、ふと顔を上げ、不安そうに俺の服の裾を小さな前足でぎゅっと掴んだ。
「大丈夫だ、シルヴィ……俺がここにいる」
俺は震える手でシルヴィの頭を撫でた。だが、その背中から伝わる小刻みな震えは止まらず、指先から体温が奪われていくようだった。
黒い瘴気が大気を震わせ、見晴らし台の周囲の草花が、目に見える速さで白く干からび、カサリと崩れ落ちた。
その冷え切った静寂を破ったのは、街道の彼方から響いてきた音だった。
ジャリン、ジャリンと、何重にも重なり合う金属の擦れ合う音。
街道の白煙を割って姿を現したのは、銀色に輝く甲冑に身を包んだ一団だった。擦り切れた白銀のマントを翻し、泥に塗れた隊列の先頭には、見慣れない聖なる百合の紋章旗が掲げられている。
聖騎士団だ。
その先頭を走る騎兵たちの表情は一様に青ざめ、切迫した焦燥に歪んでいた。馬の口から泡を飛ばしながら、彼らは村へ通じる唯一の坂道を目指して、狂ったように馬首をこちらへ向けていた。




