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第31話

椅子に腰掛け、火加減を見守りながら湯気の立ちのぼる鍋を木べらでゆっくりとかき混ぜると、甘い根菜と塩漬け肉の素朴な香りが台所いっぱいに広がった。


早朝の澄んだ光が、建て直されたばかりの木の窓枠から柔らかく差し込んでいる。かつて隙間風に怯え、湿った藁の上で凍えていたあばら家の面影は、もうどこにもない。


「……きゅぅ」


エプロン代わりの前掛け越しに、膝の上から小さく甘えた声が漏れた。見下ろせば、柔らかな白銀の毛並みを持つ小さな塊が、俺の太ももに顔を埋めて丸くなっている。


世界最強と恐れられる竜神、シルヴィだ。


俺がスープを混ぜる手を止め、そっと背中に触れてやると、シルヴィは嬉しそうに喉をごろごろと鳴らした。短く愛らしい前足で、俺のズボンの裾をぎゅっと掴んで離そうとしない。まるで片時も離れたくないと主張しているかのような力強さだった。


「もうすぐできるからな。もう少しだけ待っててくれ」


頭を撫でてやると、シルヴィはふさふさとした白い尾をご機嫌に揺らし、ふたたび俺の腹にすり寄ってきた。


この温もりを感じるたびに、胸の奥がじんわりと満たされていく。誰からも見向きもされず、冷たい言葉ばかりを投げつけられていたあの頃の孤独が、遠い幻だったかのように思えるほどだ。


コトコトと煮える鍋の音に重なって、ことりと控えめに扉が叩かれた。


「おはよう、ルカくん。いい匂いが外まで漂っていたよ」


穏やかな声とともに現れたのは、薬草屋のエルナさんだった。両手に抱えた小さな籠には、焼きたての香ばしい丸パンが布に包まれて収まっている。


「おはようございます、エルナさん。ちょうどスープが煮上がったところです」


「ふふ、絶妙な頃合いだったわね。はい、これ。今朝焼き上がったばかりの麦パンだよ。スープと一緒に食べると美味しいから」


「ありがとうございます。いつもすみません」


「何言ってるの。私が好きで焼いているんだから、遠慮なんていらないよ。それに……シルヴィちゃんも、相変わらず甘えん坊さんねぇ」


エルナさんが目を細めて笑いかけると、シルヴィは俺の服を掴んだまま、ちらりと片目を開けた。


「……む」


シルヴィは喉をごろりと鳴らすと、エルナに向けて一度だけ尻尾を揺らし、ふたたび丸くなって目を閉じた。


三人で木製のテーブルを囲み、温かいスープとパンを口に運ぶ。素朴な野菜の甘みと焼きたてパンの香ばしさが口いっぱいに広がり、体の中から温まっていく。何気ない雑談を交わしながら笑い合う時間は、俺にとって何物にも代えがたい宝物だった。



朝食を終えて片付けを済ませた頃、家の外から騒がしい足音と、うんざりしたようなため息が聞こえてきた。


庭先に出てみると、そこには異様な光景が広がっていた。


敷地の中庭を埋め尽くすように、無数の木箱や豪奢な宝箱が積み上げられている。金糸で刺繍された天幕、宝石が散りばめられた装飾具、そして見るからに高価そうな木箱の山。


その前で、長身の青年が額を押さえて深い息を吐き出していた。


「……まったく、毎朝毎朝、よくもまあこれだけ送り届けてくるもんだ。あの貴族ども、断っても断っても荷車を送りつけてきやがる」


ぶつぶつと愚痴をこぼしているのは、護衛役を引き受けてくれているレオンさんだ。着崩した騎士服の袖をまくり、手にした目録の羊皮紙をうんざりした顔で見つめている。


その隣では、派手な上着を着た小太りの男が、揉み手をしながら帳簿に羽ペンを走らせていた。レオンさんが荷の検品のために連れてきたという、マルコと名乗る行商人だ。


「いやあ、レオンさん、そう言わずに! これでも選別したほうなんですから。帝国や隣国の諸侯からすれば、竜神様の機嫌を損ねるのが一番の恐怖なんですからねえ。ルカの旦那のご機嫌取りに必死なんですよ」


「だからって、辺境の庭先を倉庫代わりにするな。これの検品と仕分けをする俺の胃の身にもなってくれ」


レオンさんが肩を落とし、疲れた表情で俺たちを振り返った。


「よう、ルカ。朝から騒がしくて悪いな。また王都や帝国方面から、山のような『不可侵の誓約証書』と貢ぎ物が届いたんだよ」


「お疲れさまです、レオンさん。……そちらの方も、いつも大変ですね」


「へへっ、商売人としては目の保養になりますがね! ほら、シルヴィ様、本日は王室御用達の最高級霜降り肉に、南方の鉱山から採掘された特級の魔石もございますよ!」


マルコという商人が芝居がかった仕草で、厳重に封印された漆塗りの箱を開けてみせる。中には、眩い光を放つ希少な紅魔石と、見事なサシの入った極上の肉が収められていた。並の平民なら一生遊んで暮らせるほどの逸品だ。


だが、俺の腕の中に収まったシルヴィは、その箱を一瞥しただけで、ふんと鼻を鳴らした。


「……下らぬ。石屑と脂の塊など、目障りなだけだ」


冷え切った金色の瞳で吐き捨てるように言い放ち、ぷいと顔を背けてしまう。他国の使者なら青ざめて平伏するような威圧感だった。


商人が「ひぃっ」と小さく悲鳴を上げて引き下がる。


苦笑しながら、俺はあらかじめ取り分けておいた小さな木皿を差し出した。今朝作った、残り物の野菜スープだ。


「シルヴィ、こっちならどうだ? 冷めないように温め直したんだけど」


その瞬間、シルヴィの耳がぴんと跳ね上がった。


「ルカの、手料理……!」


先ほどまでの氷のような冷酷さはどこへやら、シルヴィの瞳がきらきらと輝き始める。俺の腕から軽やかに飛び降りると、木皿の前にちょこんと座り、ふうふうと息を吹きかけながら器用にスープを舐め始めた。


「おいしい……! ルカの作ったものは、世界で一番おいしい」


一口飲むごとにふさふさとした白い尾が左右に激しく揺れ、満足そうに目を細めている。根菜と塩漬け肉の素朴なスープを、まるで天上の美酒であるかのように夢中で平らげていく。


「……はは、相変わらず極端だな」


レオンさんが呆れたように笑い、それから苦笑混じりに首を横に振った。


「各国の王侯貴族が泣いて悔しがる光景だな。あんな国宝級の肉や宝石を一顧だにせず、ただの野菜スープに大喜びなんだから」


「ふふ、シルヴィちゃんにとっては、誰がくれたかが一番大切なのよ」


縁側からお茶を持って出てきたエルナさんが、微笑ましそうに目を細める。


スープをきれいに平らげたシルヴィは、満足そうにぺろりと舌先で口元を拭うと、不意にてこてこと歩き出した。向かった先は、商人が開け放っていた貢ぎ物の木箱だ。


「あ、シルヴィ?」


俺が声をかける間もなく、シルヴィは小さな口を大きく開けた。すると、大人の拳ほどもある高密度の魔石を、まるで飴玉でも噛み砕くかのようにバリボリと咀嚼し、次々と飲み込んでいく。続けて、木箱に入っていた巨大な生肉の塊も、自分の体躯の何倍もあるはずの量を、見る間にその小さな腹の中へと収めてしまった。


「ひ、ぎゃあああ!? あ、あんな高価な魔石を一瞬で……!」


「おいおい、また全部食っちまったぞ……。おいシルヴィ、お前その腹のどこにそんなもんが入るんだよ」


レオンさんが顎が外れそうな顔でツッコミを入れ、商人は頭を抱えている。


手のひらに乗るほどの小さな身体なのに、底なしの胃袋だ。成長期だから腹が減るのだろうか。だが、膨大な魔力を秘めた品ばかりを好んで平らげている姿を見ていると、ただ空腹を満たしているだけではないような、不思議な感覚を覚えた。


すべてを食べ尽くしたシルヴィは、何事もなかったかのような顔で俺の足元へ戻ってくると、満足げに喉を鳴らして俺の膝の上へよじ登ってきた。


「ふぅ……満足した。ルカ、抱っこ」


「はいはい。お腹、壊すなよ」


抱き上げたシルヴィはずしりと重く、すでに満足げな寝息を立て始めていた。



貢ぎ物の仕分けと片付けを終え、俺たちは縁側に腰掛けて、エルナさんが淹れてくれた温かい野草茶を飲んでいた。


からりと晴れ渡った空からは、柔らかな陽光が注ぎ込んでいる。庭の木々がそよ風に揺れ、遠くの小川のせせらぎがかすかに耳に届く。


帝国軍の脅威が去り、世界中から不可侵の誓約を取り付けてから数ヶ月。かつては毎日のように誰かに怯え、身を竦めて生きていたこの場所は、今や誰も侵すことのできない平穏な聖域となっていた。


膝の上では、腹を満たしたシルヴィがすやすやと寝息を立てている。小さな身体から伝わってくる一定のリズムの温もりは、何よりも俺の心を落ち着かせてくれた。


(ずっと、こんな毎日が続いてくれればいい)


そう願いながら茶をすすろうとした、その時だった。


チリッ、と。


胸の奥に、針で突かれたような鋭い熱が走った。


「……っ?」


思わず胸元を押さえる。熱源は、肌着の内側に忍ばせていた布袋だった。中に入っているのは、かつてシルヴィが孵化した際に残された、あの卵の殻の破片だ。お守り代わりに肌身離さず持ち歩いていたそれが、かすかに熱を帯びていた。


不審に思って服の中から破片を取り出し、掌に乗せてみる。


半透明の美しい殻の欠片が、かすかに、不規則に明滅を繰り返していた。耳を澄ませば、頭蓋の奥を直接引っ掻くような、チリチリとした微弱な共鳴音が響いている。


まるで、遠く離れた場所から送られてくる、警告の鐘の音のように。


「ルカ? どうしたんだい、急に難しい顔をして」


エルナさんが湯呑みを手に、不思議そうに俺の顔を覗き込んできた。レオンさんも視線を巡らせ、訝しげに眉を寄せる。


「何かあったか?」


「いや……なんでもない、です。ただ、この殻が……」


言いかけた言葉は、最後まで紡がれなかった。


「――グルルッ」


膝の上で穏やかに眠っていたはずのシルヴィが、弾かれたように耳を跳ね上げ、飛び起きたのだ。


愛らしかったもふもふの毛並みが一瞬で総毛立ち、その細い背中が硬直している。黄金の瞳孔が針のように細く絞り込まれ、縁側の外――遥か遠く、東の空の彼方を鋭く睨み据えていた。


喉の奥から漏れ出るのは、甘え声などではない。侵入者を警戒し、敵を威繰り返す獣の、低く重い地鳴りのような唸り声だった。


「シルヴィ……?」


俺が呼びかけても、シルヴィは空から視線を外そうとしない。


掌の殻の破片が、先ほどよりも一段と強く、不吉な熱を放ち続けていた。

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