第30話
香ばしい麦の香りが、家の周囲にふわりと広がっていた。
縁側の木板に腰を下ろしていると、心地よい風が木々の葉を揺らしながら吹き抜けていく。かつて隙間風に怯えていたあばら家の面影はどこにもない。丁寧に補修された木造の平屋は、陽光をたっぷりと吸い込んで、足の裏からじんわりとした温もりを伝えてくれていた。
「ルカ、パン! あまいにおいがする!」
俺の膝の上で丸まっていたシルヴィが、ぽふんと顔を上げた。白銀の毛並みを揺らし、つぶらな金色の瞳を輝かせている。手のひらに収まるほど小さな体躯からは、かつて世界を震撼させた神威など微塵も感じられない。ただただ愛らしく、柔らかな毛玉そのものだった。
「エルナさんが焼いてくれたんだ。少し冷ましてから食べような」
俺が指先で頭を撫でると、シルヴィは喉を鳴らしながら目を細め、俺の太ももにぐりぐりと頭を擦りつけてきた。かつて触れた時の、あの芯まで凍りつくような冷たさは遠い過去のものだ。
「おーい、ルカ! シルヴィ!」
柵の向こうから、元気のいい声が響いた。赤毛の三つ編みを揺らしながら駆けてきたのは、ニナだった。そばかすの散る頬を赤く染め、両手いっぱいに抱えた籠を掲げて見せる。
「森で甘い野イチゴがたくさん採れたから持ってきたよ! シルヴィも好きでしょ?」
ニナが縁側に駆け寄ると、シルヴィは俺の膝の上からちらりと視線を向けた。俺以外の者には尊大で冷徹な態度を崩さないシルヴィだが、ニナに対してはほんの少しだけ耳を動かす程度にとどめている。
「……果実か。ルカが食べるなら、許してやる」
「ふふ、相変わらず偉そうだね。でも、ありがと」
ニナは屈託のない笑みを浮かべ、籠を縁側に置いた。かつて弟の病を治すために必死だった彼女の顔には、もう何の翳りもない。弟の体調はすっかり良くなり、今では村の子供たちと元気に駆け回っているそうだ。こうして気軽に顔を出してくれる友人の存在が、俺にはたまらなく嬉しかった。
「よお、今日も平和そうだな」
少し疲れたような声とともに、生垣の向こうからレオンが歩いてきた。小国の騎士服をいくらか着崩した青年は、手にした分厚い書類の束をうんざりした様子で振ってみせる。
「レオンさん、お疲れ様です。また各国の使者からですか?」
「ああ、そうだ。ザルバ帝国の本国から、改めて不可侵条約の更新と、ルカ殿への献上品目録が届いた。隣国の王弟からも『定期のご挨拶』と称した高級干し肉が馬車一台分だ。全く、あの帝国がここまで縮こまる姿なんて、数ヶ月前には夢にも思わなかったぜ」
レオンはため息をつきながら、懐から胃薬の包みを取り出して苦笑した。
かつて、シルヴィの絶大な力を軍事利用しようと目論んだ帝国は、俺たちの優しさにつけ込み、俺を人質にしてシルヴィを縛り上げようとする最悪の強硬策に出たことがあった。
だが、彼らは致命的な見落としをしていた。俺とシルヴィを繋ぐものは、力による支配でも打算でもない。魂の奥底で結びついた、揺るぎない家族の絆だった。
守られるだけの存在だったはずの俺の内に、シルヴィを何があっても守り抜くという意思が灯った時、竜の親としての加護が目覚めたのだ。帝国の張り巡らせた結界や兵器など、俺たちの絆の前には紙屑同然だった。呆気なく粉砕された野望を前に、最終的には帝国の皇帝自らが地面に額を擦りつけ、涙を流して命乞いをする結末となった。
「ルカに逆らえば世界が滅ぶ」
その認識が大陸全土に行き渡った結果、俺たちは完全な不可侵の存在となった。莫大な貢ぎ物は生活費や村の復興資材としてありがたく使わせてもらっているが、権力者たちがどれほどへりくだろうと、俺たちの暮らしは何ひとつ変わらない。
「あんな奴らのことなど、どうでもよい」
シルヴィは小さく鼻を鳴らし、俺の胸元に潜り込んできた。
「ルカの手のひらと、この日向の温もりがあれば、それだけで十分だ。他の有象無象が何を寄越そうと、私の知ったことではない」
「はは、シルヴィ様はブレないな。おかげで俺の胃の痛手は減らないがね」
大げさに肩をすくめるレオンを見て、ニナがいたずらっぽく吹き出す。
「レオンさん、エルナさんの焼きたてパンを分けてあげるから、元気出しなよ。野イチゴものっけるとすごく美味しいんだから」
「お、それはありがたい。ルカ、俺も少し休ませてもらうぞ」
「ええ、もちろん。お茶を淹れますね」
俺は立ち上がり、台所へ向かった。湯を沸かし、乾燥させた茶葉をポットに入れる。窓の外からは、ニナの明るい笑い声と、それにツッコミを入れるレオンの声が聞こえてくる。
かつて、村の誰からも目を合わせてもらえず、冷たい地面に一人うずくまっていた日々を思う。あの頃の俺は、家族という言葉に劣等感しか抱けず、自分が誰かと食卓を囲む未来など想像すらできなかった。
けれど今は、違う。
冷え切っていたあの卵を抱きしめ、温め続けたあの日から、俺の世界は確かに変わったのだ。
居間に戻ると、シルヴィが待ちきれない様子で尻尾を振っていた。丸い木製テーブルの上には、エルナさんの焼きたてパンと、ニナが摘んできてくれた艶やかな野イチゴ、そして湯気を立てるお茶が並ぶ。
「はい、シルヴィの分」
小さくちぎったパンにイチゴの果汁を少し染み込ませて差し出すと、シルヴィは嬉しそうに目を細めてぱくりと食べた。もふもふとした頬が小さく上下し、喉の奥から満足げな吐息が漏れる。
「ルカ、うまいぞ。とても甘い」
「よかった。たくさんあるから、ゆっくり食べような」
俺が笑いかけると、シルヴィは満足そうに俺の膝の上へ戻り、再び丸くなった。まるでここが、世界で一番安全な場所だと信じて疑わないように。
外の世界では、俺たちを巡る様々な噂や畏怖が渦巻いているのかもしれない。竜神の力に怯え、機嫌を損ねまいと右往左往する大人たちも大勢いるだろう。
けれど、そんな思惑はこの家の敷居を一歩跨げば、何の意味も持たなくなる。
ここにあるのは、ただ一緒にご飯を食べ、笑い合い、穏やかな時間を分かち合う、ありふれた家族の暮らしだけだ。
「ねえルカ、明日は川へ魚を獲りに行こうよ! 弟も連れてきていい?」
「ああ、いいね。シルヴィも川の風は好きだしな」
「ルカが行くなら、私もついていく」
シルヴィが俺の服の裾を小さな前足でぎゅっと掴み、誇らしげに胸を張った。
レオンがそんな俺たちを眺めながら、どこか呆れたように、けれどひどく優しげな顔でカップを傾けている。
陽の光が傾き始め、柔らかな夕暮れの光が部屋の中を黄金色に染めていく。
温かい食卓を囲みながら、俺は膝の上の柔らかな命にそっと触れた。伝わってくる確かな熱と鼓動が、俺の胸を満たしていく。
これからも、きっとこの穏やかな日々は続いていく。世界最強の愛しい家族とともに、歩んでいくのだ。




