第29話
街道の砂利を踏みしめる乾いた音が、静かな庭先に届いていた。
膝の上で丸まっていたシルヴィが、ふさふさとした白い尾を小さく揺らす。寝息を立てたまま器用に耳だけを動かす姿に、俺はそっと手を添えて背中を撫でた。指先に伝わる柔らかな毛並みは、日だまりの草花よりもずっと温かい。
「やあ、相変わらず平和そうにしているね、ルカ君」
生け垣の隙間からひょっこりと顔を出したのは、ボサボサの白髪を風になびかせたオズワルドだった。インクの染みが幾重にも重なった古びたローブの裾を泥で汚しながら、分厚い羊皮紙の束を抱えて早足で歩いてくる。
「オズワルドさん。ずいぶん荷物が多いですね」
「これでも厳選した方だよ。帝国の書庫から回収された古代文献の写本でね。君たちにどうしても報告しておきたい重大な発見があったのだよ」
オズワルドは縁側の端に腰を下ろすと、息をつく暇も惜しむように羊皮紙を広げ始めた。眼鏡の位置を人差し指で押し上げ、興奮を隠せない様子で早口に言葉を紡ぐ。
「単刀直入に言おう。あの日、森の奥深くにあった魔法陣――君が卵を見つけたあの場所の真実が判明した」
俺の手が、シルヴィの背中でぴたりと止まる。シルヴィは眠そうに瞼を震わせながら、鼻先を俺の太ももに擦り寄せてきた。
「真実、ですか」
「そうだ。かつて帝国が目論んだような軍事利用や、あるいは古い伝承にあったような親による育児放棄などでは断じてなかった。あの卵はね、世界を滅亡の危機に陥れかねない強大な厄災の波動から隔離し、無事に命を繋ぐために、先代の竜神が全霊を賭けて結界の中へ隠匿したものだったのだ」
広げられた羊皮紙には、細密な古代文字と複雑な幾何学模様がびっしりと書き込まれていた。何重にも施された術式の構造図は、ただ大切に守るためだけに組まれた祈りの跡のように見える。
「先代は自らの命が尽きる間際、外敵や世界の歪みから幼い命を守り抜くため、あえて人の立ち入らぬ深奥に卵を封じた。だが、その結界はあまりにも強固すぎた。外からの悪意を完全に遮断する代償として、孵化に必要な愛の波動すら受け付けなくなってしまっていたのだよ」
オズワルドは熱を帯びた瞳で、俺の顔をじっと見つめた。
「何百年ものあいだ、誰もその頑丈な殻を解かすことはできなかった。打算や欲望、畏怖といった不純な感情では、決してあの守護の封印は開かなかったのだ。だが君は――ただそこに冷たくなった命があるという理由だけで、自分の体温を分け与え続けた。見返りも求めず、ただ純粋に温め続けた」
風が吹き抜け、庭の木の葉をさらさらと鳴らす。日差しがオズワルドの広げた羊皮紙を白く照らし出していた。
「君の魂の波長が、先代の残した頑なな守護の結界に『ここには害意がない』と認めさせたのだよ。偶然ではない。君という存在だったからこそ、この子は目覚めることができた」
オズワルドの言葉が、胸の奥深くに静かに染み渡っていく。
俺はかつて、冷え切った卵を抱き上げたときの重みを思い出していた。誰にも見向きもされず、冷たい土の上で息を潜めていたあの姿は、みすぼらしいあばら家で震えていた自分自身とあまりにも重なって見えたのだ。だからこそ、放っておくことなどできなかった。
「……そうだったんですね」
俺がぽつりと呟くと、シルヴィが「くぅ」と小さく甘えた声を漏らし、俺の手のひらに額を押し当ててきた。金の瞳がうっすらと開き、安心しきった光を俺に向けている。
「よおよお、小難しい話で盛り上がってるところ悪いな」
からかいを含んだ野太い声が響き、庭の木陰から無精髭を生やした男が姿を現した。肩に革袋を担いだバルトが、草履を鳴らしながら歩み寄ってくる。
「バルトさん。街道の様子はどうでした?」
「どうもこうもないね。帝国の連中が手痛い目に遭ってからというもの、外界はどこもかしこも蜂の巣をつついたような大騒ぎさ。もっとも、こっちに向けられるのは剣先じゃなく、平伏と貢ぎ物の山だがな」
バルトは肩の袋をどさりと縁側に下ろすと、あきれ顔で息を吐き出した。中からは上等な干し肉や最高級の茶葉、果物といった高級品が覗いている。
「各国の王侯貴族どもは完全に腹を括ったらしいぜ。『あの少年と白竜に敵対することは、国家の滅亡を意味する』ってな。不可侵条約の調印書は全土に行き渡り、いまやこの村の一帯は神聖不可侵領域としてどの国の地図にも赤線で囲まれてる」
「赤線、ですか……」
「ああ。うっかり兵を近づけようものなら、同盟国から袋叩きに遭うレベルだ。帝国の皇帝ですら、自国の保身のために毎月のように詫びの品を送り届けてくる始末だからな。あんた方は名実ともに、世界で一番手出ししちゃいけない存在になったわけだ」
バルトは飄々とした笑みを浮かべ、縁側の柱に背を預けた。
かつて俺を人質に取って力を奪おうとした権力者たちや、軍事力でねじ伏せようとした帝国の思惑は、すべて灰燼に帰した。俺たちの間にあったのは、奪い合うための力ではなく、ただ互いを慈しむ心だけだった。その揺るぎない絆の前に、小細工や強硬策など何の役にも立たなかったのだ。
「君たちの存在そのものが、世界の均衡を保つ楔となったのだよ」
オズワルドが満足げに頷き、手帳を取り出してさらさらと羽ペンを走らせる。
「権力による支配ではなく、絶対的な守護と信頼による平和。観察記録の結びとして、これ以上美しい調和はあるまい」
「俺は、そんな大層なことをした覚えはないんですけどね」
苦笑しながら答えると、バルトが肩を揺らして笑った。
「無欲な親ほど手に負えないものはないってこった。ま、おかげで俺も極上の運び屋稼業で食いっぱぐれがなくて助かるよ。外界の連中がどれだけ怯えてようが、ここの飯が美味いのは変わらねえしな」
バルトが袋から取り出した干し肉の匂いに反応したのか、シルヴィがぱちりと目を覚ました。もふもふの体を器用に起こし、俺の膝からするりと降りると、短い足でとてとてとバルトの足元へ歩いていく。
「おいおい、お前の分はちゃんとルカに渡すから、袖を引っ張るなよ」
バルトが困ったように笑いながら干し肉を差し出すと、シルヴィは器用に口で受け取り、嬉しそうに咀嚼した。世界を震撼させる神威の主とは思えない、あまりにも無邪気な仕草に、庭先が柔らかな笑い声で包まれる。
俺は縁側から立ち上がり、澄み渡る空を見上げた。
かつて見上げていた鉛色の空はもうどこにもない。隙間風に怯えることも、理不尽な悪意に身を縮こまらせることもない。ここには温かな陽光があり、穏やかに笑い合える仲間がいて、そして何より、俺を必要としてくれる大切な家族がいる。
どれほど過去の因縁が深かろうと、世界がどれほど俺たちを畏怖しようと、俺たちのやるべきことは何も変わらない。
一緒にご飯を食べ、日向ぼっこをして、他愛のない話をして笑い合う。そんなありふれた、けれどかけがえのない毎日を、一日ずつ積み重ねていくだけだ。
「シルヴィ、そろそろお昼にしようか。エルナさんが焼きたてのパンを持ってきてくれるって言ってたぞ」
呼びかけると、シルヴィは満足そうに口元を拭い、嬉しそうな鳴き声を上げて俺の足元へと駆け寄ってきた。
見上げた瞳の奥に宿る金色の輝きは、出会ったあの日から何ひとつ変わらない、温かな光で満ちていた。




