第28話
スープの器を綺麗に空にして、俺は息をひとつ吐き出した。
膝の上で丸まっていたシルヴィが、満足げに喉を鳴らす。柔らかな白銀の毛並みに指を沈めると、心地よい微熱がじんわりと手のひらに広がった。かつて自分の体温を分け与えるようにして抱きしめていた卵が、いまはこうして俺自身を温めてくれている。
「美味かったな、ルカ」
「お前が残さず食べてくれてよかったよ。さてと、片付けたら外の作業を手伝いに行くか」
立ち上がろうとすると、シルヴィは名残惜しそうに身じろぎしながらも、ふわりと宙へ浮かび上がって俺の肩に落ち着いた。小さな爪が服の布地を優しく掴む感覚が、当たり前の日常として胸に馴染んでいる。
食器を水桶で洗い終え、木製の扉を開けて外に出る。
澄み切った朝の空気が肺を満たした。帝国との激しい騒乱によって荒れ果てていた庭先には、すでに片付けの槌音が響いている。
「——ふんっ」
低い掛け声とともに、大人の背丈ほどもある崩れた石壁の残骸が軽々と持ち上げられた。それを荷車へと積み込んでいるのは、黒い軍服の上着を脱ぎ、袖をまくり上げた大柄な男——ディルクだった。
鋭い三白眼に汗を光らせながら、彼は崩落した資材を無駄のない動きで仕分けている。かつて帝国軍の先鋒として冷徹に任務を遂行していた武人の姿はそこになく、いまや辺境のあばら家で最も頼りになる大工仕事の助っ人だった。
「ディルク、朝から精が出るな。俺も手伝うよ」
声をかけると、ディルクは作業の手を止め、太い腕で額の汗を拭った。
「……ルカ殿か。これしきの作業、一人で片が付く。貴殿はシルヴィ殿の世話を優先してくれ」
「もう朝飯は済ませたよ。それに、ここは俺たちの家だしな。あんただけに重労働を押しつけるわけにはいかないよ」
俺が駆け寄って小さめの木材を持ち上げようとすると、肩の上のシルヴィが「む」と唸り、短い尾を振った。俺が力を込める前に、木材の重みがふっと消える。シルヴィが無意識に不可視の力場で補助してくれているのだ。
「シルヴィ、ありがとう。でも、俺自身の腕も少しは鍛えないとな」
笑いかけると、シルヴィは誇らしげに小さな胸を張った。
ディルクはその様子を静かに見つめ、厳格だった口元をわずかに緩めた。
「……帝国の軍門にいた頃は、力とは奪い、屈服させるためのものだと信じ込まされていた。だが、貴殿らの在り方を見ていると、己の未熟さを痛感させられる」
「ディルク?」
「本国からの追手は、もはや現れまい。皇帝自らが不可侵の約定に血判を押したのだ。俺のような脱走兵一人を連れ戻すために、竜神の逆鱗に触れる愚を犯す者など帝国には残っていない」
ディルクは自嘲気味に呟き、それから庭の隅に積まれた薪の山へ視線を移した。
「俺には、剣を振るうことと、命令に従うことしか能がなかった。だが……ここで土を耕し、瓦礫を運んでいる時間こそが、生まれて初めて己の意志で選んだ道だと実感できる。ここに置いてもらえていること、心から感謝している」
不器用だが、芯の通った言葉だった。他国を震撼させた帝国の猛将が、いまはただの心優しい同居人として、この小さな庭に安らぎを見出している。
「感謝なんていらないよ。あんたがいてくれて、俺もすごく助かってるんだから」
俺がそう返すと、ディルクは深く一度だけ頷き、再び重い石材を担ぎ上げた。
そこへ、村の小道の方から慌ただしい足音が近づいてきた。
「おーい、ルカ! 無事かー……って、朝からもうそんなに片付いてるのかよ!」
癖のある茶髪を揺らしながら走ってきたのは、レオンだった。手には紙袋をいくつか抱え、相変わらず小国の騎士服を着崩している。
「おはよう、レオン。そんなに息を切らしてどうしたんだ?」
「どうしたんだ、じゃないっての! 帝国の宰相が失脚して本国がひっくり返ったってのに、なんであんたらはそんなに平然と庭掃除してんだよ……。世界中の特務機関がどれだけ頭抱えてると思ってんだ」
レオンは大げさに天を仰ぎ、胃のあたりを手のひらで押さえた。その仕草があまりにいつもの調子だったので、俺は思わず吹き出してしまう。
「笑い事じゃないって。……いや、まあ、あんたが無事で本当に良かったけどさ」
ふと、レオンの表情から軽薄な空気が抜け落ちた。彼は抱えていた荷物を木箱の上に置くと、姿勢を正し、まっすぐに俺の目を見据えてきた。
「……ルカ。ちゃんと話しておかなきゃいけないことがある」
「うん?」
「俺が最初にこの村に来た理由だ。……俺は、小国の騎士って身分を隠れ蓑にして、帝国の息がかかった特務機関から送り込まれたスパイだった。あんたとシルヴィの結びつきを探って、あわよくば引き離すための手引きをするはずだったんだ」
静まり返る庭に、風の音だけが通り抜ける。ディルクが作業の手を止め、鋭い視線をレオンに向けたが、レオンは逃げずに言葉を続けた。
「結果的に俺は任務を放棄して、あんたらに味方した。だけど、騙して近づいた事実は消えない。……信じてもらえないかもしれないが、本当にすまなかった」
深々と頭を下げるレオンのつむじを見つめながら、俺は肩の力を抜いた。
「頭を上げてくれよ、レオン」
「……怒らないのか? 利用しようとしてたんだぞ」
「最初から、なんとなく気づいてたよ」
「えっ」
顔を上げたレオンが、間抜けな声を漏らす。
「だって、あんた、スパイにしては隙が多すぎたし。それに……本当に悪い奴なら、村の子供たちが転んだ時にあんなに慌てて駆け寄ったり、俺が熱を出した時に一晩中看病したりしないだろ?」
かつて誰からも見向きもされず、冷たい視線ばかりを浴びて育ったからこそ、向けられる感情の裏表には敏感だった。レオンが抱えていた葛藤も、自分をごまかしきれない優しさも、最初から滲み出ていたのだ。
「あんたがいてくれたから、俺は何度も助けられた。だから、謝る必要なんてないよ」
「ルカ……あんた、人が良すぎるだろ……」
レオンは脱力したように肩を落とし、それから目元を乱暴に擦った。
「まったく、調子が狂うぜ。こんな規格外の怪物親子に情が移っちまったら、もうスパイ稼業なんて二度とできねえよ。……ああもう、今日も胃が痛い。帰りにまた新しい胃薬をごっそり買い足してくるわ」
「ふふ、レオンの胃が保つといいな」
シルヴィが楽しそうに喉を鳴らすと、レオンは「誰のせいだと思ってんだ」と唇を尖らせた。
「はいはい、騒がしい朝ですねぇ」
のんびりとした柔らかな声が響き、生垣の向こうから小柄な人影が現れた。
薬草の籠を腕に提げたエルナさんだ。腰を曲げながらも軽やかな足取りで庭に入ってくると、湯気を立てる大きな陶器の急須と、木製の湯呑みが並んだ盆を広げた。
「みんな、精が出ますね。ちょうど特製のお茶が淹れたてですよ。少し休みましょうかね」
「エルナさん、ありがとうございます」
俺たちは庭の片隅にある木製の丸太椅子に腰を下ろした。エルナさんが注いでくれたお茶からは、野草の爽やかな香りと、微かな甘い匂いが立ち上っている。
シルヴィは俺の膝の上に陣取ると、エルナさんが差し出してくれた小皿の干し果物を、器用に前足で掴んで口へ運んだ。もぐもぐと咀嚼する姿は愛らしく、世界最強の竜神であることなど微塵も感じさせない。
「ルカくん、顔色がとても良くなりましたね」
エルナさんが目を細め、皺の刻まれた手で俺の頭を優しく撫でた。
「昔はいつも寒そうに肩を縮めて、薬草屋の隅っこで小さくなっていたのに。いまじゃ立派な、一家の大黒柱ですねぇ」
「大黒柱だなんて、そんな……」
照れくさくて視線を落とすと、膝の上のシルヴィが「そうだぞ」とばかりに誇らしげに鼻を鳴らした。
「ルカは我の親であり、この世界の誰よりも尊いのだ。当然の評価だな」
「はいはい、シルヴィちゃんも本当に立派になって。卵の殻を一生懸命温めていたあの日が、まるで昨日のことのようですよ」
エルナさんはおかしそうに笑い、自分のお茶を一口啜った。
かつて俺が飲まされていた苦い薬のことや、この村で受けていた仕打ちについて、彼女は蒸し返すようなことはしなかった。ただ、いま目の前にある穏やかな時間を、誰よりも愛おしそうに見守ってくれている。
「帝国だけでなく、他国の使者たちもすっかり引き揚げたそうですねぇ。これからは、誰に怯えることもなく暮らせますよ」
「ああ。もう、誰も俺たちを引き離すことはできない」
俺はシルヴィの背中をそっと撫でた。指先に伝わる柔らかな毛並みの感触が、何よりも確かな現実を教えてくれる。
かつては隙間風の吹き込むあばら家で、冷たい孤独に震えていた。だがいまは、こうして温かいお茶を囲み、笑い合える仲間がいる。そして何より、俺を無条件に信じ、寄り添ってくれる大切な家族がいる。
庭の向こうを見渡せば、破壊された村のあちこちで、人々が力を合わせて家屋を修繕している姿が見えた。かつて俺を遠巻きに見ていた村人たちも、いまや穏やかな挨拶を交わしながら瓦礫を片付けている。遠くから微かに届く笑い声が、澄んだ青空へと吸い込まれていく。
「……いい天気だな」
俺が呟くと、ディルクが静かに頷き、レオンがお茶のおかわりを要求し、エルナさんが楽しそうに急須を傾けた。
誰もが気負わず、ただ流れる時間を楽しんでいる。
ふと、遠くの街道の彼方から、心地よい風が吹き抜けてきた。木々を揺らし、草花を撫でていくその風の中に、見知らぬ誰かの足音が混じっているような気がして、俺はほんの少しだけ視線を上げた。
だが、焦る必要はどこにもない。
膝の上の温もりを確かめながら、俺はゆっくりと湯呑みに口をつけ、静かな朝の余韻を胸いっぱいに吸い込んだ。




