第27話
ザルバが地に伏し、戦いの騒乱が収まりを見せたと思った矢先のことだった。
周囲の木々がざわめき、静まり返っていた森の奥から重々しい足音が響いてくる。現れたのは、整然と隊列を組んだ帝国軍の別動隊だった。
銀色に輝く甲冑を着込んだ精鋭たちが、瞬く間に俺たちの周囲を取り囲む。その先頭に立っていたのは、豪奢なドレスの上に軍服のコートを羽織った金髪の女性――ヘンリエッタだった。
「ご苦労様でした、ルカ様。そして愚かなザルバ宰相も、実に見事な幕引きでしたこと」
ヘンリエッタは優雅に扇を広げ、口元を隠しながら細い目を細めた。その双眸には、冷徹な計算と野心が爛々と宿っている。
「……あんた、最初からこれを狙っていたのか」
俺が問いかけると、ヘンリエッタは鈴を転がすような声で小さく笑った。
「当然でしょう? ザルバのような無能が自滅するのを待っていたのです。竜神の御力と、それを操るあなたという稀代の鍵。この二つが揃って疲弊した今こそ、我が手中に収める絶好の機ですわ」
彼女の合図とともに、兵士たちが一斉に槍の切っ先を俺へと向けた。鋼の匂いと濃密な殺気が肌を刺す。
「さあ、大人しく投降なさい。ルカ様。あなたさえ我が掌中にあれば、竜神は帝国の意のまま。あなたにとっても悪い話ではないはずです。豪奢な暮らしと、誰にも脅かされない地位を約束いたしましょう」
慇懃無礼に紡がれる言葉の裏に、底知れない冷たさがあった。彼女にとって、俺もシルヴィもチェスの駒の一つに過ぎないのだ。
俺は小さく息を吸い、足元を確かめるように大地を踏みしめた。かつての俺なら、大軍の威圧感に気圧されて震えていたかもしれない。だが今は違う。背負うべきものがあり、守るべき大切な家族がいる。
「断る。シルヴィは俺の家族だ。誰の道具にもさせない」
きっぱりと言い放つと、ヘンリエッタの眉がわずかに動いた。
「身の程知らずな孤児が。力尽きた獣一匹に、何ができるというのです」
彼女が冷ややかに腕を振り下ろそうとした、その時だった。
俺の腕の中にいたシルヴィが、ふわりと宙へと身を浮かせた。
「……ルカに無礼を働く羽虫が。調子に乗るなよ」
シルヴィの小さな身体を覆う、真っ白でもふもふとした毛並みが、淡く、けれどどこまでも澄んだ光を放ち始めた。
それは攻撃の予兆ではなかった。激しい熱量も、空気を裂くような破壊の気配もない。ただ、春の陽だまりのように柔らかく、穏やかな光の波が、波紋のように外側へと広がっていく。
「な、何だこれは……? 攻撃魔法ではない……?」
兵士の一人が狼狽えた声を上げた。
シルヴィの毛並みが放つ光は、周囲に渦巻いていた兵士たちの殺気、ヘンリエッタの放つ悪意、そして張り詰めた敵意のすべてを、まるで乾いた砂が水を吸い込むように、綺麗に呑み込んでいく。
シルヴィのこの愛らしい毛並みは、単なる幼体の特徴などではなかった。周囲の害意や過剰な魔力をまるごと吸い上げ、無力化して浄化するための、竜神特有の絶対的な防衛器官だったのだ。
「槍が……握れない……?」
「戦う理由が……どうして俺たちは、こんなところで武器を……」
光を浴びた兵士たちの手から、次々と槍や剣がこぼれ落ちていく。地面に硬質な金属音が乾いて響いた。彼らの顔から敵意が消え去り、ただ茫然とした穏やかさだけが残されている。
「な、何をしているのです、無礼者ども! 早くその小娘を捕らえなさい!」
ヘンリエッタが声を荒らげるが、誰一人として動こうとしない。それどころか、彼女自身の手も小刻みに震え始めていた。
「私の……私の野望が……こんな、あたたかい光などに……っ」
どれほど強大な軍勢を揃えようと、どれほど狡猾な罠を張り巡らせようと、悪意そのものを無に還す竜神の御前では、戦いという概念すら成立しない。
シルヴィは空中で器用にくるりと一回転すると、ヘンリエッタの目の前にふわりと降り立った。その金色の双眸が、冷たく見下ろす。
「ルカが『殺すな』と言ったゆえ、命までは取らん。だが、二度とルカの前にその薄汚い顔を見せるな。次に我が親の平穏を乱せば、貴様の国ごと消し去るぞ」
短く、平然と告げられた言葉。そこには誇張も虚勢もなく、絶対的な事実だけが横たわっていた。
ヘンリエッタは扇を取り落とし、膝から崩れ落ちた。
「……あ、ああ……」
完全にへし折られた野心。彼女の瞳から光が失われ、ただ圧倒的な格の違いに対する絶望と屈服だけが残されていた。
「……撤退……撤退です……全軍、速やかに引き揚げなさい……」
掠れた声で命じるヘンリエッタを、兵士たちが無言で支え起こす。先ほどまでの威圧感は見る影もなく、帝国軍は這々の体で森の彼方へと去っていった。
静寂が戻った森の中で、シルヴィは光を収めると、満足そうに俺の胸元へと飛び込んできた。
「ルカ、見たか? 私はルカの言いつけ通り、誰も傷つけずに追い払ったぞ」
「ああ、見てたよ。すごかったな、シルヴィ」
もふもふの頭を撫でてやると、シルヴィは嬉しそうに喉をごろごろと鳴らして目を細めた。
こうして、世界を揺るがした帝国の野望は、完全に潰えたのだった。
あの騒乱を境に、俺たちを取り巻く環境は一変した。
帝国が手も足も出ずに敗れ去ったという報せは、瞬く間に大陸全土へと広まった。「あの少年に敵対すれば、国が滅ぶ」――その絶対的な事実を骨の髄まで理解した各国の王や皇帝たちは、揃ってルカとシルヴィに対する完全な不可侵条約を結ぶことを宣言した。
俺たちの暮らす村の一帯は、どの国も手出しできない「聖域」として定められ、以前のような奪い合いや襲撃は二度と起こらなくなった。
それどころか、機嫌を損ねてはならないと、各国からは定期的に莫大な謝礼や貢物が届けられるようになった。高級な果物、最高級の肉、美しい織物。あばら家だった我が家は、村の大工さんたちの手によって、少し頑丈で日当たりのいい平屋へと建て替えられた。
貢物の大半は村の復興や共有財産としてエルナさんたちに預け、俺たちは慎ましく暮らすのに必要な分だけを受け取っている。
かつて俺を罵っていた村人たちも、今では遠くから恐縮そうにお辞儀をしてくるようになったが、俺は特に気にしていない。ただ静かに、当たり前の日常が過ごせればそれでよかった。
やわらかな朝の光が、木漏れ日となって部屋の中に差し込んでくる。
台所に立ち、焼き立てのパンと温かいスープを用意する。香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がると、寝床の毛布がもぞもぞと動いた。
「……ん……ルカ……いい匂いがする……」
目をこすりながら、シルヴィが小さな身体を伸ばして起き上がってきた。短い手足を精一杯に伸ばす仕草がたまらなく愛らしい。
「おはよう、シルヴィ。朝ごはんができてるぞ」
「うむ! ルカのご飯は世界一美味いからな!」
ぽてぽてと歩いてきて、器用に椅子をよじ登り、テーブルの上の特等席へと腰掛ける。最高級の魔石よりも、俺が焼いた少し不格好なパンを美味しそうに頬張るシルヴィの姿に、自然と口元が緩む。
食事が終わると、いつものように縁側へ移動した。
庭には穏やかな風が吹き抜け、青々とした木々が擦れ合う音が耳に心地いい。日向の温もりを感じながら腰を下ろすと、シルヴィが当然のような顔をして俺の膝の上によじ登ってきた。
「ここが私の特等席だ」
そう言って、丸くなって俺の太ももに顔を埋める。指先で柔らかな背中を撫でてやると、シルヴィは安心しきったように小さく吐息を漏らした。
かつて、みすぼらしいあばら家の中で、冷え切った卵を抱えて震えていた日々が遠い昔のことのように思える。
親の顔も知らず、誰からも必要とされていなかった俺に、世界最強の我が子ができた。
誰にも邪魔されない、温かくて揺るぎない居場所。
膝の上の温もりを確かめながら、俺はゆっくりと空を見上げた。どこまでも高く広がる青空の下、俺たちの穏やかで幸せな朝は、これからもずっと続いていく。




