第26話
足裏から伝わる衝撃が、骨の芯を揺らした。
跳躍した俺の視界の先、ザルバが狂乱の笑みを浮かべたまま、巨大な魔導兵器の炉心へ己の血を注ぎ込んでいる。黒紫の光球が脈打ち、空間そのものが悲鳴を上げて軋んでいた。
「無駄だ、無駄だ無駄だ! 名もなき泥土の分際で、帝国の至宝に抗えると思うたか! 貴様ごときが、この神威を手にするなど許されんのだ!」
ザルバの怒声が、暴風となって肌を叩く。
空中でシルヴィが小さく身をよじり、俺の肩を蹴ってさらに上方へと舞い上がった。掌に乗るほど小さかったその体が、溢れ出す膨大な燐光を纏って純白の輝きへと溶けていく。
だが、兵器の砲口から放たれた黒紫の極光は、シルヴィの体をすり抜けるようにして、地上にいる俺へと軌道を変えた。
奴の狙いは最初からシルヴィではない。俺だ。シルヴィを従わせるための唯一の楔として、俺の体を粉砕し、逃げ場を奪うつもりなのだ。
「ルカッ!」
シルヴィの叫びが空に木霊する。
逃げることなど考えもしなかった。避ければ、背後にある村も、避難している人々も消し飛ぶ。何より、俺が怯めば、シルヴィが俺を庇って傷つく。
胸元で、鈍い熱が爆発した。
ずっと首から下げていた、くすんだ石のペンダント。親の顔も知らぬ俺に残された唯一のガラクタだと思っていたそれが、目も眩むような黄金の閃光を放ち始めたのだ。
熱が、皮膚を焼き焦がすことなく血管を駆け巡る。
脳裏に、見たこともない光景が奔流となって流れ込んできた。遥かな古代、天空を統べる巨竜と背中を預け合い、荒ぶる天災を鎮めたとされる戦士の記憶。血脈の奥深くに眠っていた、竜と言葉を交わし、魂を分かち合うための契約の刻印。
長老が飲ませていた苦い薬の意味も、今ならわかる。あれは俺を呪いから守るためなどではなかった。この内に眠る、竜を引き寄せる魂の波長を無理やり眠らせるための枷だったのだ。
枷は、完全に砕け散った。
「……俺は、お前の思い通りになんかならない」
迫り来る滅びの光線を前に、俺は右手を真っ直ぐに突き出した。
手のひらの前に展開されたのは、金色の幾何学模様を描く多重の障壁だった。衝突した黒紫の閃光が、けたたましい金属音を立てて弾け散る。暴風が俺の髪を激しく吹き乱すが、足は一歩たりとも後退しなかった。
「な……馬鹿な!? ただの孤児が、帝国の古代障壁を素手で……!?」
ザルバの顔から血の気が引いていくのが見えた。
上空で、シルヴィの纏う光が臨界を超えた。神々しい純白の光翼が天を覆い尽くし、冷え切っていた大気が、春の陽光のような柔らかな魔力で満たされていく。魂の繋がりを通して、シルヴィの歓喜と、敵に対する絶対の怒りが津波のように伝わってくる。
「我が親を害そうとした罪、万死に値する。塵芥め、跡形もなく消え去るがよい」
シルヴィの声は、世界そのものを震わせる重厚な神の響きを帯びていた。頭上に展開された光の陣は、帝国軍の兵器はおろか、空そのものを両断せんばかりに膨れ上がっている。
そのまま解き放てば、ザルバどころか、この一帯の大地が消滅する。
「シルヴィ!」
俺は強く名を呼んだ。黄金の光に包まれた小竜が、ピクリと耳を動かして俺を見下ろす。
「誰も殺すな。……すべてを、綺麗に終わらせてくれ」
それは戦士としての命令ではなかった。ただ、我が子が誰かの血でその手を汚すことを望まない、親としての願いだった。
シルヴィの瞳から冷酷な刃の光がふっと消え、穏やかな、甘えるような輝きが戻る。
「……ルカがそう言うのなら」
次の瞬間、天から降り注いだのは破壊の業火ではなかった。あらゆる濁った魔力を洗い流す、圧倒的な浄化の波動だった。
音もなかった。
ザルバが誇らしげに操っていた対竜魔導兵器の装甲が、まるで陽光を浴びた残雪のように音もなく崩壊していく。禍々しい魔力炉心は淡い光の粒となって霧散し、空を覆っていた不吉な魔法陣は一片の雲諸共にかき消された。
残されたのは、ただ青く澄み渡った果てしない青空だけだった。
「あ……あああ……」
動力部を失い、地上に墜落した兵器の残骸の上で、ザルバが膝をついていた。豪奢な法衣は泥に汚れ、手足は小刻みに震えている。
「私の……私の栄光が……帝国の覇権が……。おい、誰か! 誰かおらんのか! 私を助けろ! 私は帝国宰相ザルバだぞ!」
叫び声が虚しく荒野に響き渡る。
だが、逃げ惑っていた帝国兵たちも、遠巻きに見ていた各国の使者たちも、ただの一人も彼に近づこうとはしなかった。それどころか、誰もが汚物を見るような冷え切った視線を向けている。
力も、富も、権威の象徴すらも失った男に、頭を下げる者などこの場には一人もいなかった。
「私を見ろ……! 私は偉大なる……」
懇願するように伸ばされたザルバの手は、誰の手にも触れることなく空を掴み、そのまま力なく地面へと落ちた。誰も自分を敬っていなかったのだという、あまりに無惨な現実の前に、男はただ泥を啜りながら震えることしかできなかった。
勝負は、ついたのだ。
すうっと光の翼を収めたシルヴィが、ふわりと空から降りてきた。巨大な神の気配は綺麗さっぱり消え失せ、いつものもふもふとした手のひらサイズに戻っている。
すとん、と俺の肩に乗ると、冷えた鼻先を俺の頬にすり寄せてきた。
「……ルカ、いい子にしてたぞ。褒めてくれ」
「ああ。よく頑張ったな、シルヴィ」
そっと頭を撫でてやると、シルヴィは喉を微かに鳴らして満足そうに目を細めた。
背後から、ざわざわと無数の足音が近づいてくる気配がした。振り返ると、そこには信じられない光景が広がっていた。
帝国軍の残存兵はおろか、豪奢な衣装を纏った各国の高官や使者たちが、先を争うようにして地面に額を擦り付けていたのだ。中には、本国の皇帝の名代と思われる大貴族までもが、土下座の姿勢で激しく震えている。
「竜神様……! そして、竜神を導かれし偉大なる御方……!」
「我が国は、貴方様方に一切の敵対意志を持ちませぬ! 領土の割譲、並びに未来永劫の完全不可侵をここに誓約いたします……!」
恐怖に引きつった声が、次々と耳に飛び込んでくる。
彼らは身をもって理解したのだ。ルカという少年に敵対することは、世界最強の竜神の逆鱗に触れ、国そのものを地図から消されることを意味するのだと。
莫大な金銀財宝や魔導書の目録が、まるで供物のように足元へ積み上げられていく。
俺は呆れ半分に溜息をつき、肩のシルヴィと顔を見合わせた。
「なあ、シルヴィ。あんなに宝物をもらっても、置く場所がないよな」
「いらん。ルカの手料理と、ルカの膝があればそれでよい」
ふんと鼻を鳴らすシルヴィの言葉に、思わず笑みがこぼれた。
数ヶ月後。
村の隅にあったみすぼらしいあばら家は、少しだけ頑丈で日当たりのいい平屋へと建て替えられていた。各国の使者たちが持ち込んできた莫大な貢物は、村の復興資金と、俺たちの慎ましい生活費として最低限だけを使わせてもらっている。
世界中の国々から「不可侵の聖域」として定められたこの辺境の地に、俺たちを脅かす者はもう誰一人として現れない。
縁側に腰掛け、ぽかぽかとした昼下がりの日差しを浴びる。
膝の上には、丸くなって気持ちよさそうに寝息を立てるシルヴィの姿があった。その柔らかい毛並みを指先で撫でると、寝ぼけたように尻尾が小さく揺れる。
「……むにゃ、ルカ……離れんぞ……」
幼い呟きに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
かつて誰からも見向きもされず、冷たい風に震えていた俺の居場所は、今ここにある。
俺の手のひらに伝わる温もりは、もう二度と冷めたりはしない。世界最強の愛しい我が子と共に、俺たちの穏やかな日常は、これからもずっと続いていく。




