第25話
頭上を覆い尽くした多重魔法陣が、脈打つような紅黒い輝きを放ち始めた。
空気が焦げつくような悪臭と、鼓膜を圧迫する重低音が大気を震わせる。広場を囲んでいた石壁に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、細かい破片がパラパラと足元へ落ちてきた。
「消し飛べ! 我が覇道の前に跪かぬ愚民どもめ!」
ザルバの絶叫とともに、空の魔法陣から巨大な光輪が幾重にも射出された。それは古代の対竜兵器が放つ、大地そのものを抉り取るほどの破壊の奔流だった。
砲口から放たれた極太の閃光が、村の広場へ向けて一直線に落下してくる。
「総員、逃げろ! 足を止めるな!」
響き渡ったのは、レオンの怒声だった。
彼はすでに帝国の特務機関としての隠蔽など気にも留めていなかった。腰の長剣を抜き放ち、建物の崩落に巻き込まれそうになっていた村の老人を突き飛ばすようにして庇う。
「レオンさん!」
「俺にかまうな、ルカ! 裏の森へ抜けろ! 早く!」
レオンは額から血を流しながら、逃げ惑う村人たちを誘導していた。かつては観察対象として俺たちを監視していたはずの男が、今は自らの背中を盾にして、逃げ遅れた子どもを抱きかかえている。
「くそっ、あんな化け物染みた出力を平地で撃ち込むなんて、宰相の頭は完全に狂ってやがる!」
吐き捨てるレオンの足元で、地面が悲鳴を上げて割れた。落下してくる光の束は、村どころかこの一帯の地形ごと消滅させる規模に膨れ上がっている。
逃げ場はどこにもなかった。
熱波が肌を焼き、息を吸うだけで肺の奥が熱く焼ける。俺は無意識に足を踏ん張り、両腕を広げていた。
俺の後ろには、守るべき村人たちがいる。そして何より、俺の肩には小さな命が乗っていた。
「下がっていろ、ルカ」
頭上で、凛とした声が響いた。
肩に乗っていたシルヴィが、ふわりと宙へと浮き上がる。もふもふとした愛らしい小さな体が、まばゆい黄金の光を帯びて膨張していった。
「シルヴィ……?」
「案ずるな。お前は私の親だ。子が親を守るのは、世の理というものだろう?」
シルヴィは小さく首を巡らせ、俺に向かって得意げに喉を鳴らした。だが、ザルバたち帝国軍へ向き直った瞳には、絶対零度の冷徹さが宿っている。
「矮小な人間が、身の程を弁えぬ玩具を持ち出して調子に乗るな」
シルヴィの小さな口元から、吐息のように淡い光の粒子が溢れ出した。
それは次第に密度を増し、俺たちを包み込む巨大な半球状の結界へと姿を変える。淡い琥珀色と黄金が混ざり合ったその光幕は、まるで幾重にも折り重なった水晶の城壁のようだった。
結界が展開された途端、肌を刺していた焦熱が嘘のように消え去る。
俺は息を呑んだ。この規模の防御魔法を、これほど一瞬で展開するなどあり得ない。
「おいおい……冗談だろ……」
村人を誘導し終えたレオンが、呆然と結界を見上げていた。
「あいつ、普段から各国の使者が持ってきた最高級の魔石や竜肉を、底なし沼みたいに胃袋に収めてただろ……あれ、ただの食い意地じゃなかったのかよ」
レオンの呟きに、俺ははっとした。
あばら家に押しかけてきた貴族たちが献上した、山のような財宝や高濃度の魔石。シルヴィはそれらをまるで間食でもするかのように、際限なく平らげていた。
俺はてっきり、成長期の子どもがよく食べるのと同じだと思っていたのだ。
だが違った。シルヴィはずっと備えていたのだ。いつか俺に危険が及んだとき、一欠片の傷も負わせずに完全に護り切るためのエネルギーを、その小さな体に蓄え続けていた。
「すべては、お前と日だまりの中でまどろむためだ」
シルヴィが前を見据えたまま、誇らしげに言った。
直後、天から降り注いだ破滅の閃光が、黄金の結界へと直撃した。
視界が真っ白に染まった。
天地を揺るがす轟音が爆発し、衝撃波が同心円状に広がって広場の外周の木々を薙ぎ倒していく。だが、俺たちの頭上を覆う水晶の壁は、激しい火花を散らしながらも微動だにしなかった。
大気を灼く赤黒い光線と、それを阻む黄金の輝きが拮抗し、耳を劈く軋み音を立てる。
「な……何だと……!?」
上空の浮遊魔法陣の中央で、ザルバが引きつった表情で叫んだ。
「馬鹿な! これは古代帝国が神を討つために造り上げた最終兵器だぞ! たかが孵化したばかりの幼体に、防ぎきれるはずがない!」
ザルバの額に脂汗が滲み、傲慢だった顔相が屈辱と焦燥で醜く歪んでいく。
自分があらゆる富と権力を注ぎ込み、自らの血すら捧げて起動した絶対の力が、指先一つ触れられずに遮断されている。その事実が、彼の中の特権意識を根底から打ち砕いていた。
「消えろ……消えろぉッ! 私の前に立ち塞がるなァ!」
兵器の制御盤に取り付けられた魔導針が、限界領域を振り切って激しく明滅した。
「貴様、何を血迷っている!」
レオンが顔色を変えて叫んだ。
「そんなに出力を上げたら炉心が耐えきれん! 術者のお前ごと自爆する気か!」
「黙れ、裏切り者の雑兵が! 力こそが全てだ! この私が、あんなみすぼらしい小僧とトカゲの前に敗北するなど、絶対に認めん!」
ザルバは狂気に憑りつかれた目で短剣をさらに深く己の胸へと突き刺した。
溢れ出た生血が制御盤を赤く染め上げ、対竜兵器の魔法陣が不吉な黒紫色の輝きを放ち始める。空を覆う陣の回転速度が異常に跳ね上がり、空間そのものが引きちぎられるような不快な風切り音が鳴り響いた。
「ルカ、気をつけろ!」
シルヴィの声が鋭さを増した。
「奴は完全に理性を失った。兵器の構造限界を超えて魔力を逆流させている。……このままでは、あの光輪が暴走して周囲ごと炸裂するぞ」
見上げると、黒紫の光を放つ球体が、太陽のような大きさにまで膨張していた。
兵器としての指向性を失い、膨大な破壊のエネルギーが無秩序に渦を巻いている。もしあれが地上で炸裂すれば、結界の内外を問わず、山一つが丸ごと消し飛ぶのは明白だった。
「逃がさん……誰も逃がさんぞ……!」
ザルバの哄笑が、暴風に乗って降り注ぐ。
彼自身の肉体も、逆流する魔力に耐えきれず皮膚が裂け、血飛沫が舞っていた。だが、その瞳には自らの破滅すら厭わない狂気の光だけが宿っている。
「ルカ」
シルヴィが俺の前に降り立ち、振り返った。その瞳には、かつて見せたことのないほどの真剣な光が宿っていた。
「私の魔力全開で奴の核を撃ち抜けば、暴走を相殺できる。だが、反動でお前を包む結界が薄くなるかもしれん」
「構わない」
俺は迷わず頷いた。自分の手のひらを見つめ、しっかりと拳を握りしめる。
胸の奥底で、かつてないほど力強く脈打つ熱を感じていた。シルヴィがくれた加護の光が、俺の血液の隅々にまで行き渡っているのがわかる。
俺はもう、ただ震えて守られるだけの存在じゃない。
「シルヴィ、思いっきりやれ。俺が絶対に、お前の背中を支えてやる」
「……ふふ、やはりお前は私の親だな」
シルヴィが満足そうに目を細めた。
頭上で、臨界点に達した黒紫の太陽が、逃げ場のない光となって爆発的に広がり始める。
世界が滅びの光に飲み込まれる直前、俺とシルヴィは同時に大地を蹴った。




