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第24話

天を覆い尽くす黒い靄が、渦を巻いて陽光を塗りつぶしていく。


空気が鉛のように重く沈み、立っているだけで肌がピリピリと痺れた。小瓶から溢れ出た異形の闇は、広場の石畳を侵食しながら、生き物のようにのたうち回っている。


「はは、あははははッ! 見よ、この圧倒的な力を! これこそが我が帝国が誇る究極の遺産だ!」


ザルバは濁った眼を見開き、喉を裂かんばかりの哄笑を響かせていた。整えられていたはずの白髪は乱れ、豪奢な外套の裾を黒い泥のような魔力に浸している。


かつて俺を見下ろしていた冷酷な宰相の面影は、どこにも残っていなかった。そこにいるのは、手に入らないものを前にして癇癪を起こした、醜悪な亡者そのものだった。


「ルカ、やつを消す。今すぐ跡形もなく焼き払ってやる」


腕の中で、シルヴィが牙を剥き出しにして唸り声を上げた。もふもふとした背の毛が逆立ち、琥珀色の瞳に苛烈な敵意が宿る。小さな身体から放たれる熱量が、俺の胸元をじりじりと焦がした。


「待ってくれ、シルヴィ」


俺は小竜の柔らかな顎の下をそっと撫でた。怒りで強張っていたシルヴィの身体が、微かに震えて力を抜く。


「……ルカ?」


「無茶をしちゃいけない。あいつの狙いは、お前の力を引きずり出して暴走させることだ」


ザルバの視線は、明らかに異常だった。シルヴィが放つ神聖な光を見るたび、彼の顔は屈辱と憎悪で歪んでいる。自分が積み上げてきた地位も、集めてきた財宝も、この小さな命の前には何の価値も持たなかったという現実が、彼のプライドを内側からズタズタに引き裂いているのだ。


「何を小賢しく囁き合っている! 名もなき孤児風情が、分不相応な神を抱いていい気になりおって!」


ザルバは懐から黒曜石でできた歪な短剣を取り出し、自身の掌を躊躇なく切り裂いた。滴り落ちる血が地面の闇に吸い込まれ、脈打つような低い唸り声が大気を揺らす。


「血を捧げよ、我が命に従え! 竜を屠る古の檻よ、神の首を刎ねて我が覇道の礎となれ!」


周囲の帝国兵たちが悲鳴を上げて後退する。もはや主の命令に従う余裕すら失い、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていた。味方を巻き込むことすら厭わないザルバの狂気は、軍の統制を完全に崩壊させていた。


◆ーーーー◆


広場から少し離れた崩れかけの見張り塔の上で、豪奢な軍服コートの裾が風に揺れていた。


ヘンリエッタは金色の髪を指先で弄び、眼下に広がる惨状を冷徹に見下ろした。


「見苦しいこと。あれほど誇らしげだった宰相閣下が、あんな小汚い獣のように取り乱すなんて」


「将軍、よろしいのですか? あれは禁忌に指定された兵器です。このままでは帝都にまで影響が……」


背後に控えていた副官がおずおずと進言するが、ヘンリエッタは優雅に微笑んだまま、細い煙管から紫煙をくゆらせた。


「放っておきなさい。ザルバが勝手に自滅してくれるのだから、私にとっては最高の手間省きよ。あの男が築いた派閥も、これで綺麗さっぱり消し飛ぶわ」


彼女の紫色の瞳には、同僚に対する情など欠片も宿っていなかった。見つめる先にあるのは、ただ一つ。


ザルバが失脚した後に転がり込んでくる、帝国の絶対的な軍権だけだった。


「ですが、あの小竜と少年はどうなさいますか? もし宰相を退けた場合、帝国にとって最大の脅威となります」


「脅威? いいえ、あれはただの『災害』よ。手を出さなければ害はないわ。ザルバの愚行をすべて押し付けて、帝国は不可侵を申し出る……それが一番賢い立ち回りというものよ」


ヘンリエッタは煙を吐き出し、氷のように冷たい笑みを唇に浮かべた。


「もっとも、あの少年があの兵器に耐えられればの話だけれどね」


◆ーーーー◆


地面が激しく隆起し、黒い鉄で鍛えられた巨大な杭が何本も突き出してきた。


それらは不気味な幾何学模様を描きながら、俺たちを取り囲むように円陣を形成していく。杭の先端から黒い稲妻が走り、空を覆う暗雲へと繋がった。


「がああああっ!」


シルヴィが苦痛に満ちた声を漏らし、小さな身体を丸めた。大気に満ちた黒い魔力が、シルヴィの神聖な力を強引に吸い上げ、縛り付けようとしているのだ。


「シルヴィ!」


俺は小竜を胸の奥深くに抱き込み、自らの背中で黒い風を遮った。


かつて、薄暗いあばら家で冷たい卵を温めていた日々の感触が蘇る。誰にも顧みられず、泥水を啜るように生きていた俺の腕の中で、確かに脈打っていた温もり。


誰にも渡さない。


この温もりを、利用しようとする奴らの好きには絶対にさせない。


俺がそう強く念じた瞬間、胸の奥で眠っていた何かがパチリと弾けた。


首にかけた石の欠片から、熱い奔流が全身の血管へと流れ込んでくる。それはシルヴィの放つ光と同じ、暖かく力強い黄金の脈動だった。


「……な、んだ……?」


自分の身体から、淡い金色の燐光が立ち上っているのが見えた。吹き荒れる黒い突風も、肌を焼くような邪悪な重圧も、その光に触れた端から霧散していく。


「ルカ……お前、それは……」


シルヴィが顔を上げ、驚きに目を見張った。痛みが引いたのか、その表情に微かな生気が戻っている。


「理由は分からない。でも、身体がすごく軽いんだ」


俺はシルヴィを片腕で支え、しっかりと地面を踏みしめた。足元から黄金の光が広がり、ザルバの放った黒い泥を押し返していく。


「バカな……貴様のような名もなきゴミが、なぜ対神兵器の魔圧を弾いているのだ!?」


ザルバが目を剥き、血走った瞳で叫んだ。


「貴様はただの孤児だ! 親の愛も知らず、誰からも見捨てられた薄汚い下民の分際で……私に逆らうなァ!」


喚き散らすザルバの言葉は、以前の俺なら深く突き刺さっていたかもしれない。


だが、今は不思議なほど何も感じなかった。腕の中にある重みと、魂を通して伝わってくる絶対的な信頼が、俺の心を完全に満たしていたからだ。


「俺が誰かなんて、どうでもいい」


俺は静かに告げた。声は荒らげなかったが、広場全体に澄み渡るように響いた。


「俺はシルヴィの親だ。この子を守るためなら、お前の帝国だろうが、何だろうが叩き潰す」


「よく言った、ルカ!」


シルヴィが嬉しそうに喉を鳴らし、俺の肩へと飛び乗った。その全身から、これまでにないほど膨大な神威が解き放たれる。


黄金の光と琥珀の輝きが混ざり合い、天空の闇を切り裂く一筋の巨大な光柱となった。


だが、ザルバの狂気もまた限界を超えていた。


「おのれ、おのれぇぇぇッ! 神など要らぬ! すべてを呑み込め、『虚無の檻』——最大展開ッ!」


ザルバが短剣を心臓の近くに突き立てると、突き出していた鉄の杭が一斉に砕け散り、空を覆う暗雲が真っ赤に発光した。


頭上に展開されたのは、視界の端から端までを埋め尽くす、禍々しい古代の多重魔法陣だった。


大地が激しく軋み、世界の理そのものを歪めるような圧倒的な破壊の予兆が、重く広場へと降り注ぐ。


まだ戦いは終わっていない。帝国の最も深く暗い悪意が、今まさにその真の姿を現そうとしていた。

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