第23話
砕け散った結界の破片が、黄金の燐光となって宙を舞う。
足元を揺らしていた重苦しい魔力の圧迫感が消え去り、澄んだ風が広場を吹き抜けた。視界を埋め尽くしていた帝国兵たちは、手にした槍や魔導銃を取り落とし、腰を抜かして後退りを始めている。
「ひ、怯むな! 陣形を立て直せ!」
指揮官らしき男が掠れた声で叫んでいるが、統率を失った兵士たちの耳には届いていない。彼らの瞳に焼き付いているのは、絶対的な防壁を粉砕した圧倒的な光と、俺の腕の中にいる小さな姿だけだった。
「おい、ぼさっとすんな! 今のうちに村の裏手へ走れ!」
怒声混じりの叫び声が、広場の端から響いた。振り返ると、騎士の制服を乱暴に着崩したレオンが、腰の剣に手を添えながら必死に手振りを交えていた。
彼の膝は微かに震えている。竜神の威圧感を間近で浴びて、恐怖を感じていないはずがない。それでもレオンは、逃げ遅れて立ちすくんでいた村人たちの肩を押し、建物の陰へと誘導していた。
「あんたたちも早く! ここにいたら巻き添えを食うぞ!」
「ひ、ひぃっ……!」
村人たちは青ざめた顔で頷き、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。かつて俺を路地裏へ追いやり、冷たい言葉を浴びせていた連中も、今はただ命からがら逃げ惑うことしかできていなかった。
レオンは額の汗を手の甲で乱暴に拭い、俺たちのほうへ視線を向けた。苦虫を噛み潰したような顔で、ひらひらと手を振ってみせる。
『あいつは任せろ』とでも言いたげな仕草だった。普段は軽口ばかり叩いて胃を痛めている男だが、こういう時に体を張れる強さを持っている。
一方、広場の外れにある薬草屋の店先では、まったく異なる空気が流れていた。
「あらあら、ずいぶん派手に壊してしまったわねぇ」
腰の曲がった老婆、エルナさんだった。
吹き荒れる突風に白髪を揺らしながらも、彼女はいつも通りの穏やかな足取りで、店先に干してあった薬草の束を丁寧に木箱へ収めていた。周囲の混乱など、まるで春先の小雨程度にしか感じていないかのようだ。
逃げ惑う人々が彼女の脇をすり抜けていく中、エルナさんはふと手を止め、こちらへ顔を向けた。
視線が交差する。
エルナさんは優しく目を細め、静かに頷いてみせた。言葉はなかったが、その温かな眼差しは、背中をそっと押してくれるような力を持っていた。ずっと俺の生い立ちを知りながら、変わらない態度で接してくれた人の沈黙のエールが、胸の奥にじんわりと染み渡る。
俺は息を深く吸い込み、腕の中へと視線を落とした。
「……シルヴィ」
呼びかけると、もふもふとした白い毛並みが小さく震えた。淡い琥珀色の瞳が、おずおずと俺を見上げる。
「……ルカ」
その声は、かつて森の奥であばら家に連れ帰った時のように、頼りなげに揺れていた。
「私、また……力を抑えられなくて……ルカの場所を、壊してしまうところだった……」
小さな耳をぺたりと伏せ、シルヴィは俺の胸元に顔を埋めてきた。額に伝わる感触は、いつもよりずっと熱く、そして微かに濡れている。
泣いていた。
世界を揺るがすほどの力を持ちながら、この子はただ、俺に拒絶されることだけを恐れていたのだ。自分の強大すぎる力が、築きかけていた穏やかな居場所を壊してしまうのではないかと、小さな胸を痛めていた。
俺は両腕に力を込め、その愛らしい体を強く抱きしめた。
「壊れてなんかない。お前が俺を守ってくれたんだろ」
「でも……私は、恐ろしい力を持っていて……」
「それがどうしたっていうんだ」
俺はシルヴィの頭を、毛並みを整えるようにゆっくりと撫でた。指先に伝わる柔らかな感触。かつて冷え切っていた卵を、自分の体温で温め続けていた日々が思い出される。
「どんな力を持っていようと、お前はお前だ。俺が温めて、俺のところで生まれた。それ以外に何がある」
「……ほんとうに?」
「ああ。嘘なんかつかない」
シルヴィの瞳から、ぽろぽろと光の粒のような涙が零れ落ちる。それは地面に落ちると同時に淡く弾け、辺りに漂っていた冷たい魔力の残滓を優しく浄化していった。
「ルカ……! ルカ、大好き……!」
シルヴィは俺の首元に両腕を回し、力いっぱいくっついてきた。喉の奥から、グルグルと満足そうな甘えた音が響く。その小さな鼓動が、俺の胸の鼓動と重なって心地よく伝わってきた。
どんな強固な障壁も、打算に満ちた権力者の思惑も、俺たちの間にあるこの繋がりを裂くことはできない。誰にも奪わせはしないし、手放しもしない。俺たちは最初から、互いにとって唯一の居場所だった。
「おのれ……おのれぇぇぇッ!」
耳障りな絶叫が、静まり返りつつあった空気を切り裂いた。
瓦礫の上に膝をついていたザルバが、激しい怒りと屈辱に顔を歪めながら立ち上がっていた。豪奢な法衣は光の余波でボロボロに裂け、整えられていた白髪は乱れ飛んでいる。かつての冷酷な尊大さは消え失せ、底知れぬ狂気だけがその瞳に宿っていた。
「神獣風情が、この私に泥を塗ったばかりか……! 名も無き泥の孤児ごときに、帝国の威光が屈するなどと……あってはならんのだ!」
ザルバは懐から、紫黒色に不気味な光を放つ金属製の小瓶を取り出した。その表面には、禍々しい古代文字がびっしりと刻み込まれている。
周囲の帝国兵たちが、それを見た途端に血の気を引かせた。
「ざ、ザルバ閣下……まさかそれを使う気ですか!?」
「あれは帝国の禁忌……使用すれば、我々すら無事では……!」
「黙れ塵芥ども!」
ザルバは制止の手を乱暴に振り払い、親指で小瓶の封印を弾き飛ばした。
「我が野望の前に、平伏せぬものは全て滅びよ! 解き放たれよ、対神魔導兵器——『虚無の檻』ッ!」
小瓶から噴き出したのは、光を一切通さない完全な闇だった。それは意思を持つかのように蠢き、広場全体を包み込むほどの巨大な黒い影となって天空へと立ち昇っていく。
空が急速に夜のような暗闇に覆われ、大気が軋むような異様な音が耳鳴りのように響き渡った。
シルヴィが俺の腕の中で顔を上げ、琥珀色の瞳を鋭く細める。
「ルカ、下がるのだ。あの穢らわしい闇、私が——」
「いや、一緒に立つ」
俺はシルヴィを抱えたまま、一歩前へと踏み出した。腕の中の重みと温もりが、迷いを完全に吹き飛ばしてくれる。
狂気にとらわれた帝国の宰相が、最後の足掻きとして解き放った禁忌の力。だが、俺たちの胸にある光は、いかなる闇にも決して呑まれはしない。




