第22話
突き出された穂先が、俺の鼻先で真っ赤に焼け落ちた。
鉄の溶ける異臭と、肌を焦がす熱風が顔面を打つ。突撃してきた兵士は、槍の柄を手放して悲鳴を上げながら後退した。地面に落ちた柄が、乾いた音を立てて灰へと変わる。
「ルカに……手出しをするなァッ!」
シルヴィの咆哮が、大気を激しく震わせた。
手のひらサイズだった体が、猛烈な光を纏って膨張していく。白銀の毛並みが逆立ち、緋色の鱗が稲妻のように明滅した。結界の放つ紫色の膜が、内側から押し寄せる熱波に耐えかねて軋み声を上げる。
大気がひび割れるような衝撃波が四方に広がった。地面が波打ち、帝国兵たちが木の葉のように吹き飛ばされていく。結界の紫光が激しく明滅し、周囲の空間そのものが歪み始めていた。
「な、なんだこの出力は……!? 魔力阻害結界を完全に無視しているというのか!」
後方にいたザルバが、引きつった笑みを貼り付けたまま後ずさりした。その額には脂汗がびっしりと浮いている。傲慢だった顔つきは消え失せ、底知れない化け物を前にした怯えが露わになっていた。
だが、様子がおかしい。
吹き荒れる魔力は、ただ敵を薙ぎ払うだけではなかった。暴風は渦を巻き、地面を削り取り、近くにいたディルクさえも吹き飛ばされそうになっている。周囲の民家の屋根瓦が剥がれ、巻き上げられた小石が弾丸のように飛び交っていた。
「ぐっ……シルヴィ、落ち着け!」
俺は吹き荒れる突風に耐えながら、必死に声を張り上げた。
しかし、叫びは轟音にかき消される。
シルヴィの瞳は深紅に染まりきり、焦点を失っていた。俺を傷つけられた激しい怒りが、制御不能な力となって溢れ出しているのだ。強大すぎる竜神の力が、幼い器から際限なく漏れ出していた。
魔力の嵐が、俺の頬を鋭くかすめた。痛みが走り、一筋の血が流れる。
その瞬間、シルヴィの動きがぴたりと止まった。
「……キュ……?」
紅蓮の瞳が、俺の頬の傷を捉えていた。嵐の中で、シルヴィの体が小さく震える。漏れ出る魔力は収まるどころか、混乱によってさらに激しさを増し、周囲の空間をずたずたに引き裂いていく。
「ル……カ……? わたし……また……」
シルヴィの口から、幼く悲痛な鳴き声が漏れた。
自分の振るった力が、守りたかったはずの俺を傷つけてしまった。その事実が、小さな魂に強烈な衝撃を与えたのだ。力が暴走し、周囲を壊し、平穏な暮らしを自らの手で灰にしてしまう。そんな恐怖に囚われたかのように、シルヴィは目を白黒させてパニックに陥っていた。
「あ、あああぁッ! ルカ、ルカァッ……!」
泣き叫ぶ声とともに、膨張した魔力が赤黒い閃光となって全方位へ乱反射する。結界の内側はすでに灼熱の地獄と化していた。このままではシルヴィの魔力自身が限界を超え、村もろとも全てを吹き飛ばしてしまう。
「バカ野郎、化け物めが! 総員、盾を構えろ! 結界を限界まで強化しろ!」
ザルバの狼狽した怒号が響くが、兵士たちも暴風に抗えず倒れ伏していた。ディルクが剣を地面に突き立てて必死に踏みとどまりながら、俺に向かって叫ぶ。
「ルカ殿、下がれ! その魔力に巻き込まれれば、人の身では蒸発するぞ!」
下がるわけにはいかない。
誰がこんなところで逃げ出すものか。
怯えて泣いているのは、世界最強の竜神なんかじゃない。俺が温めて、俺の膝の上で眠っていた、たった一人の家族だ。
俺は上着のポケットに手を突っ込んだ。
指先に触れたのは、硬くて滑らかな陶器のような感触。あの日、冷たい森から持ち帰り、自分の体温で温め続けた卵の殻の破片だった。手のひらに収まるほどの小さな欠片。ずっとお守り代わりに持ち歩いていたそれを、俺は強く握りしめた。
掌に鋭い痛みが走る。破片の縁が皮膚を切り、血が滲んだ。
すると、胸の奥底で、かつて聞いた懐かしい鼓動が跳ねた。
あの森の中で、死にかけていた命が初めて脈打った時の、微かで温かい振動。
「シルヴィッ!」
俺は足を踏み出した。猛烈な熱風が全身を焼き、吹き荒れる砂利が服を裂く。それでも構わず、赤黒い嵐の中心へ向かって駆け出した。
「よせ、ルカ殿!」
ディルクの制止も耳に入らない。体が重いとか、相手が竜神だとか、そんなことはどうでもよかった。俺を必要としてくれたあの子を、一人きりで泣かせておくことだけは、絶対に嫌だった。
「俺はここだ! どこにも行かない!」
掌の中で卵の殻が血を吸い、黄金の光を放った。
吹き荒れる赤黒い魔力を、その眩い光芒が一気に切り裂いていく。
かつて飲まされていた薬のせいで奥底に沈んでいた何かが、完全に砕け散った感覚があった。身体の芯から湧き上がるのは、シルヴィの魔力とまったく同じ波長の温もり。冷たい孤独の底から互いを引き寄せ合った、絶対の絆だった。
足にかかっていた重圧が消え失せる。俺の皮膚を覆うように、黄金の淡い光の膜が立ち上った。竜神の絶大な力を受け止め、共に分かち合うための、親としての加護。
熱波も、切り裂く風も、もう俺の肌を傷つけることはできなかった。
俺は嵐の中心へと飛び込み、パニックで泣きじゃくる小さな体を、両腕で力いっぱい抱きしめた。
「ぎゅっ……!?」
衝撃とともに、シルヴィの悲鳴が胸元で止まる。
「シルヴィ。怖がらせて悪かったな」
荒れ狂う暴風の中で、俺は優しく、しっかりとあの子の背中を撫でた。
「お前は何も壊していない。俺は傷ついてなんかいないよ。ほら、見てみろ」
シルヴィが恐る恐る顔を上げた。深紅に染まっていた瞳が、潤んだ琥珀色へと戻っていく。俺の胸元に顔を埋め、震える鼻先で俺の匂いを確かめるように擦り寄せてきた。
「ル……カ……? ほんとうに、ルカ……?」
「ああ。俺のシルヴィだ。大丈夫、全部大丈夫だから」
俺がそう告げると、シルヴィの瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「ルカァ……! こわかった、ルカがきえちゃうかとおもった……!」
幼い声で泣きじゃくりながら、シルヴィは俺の首元にしがみついてきた。その瞬間、荒れ狂っていた赤黒い魔力の嵐が、嘘のように鎮まっていく。暴走していた膨大なエネルギーは消滅したのではなく、俺とシルヴィの魂の巡りを通じて、穏やかな黄金の光へと昇華されていった。
周囲の兵士たちが呆然と立ち尽くしている。ディルクもまた、目を丸くして俺たちを見つめていた。
「な……なんだ、あの光は……!? 竜神の暴走が、ただの孤児の抱擁で収まるだと……!?」
ザルバの狼狽した声が響く。だが、驚愕している暇など彼には残されていなかった。
シルヴィが俺の腕の中から顔を出し、結界の外にいるザルバへと冷徹な視線を向けたのだ。甘えん坊の愛らしい仕草は消え去り、そこには世界最強の竜神としての、絶対的な威厳が宿っていた。
「……ルカを怖がらせ、傷つけようとした罪。万死に値する」
シルヴィの低く透き通った声が、静まり返った広場に響き渡る。
俺の握る卵の殻と、シルヴィの胸元の核が共鳴し、眩い光の奔流となって立ち昇った。それは暴走による破壊の光ではない。俺たちが互いを信じ、守り合うことで生まれた、純粋で強大な絆の輝きだった。
光はドーム状に広がり、ザルバが展開していた帝国製の大結界を、内側から容赦なく圧迫していく。
パキィン、と硬質な音が空間に響いた。
「ば、馬鹿な! 帝国の誇る対竜結界だぞ! それに亀裂が入るなど……!」
ザルバの絶叫を嘲笑うかのように、紫色の障壁に無数の白いひび割れが走る。次の瞬間、結界はガラス細工のように砕け散り、目も眩むような黄金の閃光が辺り一面を覆い尽くした。
解き放たれた光の余波を受け、帝国の精鋭部隊は陣形を保つことすらできず、一斉にたじろぐ。
結界を破られたザルバが、顔面を蒼白にしてへたり込んだ。その背後で、残された軍勢が恐慌状態に陥り、武器を取り落とす金属音が次々と響き始める。
俺はシルヴィを抱き直しながら、ゆっくりと顔を上げた。
圧倒的な光の中心で、俺たちの家族としての時間が、揺るぎない確信となって胸に満ちていた。




