第21話
視界を覆う紫の光幕が、大気を重く軋ませていた。
足元から吸い上げられるような脱力感に襲われ、俺は膝を突いた。地面の泥が指先に冷たくへばりつく。かつて村の長老から無理やり飲まされていた、あの泥水のような薬の苦味が喉の奥に蘇る。
全身の血が澱む感覚とともに、いつも胸の奥を満たしていた柔らかな拍動が、急激に薄れていく。
「キュウ……ッ!」
俺の足元で、シルヴィが小さな体を震わせていた。普段なら眩いばかりの光を放つ白銀の毛並みが、結界の放つ濁った魔力に圧迫されて微かにくすんでいる。
胸が締めつけられるように痛んだ。
繋がっていたはずの意識が、霧の向こうへ押し流されていく。まるで、かつてあの薄暗いあばら家で、誰の声も届かない暗闇に一人取り残されていた頃に戻ってしまったかのようだった。背筋に冷たい汗が伝う。
「おい、しっかりしろ! 息を乱すな!」
ディルクの鋭い叱咤が頭上から降ってきた。彼の手が俺の肩を掴み、強引に立たせる。
「これは魔力を遮断する対竜の結界だ。気圧されるな。意識を強く持て」
「……あ、ああ。すまない」
俺は荒い息を吐き出しながら、なんとか立ち上がった。足の震えを無理やり抑え込み、シルヴィを抱き上げる。腕の中に収まる小さな体は、いつもよりずっと頼りなく、心細そうに俺の服にしがみついてきた。
「ルカ……ルカ……」
弱々しい声で名を呼ばれ、俺は腕に力を込めた。何があっても、この子を手放すわけにはいかない。
その時、結界の外縁に整列していた重装歩兵の列が、左右へと割れた。
金属鎧の擦れ合う乾いた音が響き、奥から豪奢な錦の羽織をまとった男が、護衛を引き連れて悠然と歩み出てくる。金糸で刺繍が施された扇を弄びながら、冷ややかな三白眼で俺たちを見下ろす男――ザルバ宰相だった。
「ほう、まだ立っていられるか。やはり雑草の生命力だけは認めてやるべきだな」
ザルバは口元に薄笑いを浮かべ、値踏みするような視線を俺に向けた。
「魔力を断たれ、ようやく自分の身の程を思い知ったか? 名もなき村の薄汚い孤児風情が。親の顔も知らず、藁屑の上で這い回っていた貴様のような蛆虫に、竜神の主たる資格など最初からあるはずがなかろう」
扇の先が、まっすぐに俺の鼻先を指した。
「玩具の時間は終わりだ。帝国が正当なる力として、その神獣を管理してやる。大人しく差し出せば、貴様のちっぽけな命くらいは助けてやらんこともないぞ」
投げつけられる言葉の一つ一つが、昔から耳にタコができるほど聞かされてきた蔑みと重なる。胸の奥底に澱のように沈んでいた劣等感が、じわりと疼いた。
俺には高貴な血筋も、輝かしい家柄もない。誰かに誇れるようなものなんて、何一つ持っていない。ただ生きているだけで目障りだと、誰もが俺を邪魔者扱いしてきた。
だが――。
腕の中で、シルヴィが必死に俺の胸に顔を押し付けている。その体温が、俺の服を通して確かに伝わってきた。
この子は、俺の生い立ちなんて気にしなかった。みすぼらしいあばら家で、冷え切った卵をただ温め続けただけの俺を、迷うことなく『親』と呼んでくれたのだ。
「……断る」
喉の渇きを押し殺し、俺ははっきりと告げた。
「なに?」
ザルバの眉が不快そうに跳ね上がる。
「シルヴィは、誰の道具でもない。兵器なんかじゃないんだ。あんたなんかに、絶対に渡さない」
「愚鈍な餓鬼が。身の程を弁えぬ口を利くな!」
ザルバが忌々しげに扇を振るうと、背後の兵士たちが一斉に槍を構え、歩調を揃えて前進してきた。結界の重圧で思うように体が動かない。だが、俺は一歩も引かずにシルヴィを背中に庇い、自らの体を盾にした。
その瞬間、横から飛び出したディルクの漆黒の大剣が、空を薙ぎ払った。
甲高い金属音が鼓膜を突き刺す。先頭の兵士三人の槍がまとめて叩き折られ、火花を散らして弾き飛んだ。
「ぐあっ!?」
「抜かるな! 相手はかつての帝国軍指南役だぞ!」
後退する兵士たちを叱責する声が飛ぶ中、ディルクは剣を肩に担ぎ、冷徹な視線でザルバを射抜いた。
「ディルク……貴様、帝国の禄を食んでおきながら、そのような泥まみれの孤児に味方するつもりか! 我が帝国への明確な反逆とみなすぞ!」
ザルバの怒声に対し、ディルクは眉一つ動かさなかった。
「反逆か、大いに結構。貴様の卑劣な策謀に加担するくらいなら、最初から野垂れ死んだほうがましだ。俺は自分の誇りに従って、この少年と竜を守る」
「狂ったか! 者ども、構わん! 反逆者ごと叩き斬れ! 小竜さえ回収できれば、他はどうなっても構わん!」
ザルバの号令とともに、数十人の帝国兵が四方から雪崩を打って突撃してきた。結界の紫光が明滅し、押し潰すような重圧がさらに増す。
ディルクは鋭い踏み込みで敵の包囲を切り裂き、次々と兵を薙ぎ倒していく。だが、結界の影響は彼にも及んでいるのか、その太刀筋には微かな乱れが生じていた。多勢に無勢。このままでは包囲を維持しきれない。
「ルカ、伏せていろ!」
ディルクの叫びと同時に、兵士の一人が死角から回り込み、長槍の切っ先を俺に向けて突き出してきた。
体が鉛のように重い。避けるのは間に合わない。
俺は歯を食いしばり、シルヴィを抱えた腕をさらに強く締め、背中を丸めて衝撃に備えた。どんなに無力でも、この子の盾になることだけは諦めない。
「ルカに……触れるなァッ!」
空気を引き裂くような、幼くも苛烈な叫びが頭上から響いた。
結界の紫色の光を塗り潰すように、俺の胸元から紅蓮の輝きが溢れ出す。抱きしめていたシルヴィの瞳が、かつてないほどの激しい怒りで深紅に染まり上がっていた。




