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第2話

深い闇の底から、ゆっくりと意識が浮上してきた。


重い瞼を押し上げると、見慣れたあばら家の雨漏りする天井が視界に入った。隙間風が頬を撫でる。どうやら、俺は生きて朝を迎えることができたらしい。


体を起こそうとして、全身の関節がひどく軋むのを感じた。窓から差し込む光の角度や、ひどい空腹感からして、一日や二日眠っていたわけではなさそうだ。


「……卵は」


掠れた声を出して、慌てて横を見る。


俺が毛布で包んで温め続けていた巨大な卵は、そこにあった。だが、様子がおかしい。表面を覆っていた赤黒い不気味な紋様は完全に消え失せ、代わりに乳白色の殻に幾筋もの亀裂が走っていた。


ピキッ、と微かな音が室内に響く。


亀裂の隙間から、眩いほどの金色の光が漏れ出していた。俺は息を呑み、動けなくなった。


パキンッ!


澄んだ音とともに、卵の上部が弾け飛んだ。


光の粒子が舞い散る中、殻の中からひょっこりと顔を出したのは、恐ろしい化け物などではなかった。


「……きゅ?」


両手で包み込めるほど小さな生き物が、殻の縁に短い前足をかけて小首を傾げていた。


全身を覆うのは、鱗ではなく、異常なほどに豊かな銀色のもふもふとした毛並み。背中には小さな翼が生え、額には可愛らしい二本の角がある。どう見ても、おとぎ話に出てくる竜の幼体だ。


だが、その姿はあまりにも愛らしく、そして神秘的だった。


小竜はくりくりとした金色の瞳で周囲を見回し、俺と視線を合わせた。


その瞬間、胸元に下げていた親の形見のペンダントが、カッと熱を持った。


『ルカ……!』


頭の中に、鈴を転がすような無邪気な声が響いた。驚いて周囲を見回すが、誰もいない。声の主は、目の前の小竜しか考えられなかった。


ペンダントを通して、言葉が伝わってきているのか。


小竜は短い手足を使って不器用に殻から這い出すと、一直線に俺に向かってよちよちと歩いてきた。そして、俺の足元に辿り着くやいなや、迷うことなく膝の上へとよじ登ってくる。


「おい、ちょっと待て……」


戸惑う俺をよそに、小竜は俺の膝の上でくるりと丸くなり、銀色のもふもふとした体をすりすりと押し付けてきた。


『ルカ、あったかい。ルカ、すき』


頭の中に響く声は、純粋な好意に満ちていた。


そっと手を伸ばし、その背中を撫でてみる。驚くほど柔らかく、温かい。指先から伝わるその感触は、俺の心の中にずっと居座っていた冷たい孤独を、じんわりと溶かしていくようだった。


村の連中からは「呪われた孤児」と蔑まれ、誰からも必要とされなかった俺。そんな俺を、この小さな命は真っ直ぐに見つめ、無条件に慕ってくれている。


「あんた、俺が温めてたから……俺のこと、親だと思ってるのか?」


『きゅ!』


小竜は嬉しそうに鳴き、俺の手のひらに頬を擦り寄せた。


俺はふと、床に散らばった卵の殻に目を留めた。内側が真珠のように美しく輝いている。俺は一番大きな破片を拾い上げ、指先でそっと汚れを拭った。


こんなに美しいものから生まれた命だ。この破片は、俺とこの子が家族になった記念だ。


俺は殻の破片を、大切にズボンのポケットの奥へとしまい込んだ。


「お前の名前……シルヴィ、なんてどうだ?」


『シルヴィ! わたし、シルヴィ!』


膝の上の小竜――シルヴィは、短い尻尾をぱたぱたと振って喜んだ。どうやら気に入ってくれたらしい。


俺はシルヴィの柔らかな体を抱きしめた。もう、一人じゃない。この温もりだけは、絶対に誰にも奪わせない。


その時、あばら家の薄っぺらい木の戸が、コンコンと叩かれた。


「ルカくん、いるかしら? 何日も顔を見せないから、心配して来ちゃったわよ」


エルナさんの声だった。


俺は心臓が跳ね上がるのを感じた。まずい。村の人間に竜を見られたら、何をされるか分からない。奪われるか、殺されるか。


「ちょ、ちょっと待ってて!」


俺は慌ててシルヴィを毛布の下に隠そうとした。だが、シルヴィは不満そうに『きゅむ』と鳴いて毛布から這い出し、再び俺の膝の上に陣取ってしまった。


「開けるわよー」


止める間もなく、戸がギシギシと音を立てて開いた。


籠を抱えたエルナさんが、ゆっくりと足を踏み入れる。そして、俺の膝の上で丸くなる銀色の毛玉と、完全に固まっている俺を交互に見た。


終わった。そう覚悟して、俺はシルヴィを庇うように抱きしめた。


だが、エルナさんは目を丸くすることも、悲鳴を上げることもなかった。


「あらあら。可愛い子が家族になったのねぇ」


のんびりとした口調でそう言うと、エルナさんは籠から茶葉の入った瓶と小さな包みを取り出した。


「お湯、沸かせるかしら? お茶菓子も持ってきたのよ」


「え……あ、はい。じゃなくて、エルナさん、これ……」


「森で拾ったの? 綺麗な毛並みねぇ。犬かしら、それとも鳥?」


「いや、どう見ても竜……」


「まあ、どっちでもいいわ。ルカくんが寂しくなくなって、本当に良かったわね」


エルナさんはニコニコと笑いながら、手際よくかまどに火を入れ始めた。あまりにも日常的な態度に、俺の張り詰めていた緊張が嘘のように抜けていく。


お茶が入り、エルナさんが持参したクッキーが机に並べられた。


シルヴィは俺の膝の上からエルナさんをじっと見つめていた。


『貴様、ルカに気安く近づくな。そこは私の場所だ』


頭の中に、先ほどまでの無邪気さとは打って変わった、冷酷で尊大な声が響いた。どうやらシルヴィは、俺以外の人間に対してはかなり警戒心が強いらしい。


だが、エルナさんはそんな威圧感など全く感じていない様子で、クッキーを一つ欠いてシルヴィの口元に差し出した。


「ほら、おチビちゃんも食べる?」


『……ふん。貴様ごときが私に貢ぎ物とは生意気な。だが、ルカの客人ならば特別に許してやろう』


シルヴィは偉そうな念波を飛ばしながらも、クッキーの甘い匂いには勝てなかったのか、サクッと音を立ててそれを齧った。そして、目を細めて『きゅふぅ』と満足げな声を漏らす。


「ふふっ、よく食べるわねぇ」


そのままエルナさんが頭を撫でると、シルヴィはクッキーの余韻もあってか、大人しく銀色の毛並みを預けていた。


温かいお茶の湯気が、薄暗いあばら家を満たしていく。


俺の膝の上には、もふもふとした温かい家族がいる。そして目の前には、俺を気にかけてくれる優しい人がいる。


こんな穏やかな時間が、ずっと続けばいい。


俺はシルヴィの背中を撫でながら、心からそう願った。


◆ーーーー◆


同じ頃。辺境の村から遥か遠く離れた、帝都の地下深くに位置する魔力観測室。


薄暗い室内は、無数の魔導計器が発する青白い光に照らされていた。数十人の観測手たちが慌ただしく動き回る中、部屋の中央に鎮座する巨大な水晶柱が、突如として赤黒い光を放ち始めた。


「な、何事だ!」


当直の士官が怒鳴り声を上げる。


「ほ、報告します! 大陸の北西、辺境の森の方角から、観測史上最大クラスの魔力波紋を検知!」


観測手の一人が、震える声で叫んだ。


「最大クラスだと? 数値はどれくらいだ!」


「計器が……振り切れています! 魔力波長を解析……こ、これは……!」


観測手は信じられないものを見るかのように、手元の羊皮紙と水晶柱を交互に見比べた。


「古代の文献に記された、神格級の魔力波長と完全に一致……! 間違いありません。伝説の『竜神』が……どこかで誕生しました!」


室内に、水を打ったような静寂が落ちた。


竜神。それは、世界を揺るがすほどの絶大な力を持つとされる伝説の存在。その力がもし他国の手に渡れば、世界のパワーバランスは一瞬にして崩壊する。


「すぐに皇帝陛下に報告しろ! 特務機関を動かせ!」


士官の怒号が響き渡る。


「是が非でも、我が帝国がその力を手に入れるのだ。他国に先を越されるな!」


観測室の喧騒は、やがて帝都全体を巻き込む巨大な渦の始まりに過ぎなかった。


辺境の小さな村で、一人の少年がただ温もりを求めて抱きしめた小さな命。


それが世界にどれほどの波乱を巻き起こすことになるのか、この時のルカはまだ、知る由もなかった。

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