第19話
窓の外の曇り空を見上げながら、得体の知れない不安が足元から忍び寄ってくるのを感じていた。
オズワルドからの手紙の続きを読もうと、分厚い便箋をめくる。紙の擦れる乾いた音が、静まり返った部屋に響く。
だが、その静寂は外から響いた荒々しい怒号によって唐突に破られた。
「さっさとその小竜を差し出せ! 応じねば、この村ごと灰にするぞ!」
あばら家の外に出ると、見慣れぬ黒い軍服を着た一団が武器を構えていた。ザルバ帝国の別動隊か、あるいはどこかの小国の強硬派か。
十人ほどの兵士たちが、殺気を放ちながらじりじりと距離を詰めてくる。彼らの目は、俺の腕の中にいるシルヴィの持つ絶大な力への欲望で濁っていた。
レオンが舌打ちをし、腰の剣に手をかけて前に出た。
「おいおい、どこの馬の骨か知らないが、ここで騒ぎを起こすのは得策じゃないぜ。命が惜しければ引き返せ」
「黙れ! 我々は偉大なる力を手に入れるのだ! その小竜さえいれば、世界は我々のものになる!」
男の一人がレオンの牽制を無視し、手にした杖から攻撃魔法の陣を展開した。赤黒い光が渦を巻き、狙いは真っ直ぐに俺の腕の中にいるシルヴィへと定められる。
力ずくで奪い取ろうとする露骨な強奪の試み。
だが、彼らの魔法が放たれるより早く、俺の膝の上で丸まっていたもふもふの小竜が動いた。
「ルカに刃を向ける愚か者め。貴様らのような塵芥が、私の視界に入るな」
シルヴィの金色の瞳が縦に割れ、冷酷な光を放つ。
空間そのものが軋むような、神話級の圧倒的な魔力が膨れ上がった。周囲の空気が一瞬にして凍りつき、息を吸うことすら困難になる。
男たちの展開した魔法陣は、ガラス細工のようにあっけなく粉砕された。それどころか、不可視の巨大な重圧が彼らの頭上から降り注いだ。
「がっ……あぁぁっ!」
悲鳴すらまともに上げられず、兵士たちは次々と地面に這いつくばる。骨が軋む嫌な音が響き、彼らは指一本動かすことすらできなくなった。
シルヴィは俺の腕の中から一歩も動かず、ただ冷たい視線を下ろしているだけで、敵対者を徹底的に蹂躙してしまった。
遠巻きに見ていた各国の使者たちは、恐怖のあまり膝から崩れ落ちる。
彼らは一斉に俺に向かって土下座し、地面に額を擦りつける。
「ど、どうか我々にはお慈悲を……! 決してあなた様に逆らうつもりはございません!」
「我が国からは、最高級の魔石と絹の織物を献上いたします! どうか、どうかご機嫌を損ねなきよう……!」
誰もが極限の恐怖と畏敬を抱き、震える声で忠誠を誓ってくる。
俺が少し歩くたびに、使者たちは慌てて道を空け、泥が跳ねないようにと自らの外套を地面に敷き詰める者まで現れた。
図らずも、俺は世界で最も丁重に扱われる存在になってしまったらしい。生活環境が一変するほどの過剰な配慮に、思わずため息が漏れる。
騒ぎが静まり返った広場に、一台の豪奢な馬車がゆっくりと入ってきた。
車輪の音だけが響く中、扉が開き、一人の女性が降り立つ。
豪奢なドレスの上に軍服のコートを羽織った、金髪の美しい貴族。彼女は周囲の惨状を一瞥し、優雅な笑みを浮かべた。
「お騒がせして申し訳ありません。ザルバ宰相の暴走を止めるため、わたくしが参りました」
慇懃無礼な態度で一礼する彼女を見て、レオンが胃の辺りを強く押さえ、顔をしかめた。
「……ヘンリエッタ将軍。あんたが直々に来るとはな」
「ごきげんよう、レオン。あなたもご苦労様です」
ヘンリエッタと呼ばれた女性は、レオンに軽く視線を向けた後、俺の方へと歩み寄ってきた。
彼女の足取りは羽のように軽く、隙がない。
「あなたがルカ様ですね。帝国の内情が混乱しており、ご迷惑をおかけしました。わたくしは、あなた方の安全を保障し、有益な軍事情報を提供したいと考えております」
甘く、耳障りの良い言葉。
彼女は俺の信頼を得ようと、帝国の部隊配置やザルバの次の動きについて語り始めた。
だが、俺の腕の中にいるシルヴィの様子がおかしい。
普段なら他者に対して極めて傲慢な態度をとるはずのシルヴィが、毛を逆立てて俺の背後に隠れようとしているのだ。
「……ルカ、この女は駄目だ。底知れぬ冷たい泥のような匂いがする」
シルヴィは小さな声で唸り、俺の服の裾を強く掴んだ。
彼女の裏に隠された冷酷さと、他者をチェスの駒としか見ていない野心を、本能的に察知したのだろう。
俺はシルヴィの震える背中をそっと撫で、ヘンリエッタに向き直った。
「申し訳ありませんが、支援は必要ありません。お引き取りください」
丁重に、しかしきっぱりと断る。
ヘンリエッタの言葉を鵜呑みにすれば、間違いなく俺たちは利用され、この穏やかな居場所を奪われる。
俺の拒絶を聞いても、ヘンリエッタは微笑みを崩さなかった。
「そうですか。それはとても残念です」
彼女は踵を返し、馬車へと向かう。
扉に手をかけたところで、一度だけ振り返った。
「後悔なさらないように。世界は、あなた方が思っているほど優しくはありませんわ」
馬車が去っていくのを見送り、俺は深く息を吐き出した。
あばら家に戻り、冷えた体を休める。
シルヴィは安心したように俺の膝の上で丸まり、静かな寝息を立て始めた。
俺は机の上に広げたままだったオズワルドの手紙に、再び視線を落とす。
『古代の隠蔽魔法陣の痕跡について追調査を行った結果、奇妙な事実が判明した。あの卵は置き去りにされたわけではない。何かから、意図的に隠されていた形跡がある』
その続きの文章が、目に飛び込んできた。
『そして、なぜ君のもとで孵化したのか。竜神の孵化条件は、膨大な魔力でも、高貴な血筋でもない。数千年間、卵の中で孤独に耐え続けた竜神の魂と、同じく孤独を知る者の純粋な愛情が共鳴すること。それこそが、絶対条件だったのだと私は推測している』
文字をなぞりながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。
シルヴィが俺を選んだ理由。
それは、俺が特別な力を持っていたからでも、古代の血を引いていたからでもない。
村の隅で誰からも必要とされず、ただ息を潜めて生きてきた俺の孤独と、卵の中で待ち続けたシルヴィの孤独が、互いを呼び合ったのだ。
打算のない無償の優しさだけが、厚い殻を破る鍵だった。
「……ずっと、一人で待ってたんだな」
眠るシルヴィの頭を撫でると、彼女は気持ちよさそうに喉を鳴らした。
この小さな家族を守り抜く。その決意が、より一層強固なものとして胸に刻まれる。
静寂に包まれた部屋の入り口に、レオンが腕を組んで立っていた。
彼はいつもの飄々とした態度を消し去り、スパイとしての立場を忘れたかのような真剣な顔つきで、俺を見据える。
「ルカ。あの女には絶対に気をつけろ」
低く、押し殺したような声。
「ヘンリエッタは、目的のためなら味方ごと焼き払うような奴だ。ザルバよりも厄介かもしれないぞ」
彼の忠告に、俺は無言で頷いた。
世界中から狙われる日々は、まだ終わらない。
だが、膝の上にある確かな温もりを感じながら、俺はどんな敵が来ようとも退かないと心に誓っていた。




