第17話
黒い軍服の男が森の奥へと去ってから、俺は一睡もできずに夜を明かしていた。
彼が残した帝国の本格的な侵攻という警告は、重く冷たい石のように胸の奥に居座っている。世界を巻き込む巨大な脅威が目前まで迫っているという事実は、静寂の中でも確かな現実味を帯びて俺を苛み続けていた。
夜明け前の冷たい風が、隙間だらけのあばら家に吹き込んでくる。
俺は腕の中で丸くなっているシルヴィを見つめた。小さな体から伝わってくる確かな鼓動と温もりが、俺の心をわずかに落ち着かせてくれる。帝国が本気で俺たちを潰しに来るというのなら、この村を離れるべきなのかもしれない。誰も知らない遠い場所へ逃げれば、少しは平穏な日々が手に入るのだろうか。
だが、シルヴィは俺の服の裾を小さな爪でぎゅっと掴み、首を横に振った。
「ルカの膝の上がいい。私はここから動かないぞ」
金色の瞳が、真っ直ぐに俺を見上げている。
逃げ場など、どこにもないのかもしれない。世界中の権力者がこの小さな竜神を狙っている以上、どこへ行こうと同じことだ。ならば、ここで迎え撃つしかない。
「そうだな。ここは俺たちの家だ」
俺が静かに呟いた直後、森の入り口から枯れ枝を踏む足音が聞こえた。
去ったはずのディルクが、再び姿を現したのだ。
「貴殿らが逃げないというのなら」
彼は鋭い三白眼で俺たちを見据え、腰の剣に手を添えた。
「俺はザルバ宰相に反旗を翻す。帝国を敵に回そうとも、貴殿らの盾となろう」
その声には、武人としての揺るぎない覚悟が宿っていた。
「いいのか。帝国を裏切れば、あんたも命を狙われることになる」
俺が問いかけると、ディルクは短く鼻を鳴らした。
「帝国の軍事力は強大だ。正規軍が動けば、この村など一溜まりもないだろう。だが、無益な殺生は好まない。それに、貴殿らのような真の絆を持つ者を壊すのは、俺の誇りが許さないだけだ」
彼はあばら家の入り口に立ち、外の様子を警戒するように腕を組んだ。俺は小さく頷き、彼の決意を受け入れた。
◆ーーーー◆
翌日。
あばら家の周囲には、相変わらず各国の使者たちが遠巻きに様子を窺っていた。彼らは色とりどりの天幕を張り、莫大な富や権力をちらつかせては、隙あらばシルヴィに取り入ろうと画策している。
俺が少しでも外に出ようものなら、彼らの態度は滑稽なほどに一変する。
井戸へ水を汲みに行こうと桶を持っただけで、豪奢な服を着た使者たちが血相を変えて駆け寄ってくるのだ。
「ルカ様! そのような雑用、どうか私めにお申し付けください!」
「いや、我が国の特製果実水をご用意しております! どうかこちらを!」
彼らは互いを突き飛ばさんばかりの勢いで一斉に道を開け、深々と頭を下げる。少し前まで、村の連中から薄汚いガキと蔑まれていたのが嘘のような光景だ。差し出される珍しい魔石や異国の絹織物は、今やシルヴィの寝床のクッション代わりになっている。
そんな異様な喧騒の中、見慣れない男が村の広場を歩いてきた。
無精髭を生やし、軽傷の絶えない革鎧を着た男。彼は平伏する使者たちを鼻で笑いながら、迷いなく俺のあばら家へと近づいてくる。
「どいつもこいつも、腰抜けばかりだな。あんたが噂の親御さんか」
男は飄々とした態度で俺の前に立ち止まり、ニヤリと笑った。
「俺はバルト。しがない傭兵さ。ザルバの旦那から小竜を奪えって依頼されてね。だが、俺は命を無駄にする気はない。おとなしく奪われてくれるならそれでよし。もし噂通りの化け物なら、逆に帝国を裏切ってあんたらに恩を売るのも悪くない。さあ、どっちに転ぶか……手荒く試させてもらおうか」
バルトは損得勘定を隠そうともせず、無造作に手を伸ばしてきた。
力ずくで奪い取るつもりだ。
俺が身構えるより早く、膝の上にいたシルヴィが立ち上がった。
「貴様、私のルカに気安く触れるな」
愛らしい小竜の姿からは想像もつかない、極めて冷酷で尊大な声。
直後、シルヴィの小さな体から神話級の魔力が爆発的に膨れ上がった。
周囲の空気が凍りつき、地面がミシミシと悲鳴を上げてひび割れる。上空の雲が渦を巻き、息をするのすら困難なほどの重圧が、広場全体を押し潰した。
「ひっ……!」
遠巻きに見ていた各国の使者たちが、一斉に地面に這いつくばった。
圧倒的な恐怖と畏敬。彼らは震える手で最高級の織物や宝石箱を差し出し、額を地面に擦りつける。
「ど、どうかお怒りをお鎮めください、ルカ様!」
「あの愚か者は我々とは一切無関係です! 昨日お誓いした通り、我々は決して竜神様に逆らうつもりはございません!」
彼らはシルヴィの力を独占するどころか、俺の機嫌を損ねれば国ごと消し飛ぶと悟ったのだ。俺は図らずも、世界で最も丁重に扱われる存在となっていた。
バルトは冷や汗を滝のように流し、伸ばしかけた手をゆっくりと引っ込めた。
彼の顔からは先ほどの余裕が完全に消え失せている。死の恐怖を肌で感じ、傭兵としての直感が激しい警鐘を鳴らしたのだろう。
「おいおい、冗談だろ……」
彼は両手を高く挙げ、降参のポーズをとる。
「命あっての物種だ。こんな化け物相手に命張れるかよ。割に合わねえ」
即座に契約を破棄したバルトは、ふうと息を吐き出した。勝ち馬に乗るのが得意な彼にとって、ここで俺たちと敵対するのは明らかに計算違いだったのだ。
「あんた、面白いな。お詫び代わりにいい情報を置いていくぜ」
彼は周囲の使者たちを一瞥し、声を潜める。
「ディルクの旦那が警告した通り、ザルバの正規軍はもうこの村に向けて進軍を開始してる。ただの大軍じゃないぜ。神話級の竜を縛り上げるための『対竜魔導兵器』を最前線に配備してやがる。明日の夜明けには、ここを完全に包囲する手はずだ」
バルトはそれだけ言い残すと、足早に去っていった。
バルトの背中が見えなくなると、シルヴィは魔力を収め、再び俺の膝の上で丸くなった。
「ルカ、褒めていいぞ」
無邪気な声で甘えてくるシルヴィの頭を、俺はゆっくりと撫でる。
なぜ、この世界最強の存在が、俺のような孤児を選んだのか。
かつて、この小さな体は冷え切った石のような卵の中にあった。俺はみすぼらしいあばら家の中で、自分の体温を使って必死に温め続けた。
数千年間、誰の温もりも知らず、孤独に震えていた竜神の魂。
そして、親の顔も知らず、村の隅で誰からも必要とされずに生きてきた俺の孤独。
権力や富といった打算のない純粋な愛情と、無償の優しさ。二つの孤独な魂が深く共鳴したからこそ、シルヴィは俺の体温に応えて孵化したのだ。それが絶対条件だった。
俺たちは、互いの欠けた部分を埋め合わせるように結びついている。
「来るぞ」
入り口に立っていたディルクが、鋭い声で言った。
バルトが残した情報。ザルバの正規軍が、この村へ向けて進軍を開始した。
帝国という巨大な暴力が、俺たちの小さな居場所を完全にすり潰そうとしている。
迫り来る軍隊に対し、俺たちはどう立ち向かうのか。
俺は膝の上の温もりを抱きしめ、静かに立ち上がった。
「ああ。迎え撃とう」




