第16話
夜の闇に紛れ、少年のあばら家の窓に手をかける。
窓の立て付けは悪く、鍵すら掛かっていない。この無防備さが、かえって罠ではないかと疑いたくなるほどだ。
隙間風が容赦なく吹き込む薄暗い室内には、静かな寝息だけが響いている。
軋む床板の位置は、昼間の観察で完全に把握していた。壁伝いに足を進め、音もなく寝台へと近づく。
月明かりに照らされた少年の顔を見下ろした。
まだあどけなさの残る、どこにでもいるような普通の少年だ。この細い腕で、伝説の竜神を手懐けているとは到底信じられない。
無防備な寝顔。その胸元には、丸くなった小竜が張り付くようにして眠っている。
剣を抜き、少年の首筋へと冷たい刃を向けた。
任務は迅速に終わらせる。苦痛は与えない。それが、せめてもの武人の情けだった。
だが、切っ先が肌に触れる直前。
小竜の金色の瞳が、カッと見開かれた。
◆ーーーー◆
息苦しさに目を覚ますと、目の前に黒い軍服の男が立っていた。
鋭い刃が、俺の喉元に迫っている。
心臓が跳ね上がり、声を出そうとしたが、それよりも早く部屋の空気が凍りついた。
「貴様、私のルカに何をしている」
地を這うような、冷酷で尊大な声。
俺の胸の上にいたシルヴィが立ち上がり、男を睨みつけていた。普段の愛らしい姿からは想像もつかない、圧倒的な魔力の渦が部屋中を吹き荒れる。
男の顔が驚愕に歪み、直後にその巨体が床へと叩きつけられた。
見えない巨大な手で押し潰されているかのように、男は膝をつき、苦悶の表情を浮かべる。古い床板がミシミシと悲鳴を上げ、ひび割れていく。
「塵も残さず消し去ってくれる。ルカの視界を汚すな」
シルヴィの周囲で、空間そのものが歪み始めていた。神話級の力が、この狭いあばら家で解放されようとしている。
「やめろ、シルヴィ!」
俺は慌てて身を起こし、シルヴィの小さな体を両腕で抱き寄せた。
暴走しかけていた魔力が、ふっと霧散する。
「……ルカがそう言うなら、命だけは残しておいてやる」
シルヴィは不満げに鼻を鳴らしたが、すぐに俺の腕の中で甘えるようにすり寄ってきた。
俺は刃を向けられた恐怖で震える手を抑えながら、床で荒い息を吐く男を見下ろした。
「あんた、なぜこんなことをするんだ」
真っ直ぐに問いかけると、男はゆっくりと顔を上げた。
「俺はディルク。ザルバ帝国の軍人だ。貴殿を排除し、竜神を奪取するよう命じられていた」
硬く実直な声だった。嘘をついているようには見えない。
「でも、あんたは迷っていたんじゃないのか」
俺の言葉に、ディルクは鋭い三白眼をわずかに伏せた。
「……ああ。貴殿らがただの兵器と操り人形であれば、躊躇いなく斬れただろう。だが、貴殿らの間にあるのは、打算のない家族の絆だ」
彼は床に落ちた剣を拾い上げると、そのまま鞘に収め、俺の前に静かに置いた。
「無益な殺生は好まない。それに、お前たちのような存在を力で従わせようとする宰相のやり方は、間違っているのかもしれん」
武人としての誇りを感じさせる態度に、俺の警戒心も少しだけ和らいだ。
翌朝。
昨夜のシルヴィが放った魔力の余波は、村の周囲に野営していた各国の使者たちにも届いていたらしい。
あばら家の外に出ると、異様な光景が広がっていた。
各国の紋章を掲げた馬車が遠巻きに停まり、着飾った貴族や使者たちが、泥だらけになりながら地面に額を擦り付けている。
「昨夜の恐ろしい魔力の波動……我々への警告と受け取りました!」
「どうか、この愚かな者どもに慈悲を! 我々は決して竜神様に逆らうつもりはございません!」
彼らは俺の機嫌を損ねれば国ごと滅ぼされると本気で信じ込んでいるようだ。
「これはほんの気持ちです! 最高級の魔石と、南の国で採れた珍しい果実を!」
「我が国からは、王家伝来の宝剣と、金貨千枚を!」
次々と差し出される莫大な富と権力の象徴。
図らずも、俺は世界で最も丁重に扱われる存在になってしまっていた。
山のように積まれた貢物を前に、俺はため息をつく。
「私はルカの膝の上があれば、他には何もいらないのだがな」
シルヴィは使者たちには一切目もくれず、俺の腕の中で欠伸をしている。
権力者たちがどれほどすり寄ってきても、シルヴィにとって価値があるのは俺の温もりだけなのだ。
その様子を少し離れた場所から見ていたディルクが、静かに口を開いた。
「竜神がなぜ、力も権力も持たない貴殿を選んだのか。俺にも少し分かった気がする」
彼の言葉に、俺は首を傾げた。
「どういう意味だ?」
「竜神は数千年の間、冷たい卵の中でたった一人で過ごしてきたと聞く。そして貴殿もまた、この村で誰からも必要とされず、孤独に生きてきたのだろう」
ディルクの指摘に、胸の奥がチクリと痛んだ。
親の顔を知らず、家族の温もりを経験したことがない。普通の家族という言葉に、ずっと劣等感を抱いていた。
村の隅で虐げられ、誰にも見向きもされなかった日々。
そんな俺にとって、偶然拾った冷たい卵だけが唯一の心の拠り所だった。
自分の体温で温め続けたあの時間は、孤独な魂同士が寄り添うための儀式だったのかもしれない。
「帝国は圧倒的な武力で竜神を屈服させようとしているが、それは根本から間違っている。恐怖や力で縛り付けただけの関係など、真の危機が訪れた時には脆く崩れ去るものだ。貴殿らが持つような、互いを守り抜こうとする覚悟こそが、どんな強大な魔力よりも強靭な盾となるのだ」
ディルクの言葉が、すとんと胸に落ちる。
俺は腕の中のシルヴィを見つめた。
シルヴィもまた、金色の瞳で俺を見上げている。
「私はもう一人ではない。ルカが温めてくれたからだ」
無邪気な声が、俺の心に空いていた穴を優しく埋めていく。
俺も一人じゃない。自分を頼りにしてくれる、この小さな家族がいる。
俺はシルヴィを強く抱きしめ、ディルクに向き直った。
「俺は、シルヴィを道具や兵器として扱うことは絶対に許さない。誰に狙われようと、この居場所を守り抜く」
ディルクは短く頷き、踵を返した。
「俺は任務を放棄した。帝国を追われる身となるだろう」
彼は森の入り口で立ち止まり、肩越しに振り返る。
「だが、ザルバ宰相は諦めない。帝国は本気で貴殿らを潰しに来るぞ。備えておけ」
黒い軍服の背中が、木々の間へと消えていく。
帝国の本格的な侵攻。
世界を巻き込む巨大な脅威が迫っていることを、俺は肌で感じていた。




