第15話
夜の森。
俺は冷たい夜風の中、木々の隙間から標的のあばら家を見下ろしていた。
ザルバ宰相から下された密命は、少年の暗殺と竜神の奪取。
黒い軍服に身を包んだ俺の部下たちは、息を潜めて周囲の状況を警戒している。
だが、俺の部隊とは別に、手柄を焦る愚かな小国の私兵たちが先行して動いていた。
彼らは闇に紛れ、武器を片手に無防備な家屋へと忍び寄っていく。
「隊長、我々も続きますか。あの連中に竜神を奪われては、宰相閣下に顔向けできません」
部下の焦るような問いに、俺は短く首を振った。
「待機だ。竜神の力を侮るな。まずは奴らの手並みと、標的の隙を観察する」
無益な殺生は好まない。武人としての誇りに懸けて、寝込みを襲うような真似は避けたかった。
だが、任務は完遂せねばならない。
俺は鋭い三白眼を細め、眼下で繰り広げられるであろう惨劇を静かに見守ることにした。
あの少年が、いかにして竜神を従えているのか。その真価を見極める必要があった。
月が雲に隠れ、森が完全な闇に沈む。
私兵たちは足音を殺し、あばら家の扉へと手をかけた。
その瞬間、空気が凍りついたような錯覚を覚えた。
ただの魔力ではない。次元そのものが歪むような、圧倒的なプレッシャー。
俺は思わず息を呑み、木々の枝を強く握りしめた。
◆ーーーー◆
深夜。
不自然な足音で目が覚めた。
軋む扉が乱暴に蹴り破られ、黒ずくめの男たちが雪崩れ込んでくる。
手には鋭い刃が握られ、月明かりに鈍く光っていた。
「小僧、命が惜しければその膝の上の化け物を渡せ。我らが主のために役立ててやる」
男の一人が下劣な笑みを浮かべて言い放つ。
俺はとっさにシルヴィを庇うように抱きしめた。
だが、俺の腕の中で眠っていたはずの小さな体は、すでに静かな怒りで震えていた。
「貴様らのような塵芥が、ルカの眠りを妨げたのか」
冷酷で、絶対的な零度を伴う声。
次の瞬間、シルヴィの周囲の空間が歪んだ。
男たちが悲鳴を上げる間もなかった。
目に見えない巨大な圧力が放たれ、侵入者たちは文字通り壁ごと吹き飛ばされたのだ。
あばら家の壁が紙屑のように弾け飛び、男たちは森の奥深くへと叩きつけられ、二度と動かなくなった。
神話級の圧倒的な蹂躙。
「ルカ、怪我はないか? こいつらは私がすべて排除するから、安心して眠るといい」
振り返ったシルヴィは、さっきまでの冷酷さが嘘のように、無邪気な声で俺の胸にすり寄ってくる。
俺は震える手で、そのもふもふとした背中を撫でた。
「ああ、平気だ。お前が無事なら、それでいい」
俺はシルヴィを道具や兵器として扱う連中を絶対に許さない。
だが、シルヴィが俺を守るために見せる力は、あまりにも強大すぎた。
翌朝。
吹き飛んだ壁の隙間から差し込む朝日で目を覚ますと、外の様子が一変していた。
あばら家の周囲にテントを張っていた各国の使者たちが、昨夜の惨状を見て顔面蒼白になっていたのだ。
俺が外に出た途端、豪華な衣装を着た使者たちが一斉に地面に這いつくばった。
「ルカ様! 本日は素晴らしいお天気でございますね!」
「どうか、我々の国が用意した最高級の果実をお召し上がりください!」
「壁の修繕は我が国の誇る大工にすべてお任せを!」
誰もが恐怖と畏敬の入り混じった視線を俺に向けている。
シルヴィの機嫌を損ねれば、国が一つ消し飛ぶと理解したのだろう。
図らずも、俺は世界で最も丁重に扱われる存在になってしまったらしい。
「あんた、すっかり偉くなったわね」
呆れたような声がして振り返ると、ニナが腕を組んで立っていた。
使者たちはニナが近づくのを見るや否や、慌てて道を空けて平伏している。
「俺が偉くなったわけじゃない。こいつの力に怯えてるだけだ」
俺が苦笑すると、ニナは肩をすくめた。
「まあ、あんたが元気ならいいわ。村の連中も、もう誰もあんたに手出ししようなんて思ってないみたいだし」
ニナの言葉に、少しだけ胸の奥が軽くなる。
同じような孤独を知る彼女が、こうして普通に接してくれることが救いだった。
「その通り。彼らはようやく、君たちという『不可侵の家族』の恐ろしさを理解したのだよ」
背後から声がして、オズワルドが歩いてきた。
彼は吹き飛んだ壁の残骸を興味深そうに観察している。
「昨夜の騒ぎは聞いていたが、見事なものだ。だが、私が驚いているのは竜神の力そのものではない」
オズワルドは真剣な眼差しを俺に向けた。
「なぜ、この小さな竜神が君を選んだのか。その理由が、ようやく確信に変わったのだ」
俺は息を呑み、膝の上で丸くなっているシルヴィを見つめた。
「数千年の間、あの卵は冷たい闇の中で孤独だった。過去の権力者たちは、莫大な魔力や富を使って無理やり孵化させようとしたが、すべて失敗に終わった」
オズワルドはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「必要なのは、力でも権力でもなかった。親に見捨てられ、誰からも必要とされなかった君の純粋な愛情。そして、無償の優しさだ。孤独な魂同士が共鳴したことこそが、孵化の絶対条件だったのだよ」
俺の温もりが、数千年の孤独を溶かした。
その事実が、胸の奥に熱い塊となって広がっていく。
「私は、ルカの膝の上が一番好きだ。ここが私の居場所だ」
シルヴィが俺の指先にすり寄りながら、甘えるように鳴いた。
俺はシルヴィをそっと抱き上げ、その温もりを確かめるように抱きしめる。
「俺もだ。お前は、俺のたった一人の家族だ」
誰にも脅かされることのない、穏やかで温かい居場所。
俺たちはもう、絶対に一人じゃない。
◆ーーーー◆
遠く離れた森の木の上から、俺はその光景を静かに見つめていた。
昨夜の圧倒的な蹂躙。
そして今朝の、各国の使者たちが平伏する異様な光景。
だが、俺の目を最も惹きつけたのは、少年と竜神が寄り添う姿だった。
弱者でありながら、神話級の存在と心を通わせる少年。
彼が竜神に向ける眼差しには、権力者たちが持つような打算や欲望が一切なかった。
ただ純粋に、家族を慈しむような無償の愛情。
その在り方に、俺の武人としての心が微かに揺さぶられるのを感じた。
「隊長、いかがなさいますか。標的は完全に油断しておりますが」
部下の声に、俺は我に返った。
敬意を抱いたところで、俺は帝国の軍人だ。
ザルバ宰相の命令は絶対であり、任務を放棄することは許されない。
「……夜を待つ」
俺は短く告げ、剣の柄を固く握りしめた。
無益な殺生は好まない。だが、あの少年と竜神の絆を断ち切らねば、帝国に未来はない。
日が落ち、森が深い闇に包まれる頃。
俺は意を決し、音もなく木を飛び降りた。
気配を完全に殺し、夜の闇に紛れて少年のあばら家へと忍び込む。
彼らがどれほどの絆で結ばれていようと、俺は俺の責務を果たすだけだ。




