第13話
伸ばしかけた手を下ろし、俺は床に膝をついた。
シルヴィは小さな体をさらに縮こまらせ、部屋の隅で震えている。周囲の空気がひどく重い。いつもならあばら家を満たしているはずの、穏やかで温かい魔力が、今は無理やり押し込められているようだった。
「シルヴィ……」
声をかけると、びくっと肩が跳ねる。
顔を伏せたまま、シルヴィは苦しそうに息を吐き出した。
『ルカ……私、いい子、だから……』
頭の中に、途切れ途切れの思念が響く。
それは言葉というより、感情の塊だった。
シルヴィは自分の強大すぎる力を、必死に内側に閉じ込めようとしている。俺に恐れられないように。俺に嫌われないように。
そのせいで、本来の生命力まで削り取られているように見えた。
『こわく、ない……だから、捨てないで……』
胸の奥が締め付けられる。
使者の心無い言葉が、シルヴィの心にどれほどの傷を負わせたのか。
俺は自分の無力さを呪った。どうすれば、この小さな家族の不安を取り除けるのか。言葉を尽くしても、今のシルヴィには届かない気がした。
「おや、どうしたね君たち。ひどく空気が重いが」
入り口の戸が開き、ボサボサの白髪頭が覗いた。
古びたローブを着たオズワルドだった。手には分厚い書物を抱え、ずかずかと土足で上がり込んでくる。
「オズワルド……今はちょっと」
俺が制止しようとしたが、学者の目は俺の胸元に釘付けになっていた。
「君、その首から下げているもの……ちょっと見せてくれないか」
オズワルドは俺の返事も待たず、ずいっと顔を近づけてきた。
俺の胸元には、親の顔も知らない俺に残された唯一の形見がある。くすんだ石がはめ込まれただけの、古ぼけたペンダントだ。
今はなぜか、その石が淡い光を放ち、微かに熱を持っていた。
「やはりそうだ。驚いたな。ただの古い石かと思っていたが、これは『竜語石』の欠片だよ」
「りゅうごせき?」
「竜の思念を人間の言葉に翻訳し、魂の波長を繋ぐ古代の遺物だ。君の先祖である古代の竜騎士たちが、竜との意思疎通に使っていたとされる代物だよ」
オズワルドは興奮気味に早口でまくしたてる。
俺はペンダントを手のひらで包み込んだ。
石の熱が、じわじわと肌に伝わってくる。
「これを使えば、シルヴィの本当の心が分かるのか?」
「波長を合わせれば、より深い思念の交信が可能になるはずだ。だが、強大な竜神の精神に触れるのは危険を伴う。君の精神が押し潰されるかもしれないぞ」
オズワルドの忠告を背に受けながら、俺は再びシルヴィに向き直った。
部屋の隅で震える小さな背中。
俺が恐れるものなんて、何もない。一番怖いのは、シルヴィが俺から離れていってしまうことだ。
俺はペンダントを強く握りしめ、目を閉じた。
意識を石の熱に集中させる。
すると、頭の中に流れ込んでくる思念が、より明確な声となって響き始めた。
『嫌われたくない。捨てないで』
それは、切実で、ひどく怯えた声だった。
『また、あの暗くて冷たい殻の中に戻るのは嫌だ。ずっと、ずっと一人だった。誰も私を呼んでくれなかった』
流れ込んでくる記憶の奔流。
果てしない時間。光の届かない深い闇の中。
数千年間、卵の中でたった一匹で過ごしてきた、途方もない孤独。
誰の温もりも知らず、ただ息を潜めて待ち続けるだけの永遠。
『ルカが、私を見つけてくれた。温めてくれた。だから、私は……』
シルヴィの恐れは、俺自身の恐れと同じだった。
村の片隅で誰からも必要とされず、ただ一人で生きてきた俺。
この卵を見つけたとき、俺は自分と同じ匂いを感じたのだ。
見捨てられ、冷え切って、誰にも見向きもされない存在。
「シルヴィ」
俺は目を開け、部屋の隅でうずくまる小竜に向かって一歩を踏み出した。
『こないで……私、化け物だから。ルカを、傷つけちゃうから……』
「違う」
俺は躊躇わず、さらに距離を詰める。
シルヴィが後ずさろうとするより早く、俺はその小さな体を両腕でしっかりと抱きしめた。
『ルカ……?』
「お前は化け物なんかじゃない。俺の大切な家族だ」
腕の中で、シルヴィの体がびくっと硬直する。
無理やり抑え込まれていた魔力が、行き場を失って暴走しそうになるのを感じた。だが、俺は構わず抱きしめる力を強めた。
「お前がどんなに強くても、周りがどう言おうと関係ない。俺はお前を手放さない。絶対に一人にはしない」
ペンダントを通じて、俺の思いを真っ直ぐに叩きつける。
お前が俺を必要としてくれるように、俺もお前を必要としているんだと。
『ほんとう、に……?』
「ああ。俺の膝の上は、ずっとお前の特等席だ」
その瞬間、シルヴィの体から溢れ出そうになっていた刺々しい魔力が、ふっと形を変えた。
冷たく重かった空気が、春の陽だまりのような温かい光に変わる。
ぺちゃんこになっていた毛並みが、ふわりと膨らんだ。
『ルカ……ルカぁ……!』
シルヴィは俺の胸に顔を擦り付け、小さな爪で俺の服をぎゅっと掴んだ。
温かい涙のようなものが、俺のシャツを濡らしていく。
俺はシルヴィの背中を、ゆっくりと撫で続けた。
「なるほど……そういうことだったのか」
背後で、オズワルドが感嘆の溜め息を漏らした。
「数千年の孤独を抱えた竜神の魂。そして、親を知らずに育った君の無償の愛情。その二つの孤独な魂が共鳴したからこそ、孵化の絶対条件が満たされたというわけか」
学者の言葉が、静かな部屋に響く。
力や権力、莫大な富。そんなものでは決して開かなかった殻。
ただ、互いの孤独を埋め合わせるような純粋な思いだけが、奇跡を起こしたのだ。
「君たちは、魂の根源で結びついている。だからこそ、竜神は君を『親』として選び、これほどまでに執着するのだろう」
オズワルドは満足そうに頷き、持ってきた書物を小脇に抱え直した。
「邪魔をしたね。私はもう少し、古代の文献を洗ってくるよ」
空気を読まない学者は、珍しく気を利かせたのか、足早にあばら家を出て行った。
部屋には、俺とシルヴィだけが残された。
腕の中の小さな温もりは、もう震えていない。
シルヴィは俺の胸にすり寄ったまま、安心したように目を閉じている。
『ルカ、あったかい……』
「お前もな」
俺たちは、もう二度と離れない。
見えない壁は完全に消え去り、確かな絆の手応えだけが残っていた。
◆ーーーー◆
あばら家から遠く離れた、深い森の奥。
木々の隙間から差し込む月明かりが、冷たい金属の輝きを照らし出していた。
「……報告通り、あの小竜が竜神であることは間違いないようだな」
低い声が、闇の中に溶け込む。
黒い外套に身を包んだ人影が、双眼鏡のような魔道具を下ろした。
その視線の先には、穏やかな光に包まれたルカのあばら家がある。
「使者どもの小細工は失敗に終わったか。やはり、生半可な手段ではあの二人の結びつきは壊せん」
人影は冷たく笑い、外套の奥で何かを弄った。
カチャリ、と無機質な音が鳴る。
「だが、弱点がないわけではない。あの少年……ルカとか言ったか。あれさえ排除すれば、竜神は我らの手に落ちる」
森の木々が、不吉な風に揺れてざわめいた。
平和を取り戻したかに見えた村のすぐそばまで、新たな悪意が忍び寄っている。
冷徹な視線は、獲物を狙う獣のように、あばら家をじっと見据え続けていた。




