第12話
ザルバ帝国の大部隊が手も足も出ずに敗走したという事実は、瞬く間に世界中を駆け巡った。
武力による強奪が不可能だと証明された今、各国の権力者たちが切ってきた新たな手札。それは、あまりにも極端なものだった。
「ルカ様! どうか我が国の特産である星屑の絹織物をお納めください!」
「いいえ、ルカ様! こちらの千年氷の魔石こそ、お部屋の空調に最適でございます!」
村の外れにある隙間風だらけのあばら家。その前に、見たこともないほど豪華な馬車が長蛇の列を作っていた。
きらびやかな衣装を身にまとった使者たちが、泥にまみれることも厭わず、地面に額を擦りつけるようにして貢物を差し出してくる。彼らの目には、明確な恐怖と畏敬の色が浮かんでいた。
ザルバの二の舞になりたくない。竜神の機嫌を損ねれば、国が地図から消え去る。その切実な思いが、俺というただの孤児を「世界で最も丁重に扱うべき存在」へと押し上げていた。
「順番を守れ! 閣下だろうが王族だろうが関係ない、今は面会時間外だ!」
あばら家の入り口で、レオンが声を張り上げている。彼は片手で使者たちを制止しながら、もう片方の手で小瓶から胃薬を取り出し、水もなしに飲み込んでいた。
俺はそっと窓から離れ、部屋の隅に積まれた宝物の山を振り返る。
金貨の詰まった袋、眩い光を放つ宝石、王族しか口にできないという珍味の数々。湿って冷たかった藁の床は、今や最高級の絨毯で覆い尽くされている。
「こんなの、俺にはもったいないよ……」
ため息をつきながら、絨毯の上に座り込む。
孤児として村の隅で虐げられてきた俺が、こんな贅沢をしてもいいのだろうか。親の顔すら知らない薄汚れた少年に、これほどの価値があるはずがない。
膝の上では、シルヴィが使者から献上された最高級の魔獣肉をむしゃむしゃと頬張っていた。
「ルカ、これ美味しいぞ! 貴様ら、もっと持ってこい!」
シルヴィは口の周りを汚しながら、外に向かって尊大な声を上げる。
「いや、もう十分だから。お前がいっぱい食べな」
俺は苦笑しながら、シルヴィの口元を布で拭ってやった。シルヴィは嬉しそうに目を細め、俺の手のひらにすり寄ってくる。
その無邪気な温もりに触れると、胸の奥にあった劣等感が少しだけ和らいだ。俺がどうであれ、シルヴィが満足しているならそれでいい。
「勘弁してくれ……」
重い足取りで、レオンが部屋に戻ってきた。少し着崩した制服は皺だらけで、目の下には濃い隈ができている。
「どこの国も必死すぎる。あんたの機嫌を少しでも損ねたら、明日には自国の首都が火の海になるって本気で信じ込んでるんだ」
「俺はそんなこと望んでないのに」
「分かってるさ。だが、連中にとっては竜神の力がすべてだ。あんたは今、世界で一番怒らせてはいけない人間なんだよ」
レオンはドカッと木箱の上に腰を下ろし、深く息を吐き出した。
「少し休憩する。外の連中には一時間待てと言ってあるから、その間は静かになるはずだ」
そう言って、レオンは目を閉じた。
俺も少し外の空気を吸おうと思い、立ち上がる。
「シルヴィ、ちょっと裏の井戸まで水を汲みに行ってくる」
「私も行く!」
「すぐ戻るから、ここで待っててくれ。そのお肉、まだ残ってるだろ」
シルヴィは少し不満そうに鼻を鳴らしたが、肉の塊に視線を戻して大人しく頷いた。
俺が部屋を出て裏口へ向かった、そのわずかな隙だった。
窓の隙間から、一人の使者が音もなく顔を覗かせた。レオンの目を盗み、裏手に回り込んでいたらしい。
男は室内を見回し、俺がいないことを確認すると、シルヴィに向かって恭しく頭を下げた。
「偉大なる竜神様。どうか、我が国の声をお聞きください」
シルヴィは肉を食べる手を止め、冷酷な目で男を睨みつけた。
「失せろ。私はルカのそばにしかいない。貴様らのガラクタに興味はない」
その声には、周囲の空気を凍りつかせるほどの威圧感が込められていた。
男は顔を青ざめさせながらも、必死に言葉を紡ぐ。
「お待ちください。あのようなみすぼらしい少年が、あなた様の親にふさわしいとお思いですか?」
「なんだと?」
シルヴィの周囲で、魔力が危険な音を立てて渦を巻き始める。
男は後ずさりしながら、懐から一枚の鏡を取り出した。
「あなた様は、ご自身の真の力をご存知ない。世界を滅ぼすほどの強大な力を持つあなた様を、あの少年が心から受け入れていると? いえ、違います」
男の声が、蛇のように室内に滑り込む。
「彼は、あなた様の強すぎる力を恐れているのです。今は機嫌を取っているだけ。いつか必ず、あなた様を手に負えない化け物として拒絶し、見捨てる日が来ますぞ」
ピタリと、シルヴィの動きが止まった。
渦巻いていた魔力が霧散し、もふもふとした毛並みが微かに震える。
「ルカが、私を……恐れている?」
「ええ。あのような孤児に、竜神様を御せるはずがないのです。どうか、我が国へ——」
「黙れッ!」
シルヴィが短く吠えると、見えない衝撃波が窓枠を吹き飛ばした。男は悲鳴を上げて吹き飛び、草むらを転がって逃げ去っていく。
静寂が戻った室内で、シルヴィは一人、ぽつんと立ち尽くしていた。
男の残した言葉が、呪いのように頭の中で反響している。
『彼は、あなた様の強すぎる力を恐れているのです』
シルヴィは自分の小さな前足を見つめた。この体の中には、世界を焼き尽くすほどの力が眠っている。もし、その力がルカを傷つけてしまったら。もし、ルカが自分を化け物だと恐れ、温もりを与えてくれなくなったら。
背筋が凍るような恐怖が、シルヴィの小さな体を支配した。
「ただいま。なんか外で大きな音がしたけど、大丈夫か?」
裏口から、俺が水桶を抱えて戻ってくる。
シルヴィはビクッと肩を震わせ、俺の方を振り向いた。
「シルヴィ? どうしたんだ、そんな部屋の隅で」
俺は水桶を置き、いつものように両手を広げた。いつもなら、弾かれたように飛び込んでくるはずだ。
だが、シルヴィは動かなかった。
それどころか、俺の視線を避けるように顔を伏せ、じりじりと後ずさりをする。
「……なんでも、ない」
その声はひどく小さく、震えていた。
周囲の魔力は不自然なほどに抑え込まれ、いつもはふっくらとしている毛並みも、今はしぼんだようにぺちゃんこになっている。
「おい、本当にどうしたんだよ。どこか痛いのか?」
俺が心配になって一歩近づくと、シルヴィはさらに二歩下がった。
「こっちに、来ないで……」
拒絶の言葉に、俺の足が止まる。
シルヴィは部屋の隅で小さく丸まり、自分の尻尾を抱え込むようにして震えていた。
その姿は、まるで捨てられることを恐れる怯えた子供のようだった。
俺は伸ばしかけた手を宙で止め、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
何が起きたのか分からない。だが、シルヴィの小さな背中が、俺たちの間に見えない壁を作り出していることだけは確かだった。




