第11話
突如として響いた無数の足音に、俺は弾かれたように顔を上げた。
あばら家の薄い壁がビリビリと震え、天井からパラパラと土埃が落ちてくる。俺は膝の上で丸くなっていた小さな体を抱き寄せ、窓の隙間から外を覗き込んだ。
村の広場を埋め尽くすほどの、黒鋼の鎧を着込んだ兵士たち。その中心には、金と真紅の装飾が施された豪奢な馬車が停まっていた。
逃げ惑う村人たちの悲鳴が遠ざかっていく中、馬車の扉が重々しい音を立てて開く。
降り立ったのは、豪奢な外套を羽織った初老の男だった。冷酷な光を宿した眼差しが、一直線にこのあばら家を射抜いている。
「出てこい、孤児の小僧」
よく通る、高圧的な声だった。
俺は息を呑み、膝の上のぬくもりを確かめる。もふもふとした毛並みが、俺の不安を吸い取るように微かに膨らんだ。
「大丈夫だ。俺が守るから」
小さく呟き、俺はゆっくりと扉を開けた。
外に出ると、冷たい風が頬を打つ。完全武装の兵士たちが幾重にも取り囲む中、男は俺を見下ろすように顎を上げた。
「私がザルバ帝国の宰相、ザルバだ。直々に赴いてやった光栄に咽び泣くがいい」
男が指を鳴らすと、背後の兵士たちが重そうな木箱をいくつも運び出してきた。蓋が開けられると、眩いばかりの金貨が山のように詰まっている。さらに、羊皮紙の束が俺の足元に投げ捨てられた。
「帝国の貴族位と、一生遊んで暮らせるだけの財産だ。さあ、その膝に抱えている竜神を渡せ。お前のような薄汚いガキには、到底扱いきれる代物ではない」
ザルバは勝ち誇ったように口角を上げる。金と権力さえあれば、世界中のすべてが自分の思い通りになると信じて疑わない顔だった。
俺は足元に転がる羊皮紙を一瞥し、ゆっくりと首を振る。
「断る」
「……なんだと?」
「あんたの権力なんて、ここでは何の意味もない。この子は、どんな大金を積まれても絶対に渡さない」
静まり返った広場に、俺の声が響いた。
ザルバの顔から、余裕の笑みがスッと消え去る。代わりに浮かび上がったのは、プライドを泥で塗られたような激しい怒りだった。
「身の程を知れ、ゴミ屑が。私が誰だか分かって言っているのか!」
ザルバの怒号と共に、周囲の兵士たちが一斉に武器を構えた。
「交渉は終わりだ。実力で奪い取れ! その小僧の命はどうでもいい!」
命令が下された瞬間、あばら家を取り囲むように、地面に巨大な赤い魔法陣が浮かび上がった。空気が重くなり、息をするのすら苦しくなる。
拘束魔法陣。それも、俺のような素人目にも分かるほど、桁違いの魔力が込められている。
足がすくみ、胃の奥が冷たくなるような恐怖が押し寄せてきた。それでも、俺は一歩も引かなかった。両腕に力を込め、小さな家族を胸に抱きしめる。
「ルカ」
不意に、腕の中から鈴を転がすような声が響いた。
俺の胸に顔を埋めていた小さな竜が、ゆっくりと顔を上げる。その金色の瞳が、俺を見つめて細められた。
「ルカは、下がっていて」
次の瞬間、腕の中からふわりと抜け出した小さな体が、俺の前に降り立った。
手のひらサイズの愛らしい姿。しかし、その背中から放たれる気配は、先ほどまでの甘えん坊な様子とは完全に別物だった。
「貴様ら」
地を這うような、絶対的な冷酷さを孕んだ声。
シルヴィがザルバたちを睨みつけた瞬間、周囲の空気が凍りついたように静まり返った。
「私の特等席を脅かすゴミ屑どもが。ルカの居場所を荒らすことは、万死に値する」
「たかが生まれたばかりの小竜が、吠えるな! 魔法陣を起動しろ!」
ザルバが叫び、兵士たちが一斉に魔力を練り上げる。赤い魔法陣が眩い光を放ち、無数の光の鎖がシルヴィに向かって襲いかかった。
だが、シルヴィは避ける素振りすら見せない。
ただ小さく息を吸い込み、口を開いた。
放たれたのは、純白の光の奔流だった。
音すらなかった。
光のブレスが触れた瞬間、強固なはずの光の鎖はガラスのように砕け散り、地面に描かれた魔法陣は跡形もなく消し飛んだ。
それだけではない。
奔流は真っ直ぐに帝国兵の陣形を突き抜け、彼らが構えていた黒鋼の盾や槍を、まるで飴細工のようにドロドロに溶かしてしまったのだ。
「なっ……!?」
ザルバが悲鳴のような声を上げる。
圧倒的な力の差。それは戦いと呼べるようなものではなかった。ただの蹂躙だ。
シルヴィはゆっくりと宙に浮かび上がり、恐怖に顔を引きつらせるザルバを見下ろした。
「身の程を知るのは貴様の方だ、哀れな老人」
「ひっ……!」
「ルカに危害を加えようとした罪、本来なら塵も残さず消し去るところだが。ルカが血を見るのを好まないゆえ、命だけは助けてやる」
シルヴィの周囲に、再び純白の魔力が渦を巻き始める。
「二度とルカに近づくな。消えろ」
放たれた圧倒的な覇気に当てられ、ザルバは腰を抜かして地面にへたり込んだ。
「ば、化け物め……! 退け! 全軍、ただちに撤退しろ!」
威厳も何もあったものではない。ザルバは這うようにして馬車に転がり込み、御者に怒鳴り散らした。
武装を失い、戦意を完全に喪失した帝国兵たちが、我先にと村から逃げ出していく。
地響きのような足音が遠ざかり、やがて村には元の静寂が戻ってきた。
俺は張り詰めていた糸が切れ、へなへなと地面に座り込んだ。
「ルカ!」
空中に浮かんでいたシルヴィが、慌てた様子で飛んできた。そのまま俺の胸に飛び込み、もふもふの頭をすり寄せてくる。
「怪我はない? 怖かった? 私、ルカを守れた?」
先ほどの冷酷な姿が嘘のように、無邪気で甘えた声だった。
俺は震える手で、その小さな背中を撫でる。
「ああ。お前のおかげで助かった。お前はすごいな」
「えへへ、ルカに褒められた!」
シルヴィは嬉しそうに尻尾を振り、俺の膝の上で丸くなった。ここが自分だけの特等席だと主張するように。
俺は深く息を吐き出し、遠ざかっていった帝国の軍勢が消えた方角を見つめた。
これで終わったわけではないだろう。だが、俺たちには互いを守り抜く絆がある。それだけが、今の俺にとっての確かな希望だった。
◆ーーーー◆
村から少し離れた、鬱蒼と茂る森の木陰。
そこには、村の広場での一部始終を静かに見つめていた青年の姿があった。
レオンは手元にある小型の通信魔道具を起動し、淡く光る水晶に向かって口を開く。
「ええ、報告の通りです。ザルバ帝国の宰相が自ら大部隊を率いて強奪を試みましたが……結果は惨敗。手も足も出ずに敗走しました」
水晶の向こう側から、微かなざわめきが聞こえてくる。
「はい。竜神の力は、我々の想定を遥かに超えています。あの力ずくのやり方では、到底従わせることは不可能でしょう」
レオンは口元に薄い笑みを浮かべ、あばら家の方角へと視線を向けた。
「ザルバの無様な敗北は、すぐに世界中に知れ渡るはずです。各国の動きも、これで大きく変わるでしょうね」
通信を切り、レオンは魔道具を懐にしまう。
武力による強奪が不可能だと証明された今、他国はあの少年と竜神に対して、どのような手札を切ってくるのか。
世界最強の力を巡る盤面は、新たな局面へと突入しようとしていた。




