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旅装の令嬢

ヴァルハイト公爵家の朝は、一枚の布地から始まる。

「ミトお嬢様。本日の出立に合わせ、東方の高名な仕立て屋から献上された最高級の絹ドレスにございます。金糸の密度、魔導刺繍の精度、どれをとっても今期最高の一品かと」

老家令グレーバーがうやうやしく掲げたドレスを、十九歳のミト・フォン・ヴァルハイトは手にしていた扇の先で小さく弾いた。ぱちん、と閉じる音が静かな室内に響く。

「……お下げなさい、グレーバー。それはただの『高いゴミ』ですわ」

「お嬢様?」

「金糸の密度は確かに見事。ですが、その糸を引いた職人の指が焦っていたのでしょうね。三箇所、糸の撚りがわずかに甘い部分がありますわ。それに魔導刺繍の魔素コーティング――上等な硝子細工に見せかけていますが、これはただの水晶粉ですわね。幾月もせぬうちに、輝きが濁りますわ」

ミトは旅装の上着を羽織りながら、つん、と顎を上げた。一針一針に息を呑むほどの仕立てが込められているが、飾り気は極限まで抑えられた、機能的な旅の装い。

「わたくしは、十二歳の折のあの試練を忘れてはおりませんのよ。父様に『価値のない一万金』と『価値のある一銅』を見分けさせられ、三日三晩、目利きを叩き込まれた、あの地下倉庫の日々を。派手な装飾で人目を惑わせようとするものは、その中身が空疎だと自白しているようなものですわ」

「……さすがは、我が家の正統なる継承者。値札の裏を見抜く目、恐れ入ります」

グレーバーは深く頭を下げた。その姿を、向かいの席で分厚い法典から顔も上げずに眺めていた青年が、淡々と書面をめくりながら引き取る。

「結構なことですね、ミト。その目が確かであるうちに、世界を回っておくのは合理的だ。書物の中の制度や法が、実際の宮廷でどれほど『お化粧』されているか、この足で確かめる必要がある」

ロウ・タハライト。若くして法と統治の理に通じた、ヴァルハイト家お抱えの論客であり、ミトの婚約者である。議論が始まれば止まらず、相手の詭弁を一片も見逃さない、冷徹な数字の男だ。

ヴァルハイト公爵家。建国の元勲にして、世界最大級の財閥を束ねる名家。その唯一の継承者であるミトと、伴侶となるロウは三年後に結婚式を控えていた。出立の朝、親族一同を前にミトは言い放った。『世界の上流社会とやらが果たして、わたくしたちヴァルハイトの価値に値するものなのか、見極めてまいりますわ』

親族はそろって卒倒しかけたが、二人の決意は揺るがなかった。こうして側近のカクとスケを伴い、豪奢な馬車は世界を巡る旅へと出立したのである。

――もっとも、その旅で集める「書類」と「記録」が、いつか本国を揺るがす最大の武器になるとは、このときの二人はまだ、思ってもみなかった。

* * *

薔薇の香りは、国境を越えるよりも先に二人を出迎えた。

街道の果て、夕陽を弾いて白亜の尖塔が立ちのぼっている。その壁面という壁面に磨き上げられた鏡が嵌め込まれ、傾いた陽光を幾重にも跳ね返していた。庭園を埋め尽くす薔薇と、宮殿を覆う鏡細工。世に名高い「薔薇と鏡の国」ロサリス王国は、その二つによって、大陸じゅうの社交界から「最も美しい国」と謳われている。

「……ずいぶんと、よく光る国ですわね」

馬車の窓辺に頬杖をつき、ミトは静かに呟いた。向かいのロウは、書物から目を離さずに応じる。

「光るものほど、磨くのに人手が要ります。問題は、誰がそれを磨かされているか、でしょうね」彼は頁をめくる手を止めずに付け足した。「ロサリスの労働法を調べるのが、今から楽しみです」

「あなたは本当に、どこへ行っても同じところしかご覧になりませんのね」

「あなたが値札の裏ばかり見るのと、同じことですよ」

ミトは扇の陰で、ほんの少しだけ口の端を上げた。――この男の、こういうところは、嫌いではない。

御者台では、側近のカクが、もう一人のスケの脇をこつ、と肘で小突いていた。

「スケよ。もうすぐ最初の国の宮廷だぞ。お嬢様の『アレ』をドカンとぶちかます準備はできているか?」

「おうよ、カクよ。懐の紋章器がうずうずしてやがる。地元の田舎貴族どもを、一発で平伏させてやろうじゃねえか」

二人がニヤリと笑い合う。

――彼らはまだ、知らなかった。この「名乗れば誰もがひれ伏す」という公爵家の絶対の印籠が、これからの旅で、一国ごとに、一歩ずつ通用しなくなっていく。その静かなグラデーションの恐怖を。

旅装の上着の、一針一針に込められた息を呑むほどの仕立て。それを見抜ける人間が、この光る国に、果たして一人でもいるのかどうか。

馬車は薔薇の香りの中を、まっすぐ鏡の宮殿へと進んでいった。


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