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第5章 活字の鳴る砂

◆◆◆

シーン1

翌朝の瀬戸内の海は、僕たちの視界のなかで、どこか鉛のような重苦しい質感を湛えて横たわっていた。

 上空は雲ひとつなく晴れ渡っているというのに、初夏の陽光が水面に反射することなく、まるで底知れない漆黒の深淵へとそのまま吸い込まれ、沈んでいくかのような奇妙な気配がある。

 幻想的な灯火に満ちていた「灯りの島」をあとにした翌日、僕とミオさんは、広島県竹原市の沖合に浮かぶ「大久野島おおくのしま」へと向かう小ぶりなフェリーの甲板に立っていた。

ミオさんは白く塩を吹いた手すりに両手のひらを置き、波飛沫の向こうに迫りくる平坦な島影を、一言も発さずにじっと見つめ続けていた。

 昨日まで僕の再生を促してくれていた、あの陽だまりのような柔らかい微笑みは完全に身を潜めている。鋭く切り落とされたようなその横顔は、誰にも触れられたくない、胸の最も深い場所に沈殿したおりを、一人で静かに抱え込んでいるかのようだった。

「……あの、大久野島にはね、かつて父と一度だけ、二人きりで旅をしたことがあるんです」

 ミオさんは濁った海面から一切視線を外さないまま、硬い声音でぽつりと呟いた。

 「あのとき、仕事で行き詰まっていた父はね、ノートを強く握りしめながら、私に言ったの。……“ミオ、これから私たちは、瀬戸内の潮の記憶を拾いに行くんだよ”って」

潮の、記憶──。

 その重厚な言葉の響きが、僕の精神の最も深い場所へと、すとんと落ちていく。

「潮流というものはね、青井さん。この海にあるすべてのものを、容赦なく遠くへ運んでいってしまうの。人間が紡ぎ出した言葉も、木を組んで作った舟も、そして……届くことのなかった人の切実な想いさえも。だから父はね、この瀬戸内を複雑に巡る潮の流れのことを、“世界で一番悲しい記憶の道”って呼んでいました」

ミオさんの声は、感情を完全に排したように淡々としていた。けれど、その薄い唇の端々が、抑えきれない微細な震えを帯びているのを、元編集者としての僕の目は見逃さなかった。

 ドン、ドンと、フェリーの船首が重たい波頭を切り裂く重低音だけが、遮るもののない甲板に虚しく響き渡る。

 僕は、彼女の横顔に対して何も言葉を返すことができなかった。何か優しい慰めの言葉を探そうとするたびに、僕の胸の奥底に巣食うあの強固な沈黙のヘドロが、いまだ冷たく重く張りついているのを自覚させられるだけだったからだ。

「……青井さん」

 ミオさんが、弾かれたように僕のほうへと顔を向けた。その大きな瞳の焦点は、僕を見ているようで、その実、気の遠くなるようなはるか過去の虚空を見つめているようだった。

 「あの大久野島の北側の、人気のない寂しい海岸にはね、大昔の嵐の夜に、どこからか激しい潮流に乗って流れ着いた、一本の小さな舟の残骸が、今も砂に埋もれているんです」

舟──。その一言に、前夜、自らの手で「言葉の舟(灯籠)」を海へと送り出したばかりの僕の左胸のあたりが、肉体的な痛みを伴ってわずかに揺れた。

「島の古い漁師さんたちはね、その無残な姿を見て、“これは、あの『みなと』の舟かもしれないな”って、哀しそうにつぶやいていました」

 ミオさんは、喉の渇きを潤すように小さく、深く息を吸い込んだ。

 「それが学術的に本当のことかどうかなんて、私には分からない。でもね……あんなに強くて、どんな暗闇の前でも絶対に弱音を吐かなかった私の父がね、その木切れの残骸を見た瞬間、その場に崩れ落ちて、子供みたいに声を上げて泣いたんです」

ミオさんの声が、そこでぷつりと途切れた。

 沖合からの冷たい突風が彼女の長い髪を乱暴に揺らし、その和紙のように白い皮膚の揺らぎは、彼女が自らの胸の最深部に封印してきた、文字にできないほどの巨大な傷口をそのまま映し出しているように見えた。

「父は、泣きながら何度もノートに書き留めていました。……“ミオ、瀬戸内の潮というものはね、あの夜、どうしても故郷へ戻ることができなかった哀しいものたちを、こうして時間をかけて、人間の元へと運んでくるんだよ”って」

戻れなかった、もの──。

 その剥き出しのフレーズが、僕の沈黙の奥底にある、東京の会議室での挫折の傷口に、容赦なく触れてくる。

 フェリーが無骨なコンクリート製の大久野島桟橋へと不器用に近づくにつれ、島の荒々しい輪郭が、僕たちの網膜の前にじわじわとはっきりと迫ってきた。

 生い茂る木々の緑は不気味なほど濃く、観光地としての華やかさは一切なく、どこまでも静まり返っている。そして、頬を叩く潮風の温度は、さっきよりも明らかに、数度だけ冷たかった。

ミオさんは、消え入りそうなほど微かな声で呟いた。

「……あのとき、あの場所で、父は一体何を見ていたんでしょうね」

その切実な問いかけは、僕という人間に向けられたものでは決してなかった。それは、目の前でゴウゴウと不気味に渦を巻く、冷徹な瀬戸内の潮流そのものに向けて投げられた、魂の迷子のような言葉だった。

 今の僕には、その深淵に対する答えなど持ち合わせてはいない。けれど、僕の胸の最深部では、前夜の灯籠流しによって生まれたあの豊穣な「余白」が、ドクドクと熱いノイズを立てて、ゆっくりと能動的に動き始めていた。

 潮の、記憶──。その重厚な思想が、僕自身の沈黙の奥底に沈んでいた、まだ名前のない“何か”を、激しく揺さぶり起こそうとしていたのだ。

◆◆◆

シーン2

古びた桟橋の平坦なアスファルトを踏みしめ、島の内側へと足を踏み入れた瞬間、大久野島を包み込む空気の密度が、明確にその質みを変えた。

 肌にまとわりつく湿度は驚くほど高く、鼻腔を突く塩害の匂いは、これまでのどの島よりも濃密で、発酵したように重たい。

 風が松林の隙間を吹き抜けるたびに、まるで遥か過去にこの場所で無念の死を遂げた者たちの、かすかなざわめきのような幻聴が、僕の耳の奥の鼓膜をチリチリと頼りなく揺らした。

ミオさんは、一切の手元の地図や案内板を見ることもなく、湿った石畳の道をまっすぐに歩き出した。

 その足取りには、迷いも躊躇も一切ない。

 かつてお父さんの大きな背中を追いかけながら、この鬱蒼とした島内を歩いたときの記憶のルートを、彼女の肉体がそのまま正確に辿っているのだ。

「……海岸は、この先のやぶを抜けたところです」

 前を見据えたままのミオさんの声は、底知れず静かだった。けれど、その響きの奥底には、まるでピンと張り詰めたピアノ線のように、触れればすぐに弾けてしまいそうな、頑固で硬い硬結が沈んでいるのが分かった。

遮るような島の細い小道を抜けた瞬間、視界が劇的に、一気に開けた。

 灰色の波が不規則に打ち寄せる荒涼とした海岸線の真ん中に、それは、まるで巨大な生物の死骸のようにひっそりと横たわっていた。

 長い年月、容赦ない瀬戸内の高潮と塩害に晒され、限界まで削ぎ落とされた古い舟の残骸。

 水分を完全に失い、まるで生き物の骨のように白く変色した木材の骨組みが、湿った砂のなかに深く、深く埋もれている。もはや、それがかつてどんな形状をしていたのか、本来の舟の形はほとんど残っていない。けれど、そこには、かつて波を蹴立てて進んでいた“舟であったもの”の、圧倒的な生々しい執念の気配が、確かに漂っていた。

ミオさんはその残骸の手前でふっと足を止め、その白い骨組みを、息を詰めるようにして見つめつづけた。

「……これ、です」

 その口唇から漏れ出た声は、肉体的な痛みを伴って激しく震えていた。

「あのとき……父がすべてを投げ出して、泣き崩れたのは……この舟の前だったんです」

僕は元編集者としてのすべての言葉を失い、ただその光景の前に立ち尽くすしかなかった。

 客観的に見れば、それはただの漂着した木切れのゴミに過ぎないのかもしれない。けれど──初夏の生ぬるい潮風に晒されながら、砂に拒絶されるように横たわるその骨組みからは、どこまでも「自分の故郷へ帰ることができなかったもの」の、泥臭くて哀しい匂いが、立ち上って止まらなかったのだ。

ミオさんは取り憑かれたような足取りでゆっくりと舟の残骸へと近づき、その細く白い指先を、ひび割れた木材の表面へとそっと触れさせた。

「父はね、この乾いた木肌を何度も何度も愛おしそうに撫でながら、言ったの。……“ミオ、これはね、あの夜、潮流に呑まれた『湊』の舟かもしれないんだよ”って」

ザザン、と激しい潮の重低音が、彼女のその悲痛な告白を嘲笑うかのように、すぐさま背後からさらっていく。

「本当のことかどうかなんて、誰にも証明できない。でも……父が、他人の前でこんな風に泣くのを、私は生まれて初めて見たんです」

 ミオさんは奥歯で自らの唇を、血がにじむほど強く噛み締めた。

 その華奢な両肩が、ガタガタと目に見えて大きく震え始める。それは決して、沖合から吹き付ける冷たい潮風のせいなどではなかった。彼女の内に眠る、巨大な喪失のマグマが噴出しかけている証拠だった。

僕は彼女を救うために、元編集者として、何か決定的な言葉を喉の奥から引っ張り出そうと必死に足掻いた。けれど、あまりの緊迫感に僕の喉の粘膜は醜く強張り、冷たい沈黙が再び強固に張りついて、音にならない。

ミオさんは、自らの涙を堪えるように、さらに言葉を絞り出した。

「父はね……あのとき、湊が故郷を裏切って『戻らなかった』んじゃなくて……激しい潮流のせいで、どうしても“戻れなかっただけだ”って、自分に言い聞かせるように何度も叫んだの」

そのお父さんの遺したフレーズが、僕の左胸の割れ目へと、凄まじい質量を伴って深く、深く突き刺さった。

 自分の意志で戻らなかったのではない。戻りたくても、戻れなかった、だけ。

 その決定的な一文字の違いが、遺されたお父さんにとって、そして目の前で肩を震わせているミオさんにとって、どれほど巨大な救いであり、同時に残酷な呪縛であったのかが、元編集者として人間の心理の深淵を扱ってきた今の僕には、痛いほど理解できた。

ミオさんは白い舟の骨組みに両手を置いたまま、誰もいない水平線の向こうへ向けて、消え入りそうな声で小さく呟いた。

「……湊は、本当は……ちゃんと、我が家へ帰りたかったんですよね」

その声は、僕を含めたこの世界の誰に向けられたものでもなかった。けれど、激しい潮風がその哀しい言葉の粒子を優しく抱きかかえ、そのまま暗い海原の向こうへと大切に運んでいくように、僕の目には見えた。

その瞬間、僕の胸の最最深部で、前夜に手に入れたあの豊穣な「余白」が、歓喜のノイズを立てて激しく駆動した。

 沈黙の底で、ずっと形を成さずに蠢いていた僕自身の言葉の種が、明確な文学的意志を持って、ついに僕の喉の強張りを打ち破ったのだ。

「……ミオさん」

 喉から絞り出した声は微かに震えていたけれど、そこにはもう、明日を諦めるような暗さは一切無かった。それは間違いなく、僕自身の確かな意志で、傷ついた彼女の未来のために放たれた本物の言葉だった。

「戻れなかったんじゃない。……あの人は、戻れなかっただけだ。その本当の想いを、潮はちゃんと知っているから、こうしてお父さんとミオさんの元へ、この舟を運んできたんですよ」

ミオさんが、弾かれたように僕の方へと振り返った。

 その大きく見開かれた瞳のなかには、突然の僕の言葉への激しい驚きと、押し殺してきた過去の鋭い痛みと──そして、長年誰も触れてくれなかった心のトゲを優しく包み込まれたような、ほんの僅かな、確かな「救い」の光が、美しいグラデーションを伴って混ざり合っていた。

ドォン、と遠い海岸線から響き渡る、力強い潮騒。

 その悠久のリズムが、静かに、しかし絶対的な祝福の響きを帯びて、立ち尽くす僕たち二人の間の空間を、温かく満たし始めていた。

◆◆◆

シーン3

ゴウゴウと不気味に唸る沖合からの潮流が海岸線を洗うたび、砂に半ば埋もれた舟の残骸は、乾いた骨と骨が擦れ合うような、キチ・キチという微かな軋み音を立てていた。

 それは、幾年月も前にこの最果ての泥に捕らえられた遠い嵐の日の記憶が、いまだに成仏できぬまま、この荒涼とした空間のなかに微弱な磁場となって留まり続けているかのような、寂しい音だった。

ミオさんは白く塩を吹いた木材の表面に手のひらを預けたまま、長い時間、彫刻のように身動きひとつしなかった。

 ただ、風に晒された華奢な両肩だけが、時折、痛々しいほど微かに震えている。

「……私の前ではいつも笑っていた父がね、この無残な骨組みを前にしたときだけは、人目もはばからずに泣いたんです」

 ミオさんの唇から零れ落ちた声は、打ち寄せる灰色の波飛沫の音に掻き消されてしまいそうなほど、頼りなく、小さかった。

 「父はね……この折れた竜骨りゅうこつの姿のなかに、あの人が……『湊』が、必死になって我が家へ帰ろうと足掻いていた、消せない証拠を見つけたんだと思います」

ザザン、と激しい高潮の重低音が、彼女のその悲痛な言葉を優しく抱きかかえ、そのまま暗い海原の向こうへと大切に運んでいく。

「でも……」

 ミオさんは奥歯で自らの唇を、血がにじむほど強く噛み締めた。

 「結局、帰れなかった。どんなに、どんなに焦がれて、その手を伸ばしたとしても、激しい潮流のなかに引きずり込まれて、二度とあのみなとには戻れなかったのね……」

そのミオさんの紡いだ呪縛のような響きは、決して歴史の彼方に消えた「湊」という男のことだけを指しているのではなかった。

 その言葉の皮膚のすぐ真裏には、お父さんを仕事で奪われ、いつも一人で帰りを待ち続けていた、少女の頃のミオさん自身の剥き出しの孤独と痛みが、息を潜めて隠されているのを、僕は五感のすべてではっきりと感じ取っていた。

僕は元編集者として、彼女のその引き裂かれそうな傷口を埋めるための、整合性のとれた美しい言葉を必死に探した。けれど、あまりの心理的緊迫感に僕の喉の粘膜は強張り、やはり冷たい沈黙がぴったりと張りついて、器用な音声にはなってくれない。

 けれど──不思議だった。その声の出ない自らの沈黙が、かつて東京の会議室で僕を絶望させた、あの不毛で「間違い」だらけの拒絶の沈黙とは、明らかに質みが違っている確信があった。今の僕の沈黙は、彼女の痛みを、そのまま境界線なく共有するための、真っ白で清廉な「器」としての静寂だったからだ。

ミオさんは僕の無言を拒絶することなく、波のうねりを見つめたまま、堰を切ったように言葉を繋いだ。

「父は……国や島の大切なインフラを守る仕事だって言ってね、一年の大半を、遠い瀬戸内の島々を巡る旅に費やしていました。いつも家にはいなかった。……でもね、たまに数ヶ月ぶりに我が家へ帰ってきたとき、お土産を抱えた父は、いつだって眩しいくらいの笑顔を浮かべていて……。だから私もね、寂しいなんて言ったら困らせちゃうから、いつもいっぱいの笑顔を作って、おかえりなさいって迎えていたの」

そこで、彼女の滑らかな声音が、突然鋭く途切れた。

「……でも、本当はね、青井さん。私、もの凄く寂しかったの」

 ミオさんは小さく、しかし魂の底から絞り出すような震え声を絞り出した。

 「どこへも行かないでほしかった。ただ普通に、毎日、私の隣にいてほしかった。ただ……それだけのことだったのに、一度も言えなかった」

切り立った松林の隙間から突風が吹き抜け、ミオさんの長い髪が乱暴に踊った。その髪の毛の激しい揺らぎの隙間から、彼女がずっと大人びた微笑みの裏にひた隠しにしてきた、幼子のような純粋な痛みが、夕闇のなかではっきりと透けて見えた。

ミオさんは耐えきれなくなったように深く顔を伏せ、白く風化した舟の残骸へと、自らの額をそっと寄り添わせた。

「湊も……、そして、あの『みお』も……。みんな、みんな、本当は愛おしい我が家へ帰りたかったんですよね。戻りたくて足掻いていたのに……ただ、激しい潮流のせいで、戻れなかっただけなんですよね……」

その決定的な瞬間、彼女の長い睫毛の端から、大粒の涙がひとすじ、和紙のように白い頬を伝って砂の上へと滑り落ちた。

僕は衝動に突き動かされるように、湿った砂を踏みしめて、彼女の側へと一歩足を踏み出した。

 けれど、近づいた僕の両手は、彼女の細い肩を抱きしめることも、その涙を拭ってあげることもできなかった。今の僕が持ち合わせているどんな慰めの定型句も、どんな安易な励ましの活字も、彼女の長年蓄えてきた孤独の深淵に対しては、すべてが軽薄で、決定的に間違っている気がしたからだ。

だから、僕はただ、ミオさんのすぐ真隣に、防波堤のように真っ直ぐに佇んだ。

 余計な発声をせず、彼女に強さも求めず、ただ瀬戸内の冷徹な潮風の痛みを、彼女と全く同じ皮膚の感覚で受け止めるために、隣に立ち続けた。

ミオさんはそれからしばらくの間、舟の残骸にしがみついたまま、声を殺して泣き続けた。

 ゴウゴウと響く悠久の潮の重低音と、彼女の喉の奥から漏れ出る微かな嗚咽の音だけが、世界の境界線を無くして、静かに混ざり合っていく。

やがて夜の帳が降りる頃、ミオさんは自らの涙を拭おうともせず、濡れた瞳のまま、ゆっくりと僕の方へと顔を向けた。

「……青井さん、ありがとう」

 その掠れた声は、風の中に溶けてしまいそうなほど微かだったけれど、僕の左胸の最深部へと、確かに、真っ直ぐに届いた。

僕はやはり、不器用な言葉を返すことはしなかった。けれど、彼女の孤独を受け止めた僕の胸の奥底では、あの強固だった沈黙の氷結が、じわりじわりと温かい熱を帯びて、心地よくほどけていくのをはっきりと感じていた。

 再び冷たい風が吹き抜け、白い舟の骨組みがキチ、と小さく軋んだ。その乾いた音は、まるでこれまで世界の砂の底に置き去りにされていた“戻れなかったものたちの魂”が、僕たちの静かな佇まいに応えるように、ほんの少しだけ息を吹き返して動いたような、優しい音だった。

◆◆◆

シーン4

海岸線を狂おしく叩いていた潮風の勢いが僅かに和らぎ、大久野島の荒涼とした波打ち際に、厳かな静けさがゆっくりと戻ってきた。

 ミオさんは頬を濡らす涙の跡を拭おうともせず、長年囚われていた白い舟の残骸から、ゆっくりと、慈しむようにその白い手を離した。

「……青井さん、ごめんなさい」

 ミオさんは自らの不甲斐なさを恥じるように、小さく俯いて呟いた。

 「あなたを案内する役目なのに……こんな、寂しい場所で取り乱して、泣くつもりなんて本当はなかったのに」

僕は何も言わずに、ただ静かに大きく首を横に振ってみせた。

 元編集者としての小器用な活字は出なかったけれど、いま僕の胸の最深部からは、“ここでなら、いくらでも大声を上げて泣いていいんだ”という、底知れない温かな肯定の念だけが、泉のように自然に湧き上がり、世界の空気を満たしていたからだ。

ミオさんは絡みつく湿り気を追い払うように深く、深く息を吸い込むと、自らの衣服の胸元から、一冊の古びたノートをそっと引き出した。

 お父さんがその命を懸けて瀬戸内の島々を巡り、遺していった、あの『言葉ノート』。

 その布張りの表紙は、容赦ない潮風と彼女の涙に晒されてすっかり色褪せ、角が丸く擦り切れていたけれど、夕闇のなかで彼女の手のひらに収まるその佇まいには、まるで今も生きているかのような、確かな人間の体温の残響が宿っているように見えた。

「……父はね、かつて私をここに連れてきたあの日、この白い舟の前で、何か大切な言葉をノートに書き留めたんです」

 ミオさんは愛おしそうに和紙のページを開きながら、消え入りそうな声で言った。

 「でも……あのときの父は、どうしてもその内容だけは、私に読ませてくれませんでした」

ページをめくっていく彼女の細い指先が、期待と恐れでほんの少しだけ震えている。

 開かれたノートの紙面には、お父さんが瀬戸内の厳しい大自然のなかから命懸けで拾い集めてきた、職人たちの、あるいは名もなき島民たちの“生の言葉”が、万年筆の実直な筆致で整然と並んでいた。

《潮という名の巨大な巡礼は、かつて戻れなかった哀しいものたちを、時間をかけて人間の元へと運んでくる》

《瀬戸内の風は、ただの空気の移動ではない。それは、水底に眠る海の記憶をおかへと運ぶ、透明な伝書鳩だ》

《あらゆる舟の木枠は、自らがいつか帰るべき、本当の湊の場所をあらかじめ知っている》

どのページから立ち上る文字も、まるで今漉き上げたばかりの手漉き和紙のように、濃密な潮の匂いと、人間の血の通った熱量を帯びている。

ミオさんは、ある特定のページの、それ以上先へ進めない行間の前で、ぴたりと指を止めた。

そこには、これまでの饒舌な文章とは明らかに異なる、激しい筆圧のムラと掠れを伴った、短い一文だけが叩きつけられるようにして書かれていた。

《──湊は、確かに、我が家へ帰ろうとしていた》

ミオさんはそのインクの塊を凝視したまま、胸の奥で小さく、痛切に息を呑んだ。

「……父はね、この、たった一筋の言葉をノートに書き付けたあと、ペンを握ったまま、しばらく激しい嗚咽に身を震わせて動けなくなったんです」

 ミオさんの声は、過去の記憶の生々しさに完全に震えていた。

 「あの人は、故郷を裏切って逃げたんじゃない。ちゃんと、私たちの待つ我が家へ帰りたかったんだ。ただ……激しい潮流のせいで、戻れなかっただけなんだって……。父は、この白い骨組みを前にして、その絶対的な真実を、自らの魂に納得させたんだと思います」

夜の生ぬるい風が、彼女の手元の手漉き和紙のページをパサパサと健気に揺らした。その紙の擦れ合う繊細な音の余韻は、お父さんがこの場所に遺していった、表現者としての凄まじい執念の残響を、今この瞬間の空気のなかへと運んできているようだった。

僕はミオさんの真横から、そのノートの掠れた筆致をじっと覗き込みながら、僕の左胸の最深部が、言葉にならない静かな熱量によって満たされていくのを確かに感じていた。

 言葉というものは、これほどまでに人間の呪縛を解き放ち、時空を超えて他人の魂を激しく揺さぶるものなのか──。東京の活字に絶望していたはずの僕のなかで、元編集者としての、表現に対する根源的な畏敬の念が、急速に再起動していく。

ミオさんはそっと和紙のノートを閉じ、涙の余韻をいっぱいに含んだ大きな瞳で、僕の目を真っ直ぐに見つめてきた。

「青井さん……」

 その彼女の声は、暗闇を照らす灯籠の火そのもののように、どこまでも切実だった。

「言葉を扱い、人間の心と向き合い続けてきたあなたなら……どう思いますか。あの夜、激しい嵐のなかに消えた湊は……本当に、私たちの元へ、帰りたかったのだと思いますか」

僕は彼女のその魂の迷子のような問いかけを受け止め、しばらくの間、自らの胸のなかの原稿用紙をめくるようにして、慎重に本物の言葉を探した。

 僕を縛っていた沈黙が、肋骨の奥でパキリ、パキリと音を立てて軋みをあげる。けれど、その強張りは、もう二度と世界に向けて開くことのない、あの「閉じた沈黙」などでは決してなかった。

ザザン、と背後から響く瀬戸内の悠久の潮流の音が、僕の背中を、優しく力強く押し出してくれる。

「……間違いなく、何が何でも、帰りたかったのだと思います」

 僕の喉から放たれた声は、かすかに震えてはいたけれど、そこにはもう迷いも虚飾も一切無かった。それは、傷ついた彼女の未来のために、僕自身の意志で外の世界へと放たれた本物の言葉だった。

「自分の意志で戻らなかったんじゃない。……ミオさんやお父さんの待つあの温かい場所へ、命を懸けて、必死で帰りたかったんだと思います。この舟の傷跡が、何よりもそれを証明している」

ミオさんは大きく見開いていた目を静かに伏せ、すべてを受け入れるように、小さく、深く頷いてみせた。

「……ええ、そうですよね」

その彼女の美しい頷きの重みは、お父さんがノートに遺した至言と、嵐のなかに消えた湊の無念の想いと、そして、ミオさん自身が長年その胸の最深部に閉じ込めてきた巨大な孤独の痛みを──今この瞬間に、ひとつの美しい星座のように、優しく結び合わせるための能動的な祈りの動きだった。

再び切り立った海岸線から心地よい潮風が吹き抜け、砂に埋もれた舟の残骸が、キチ、と今度は祝福するような音を立てて軋んだ。

 その乾いた残響は、僕の耳には、冷たい沈黙の底へと沈んでいた僕たちの「本当の物語」が、再び光の当たる世界へと戻ってくるための、確かな始まりの合図のようにはっきりと聞こえた。

◆◆◆

シーン5

白く風化した舟の残骸が横たわる海岸線を離れ、松林の影が落ちる砂利道を少し歩き進めると、鼻腔を突く塩害の匂いはさらに密度を増し、ねっとりと濃くなっていった。

 大久野島を取り囲む翡翠色の海原は、頭上の眩い太陽の光を浴びてキラキラと輝いているというのに、その水底には、まるでこの島が背負ってきた過去の重みを丸ごと抱え込んでいるかのような、不穏な“重さ”を湛えている。光が明るければ明るいほど、そのすぐ真裏にへばりついている暗い水底の影が、底知れぬ質量を持ってゆらゆらと揺れているのが分かった。

ミオさんはお父さんの遺した『言葉ノート』を両手で大切に胸元に抱きしめたまま、確かな足取りでゆっくりと僕の隣を歩いていた。

 潮風に晒されたその白い頬には、さっき流した大粒の涙の乾いた跡がまだ微かに残っていたけれど、その伏せられた目元の輪郭には、あの舟の前でガタガタと肩を震わせていたときよりも、ほんの少しだけ穏やかな柔らかさが戻っているように見えた。

「……かつて、まだ仕事で家庭を顧みなかった父とこの島へやってきたときもね、青井さん。二人きりで、全く同じこの寂しい小道を歩いたんです」

 ミオさんは、波頭が砕ける冷徹な水面から一切視線を外さないまま、懐かしむようにぽつりと呟いた。

 「あのときの父はね、何かを激しく悔いるようにずっと黙り込んでいて。まだ子供だった私もね、そんな父に何を話しかければいいのか分からなくて……。でもね、不思議だった。二人を包んでいたその沈黙の時間はね、ちっとも息苦しくなくて、嫌じゃなかったの」

その彼女の静かな声音の響きに、僕の喉の奥の粘膜が、心地よい衝撃を伴って静かに揺れた。

 沈黙が、嫌ではない──。

 それは、僕が東京の過酷な編集部で他人の活字に傷つき、表現することを諦めて心を閉ざして以来、ずっと恐怖の対象として忌み嫌ってきたあの「拒絶の沈黙」の、真逆にある救いの静寂だった。沈黙とは、他者を拒む壁ではなく、時に言葉以上に純粋に、互いの魂の痛みを共有するための「器」になり得るのだと、彼女の横顔が教えてくれていた。

「父はね、砂に埋もれたあの舟を見つめながら、ノートの余白にこう書き留めていたわ。……“ミオ、瀬戸内の潮という巨大な記憶の装置はね、この海で起きたすべての出来事を、何一つ忘れずに覚えているんだよ”って」

 ミオさんは自らの足元で、乾いた音を立てて崩れる粗い砂の文様を見つめた。

 「あの夜、嵐のなかに流れ着いたものも、暗い潮流の向こうへと無残に流されていったものも……。人間の目がすべてを忘却し去ったとしても、この潮だけはね、その冷たい底で全部、覚えているんだって」

潮が、覚えている──。

 その重厚なフレーズは、さっきあの白い竜骨の前で彼女が決壊させた、あのお父さんの遺した切実な墨文字の余韻と、僕たちの頭上で今もゴウゴウと鳴り響く潮騒の音のなかで、静かに、深く響き合っていた。

僕は促されるように、暗い海の向こうを見つめた。

 満ちていく灰色の波は、ゆっくりと時間をかけて砂辺へと寄せては返し、そのたびに足元の不規則な砂の模様を無慈悲に書き換えていく。けれど、どれだけ表面の形が変容しようとも、この巨大な瀬戸内の水塊は、かつてこの海で命を落とした者たちの無念の想いを、その深淵のなかにすべて優しく抱え込んでいるように、僕の目には見えてならなかった。

「……青井さん」

 ミオさんが、不意にその歩みをぴたりと止めた。

 「さっき、あの舟の前であなたが私にくれた言葉……。……“あの人は、自分の意志で戻らなかったんじゃない。ミオさんたちの元へ、何が何でも帰りたかったんだ”って……。あの言葉ね、私……すごく、すごく嬉しかった」

その瞬間、僕の左胸の最深部が、まるでお湯を注がれたように、じんわりと心地よい熱を帯びて激しく拍動した。

 原稿用紙を埋め尽くすような大層な文章ではない。けれど、僕の喉の強張りを打ち破って放たれた不器用な短い文字が、流行の消費物としてではなく、目の前で傷ついているひとりの人間の、長年閉ざされていた孤独の傷口に確かに触れ、それを優しく包み込んだのだと──僕は生まれて初めて、表現者としての確かな手応えをその肉体に実感していた。

「……ミオさんに、届いてよかった」

 自分でも驚くほど余計な虚飾を取り払った、滑らかな一言が、静かな潮風のなかへと自然にこぼれ落ちていった。

ミオさんは僕のその能動的な響きを愛おしむように、ふっと目元を緩めて、小さく笑ってみせた。

 その長い睫毛の端には、まだ乾ききらない涙の粒が残ったままの不器用な笑顔だったけれど、その微かな瞬きは、初夏の冷徹な潮風のなかで、どんな贅沢な宝石よりも静かに、力強く光を反射していた。

「ええ。私の父もね、あの白い残骸の前に立ち尽くしながら、きっと青井さんと同じことを魂の底から祈っていたんだと思います。……湊はね、故郷を裏切って逃げたんじゃない。ちゃんと、帰りたかったんだ。……この私の、『みお』のいるあの温かい場所へ、命を懸けて帰りたかったんだって」

切り立った松林の隙間から再び生ぬるい風が吹き抜け、ミオさんの長い髪がサラサラと音を立てて踊った。その和紙のような皮膚の揺らぎは、僕の放った言葉の温かさによって、彼女の胸の最深部に巣食っていた長年の呪縛の痛みを、ほんの少しだけ、優しく解きほぐして軽くしているように見えた。

僕はミオさんのすぐ真横に並び、防波堤のように真っ直ぐに佇んで、彼女と全く同じ漆黒の水平線を見つめ続けた。

 僕たちの間に交わされる活字は、決して多くはなかった。けれど、僕たちの肉体を包み込むこの沈黙の空間は、もう二度と他者を寄せ付けないような、あの冷たい絶望の“壁”などでは決してなかった。

 ただ、ゴウゴウと響き渡る悠久の潮の音だけが、立ち尽くす僕たち二人の間の境界線を無くし、温かい生の余韻となって静かに満たし続けていた。

ミオさんはノートをさらに強く抱きしめながら、海に向けてふっと呟いた。

「……父の言っていた、潮の記憶を拾うっていう旅の意味はね、こういうことだったのかもしれないですね、青井さん」

僕は言葉を返す代わりに、静かに、深く首を縦に振ってみせた。

 この瀬戸内の潮流は、歴史の彼方に置き去りにされて“戻れなかったものたちの体躯”も、そして彼らが最期まで我が家へ焦がれて伸ばした“帰りたかったという切実な想い”も、すべてをその巨大な胎内に抱きかかえて揺れている。

 その悠久の水の揺らぎのなかで、僕とミオさんの心の距離もまた、他人の活字に惑わされない確かな絆へと、ゆっくりと、しかし決定的に変わっていくのを、僕は皮膚の感覚ではっきりと感じ取っていた。

◆◆◆

シーン6

起伏のある海岸の砂利道をさらに数分ほど歩み進めると、松林が途切れた岬の小高い丘の上に、一本の古びた木造の東屋あずまやがひっそりと姿を現した。

 長い年月、容赦ない瀬戸内の高潮と塩害に晒され続けたその太い柱やはりは、水分を完全に失い、まるで海岸の舟の残骸と同じように、化石のように白く乾ききっている。

 その乾いた日陰の下、錆びついたベンチの上に、一人の老人がぽつりと腰を下ろしていた。

年季の入った麦わら帽子を深く被り、日に焼けて無数の深い皺が刻まれたその顔を、じっと漆黒の海原へと向けている。老人は、まるで水面の下で複雑にうねる目に見えない潮流の毛細血管を、その老いた網膜の奥でじっと読み解こうとするかのように、細く濁った目をさらに険しく細めていた。

ミオさんがその東屋の影に足を踏み入れ、押し殺した声で小さく会釈をすると、老人は時間をかけてゆっくりと首を回し、僕たちのほうへと視線を向けた。

「……観光の若者かね、こんな寂しい裏手の浜に」

 その老人の口唇から漏れ出た声音は、低く、かすれていて、まるで何十年もの間、瀬戸内の激しい波濤によって丸く、頑固に磨き上げられてきた一個の海岸の石のように重たかった。

ミオさんはその不躾な問いかけに対して、静かに大きく首を横に振ってみせた。

「いいえ、違うんです。おじいさん。……私ね、かつて父と二人で、この島に来たことがあるんです。あの、あそこの海岸の砂に埋もれている、古い舟の残骸を……どうしても、もう一度見たくて」

老人の麦わら帽子の奥の、細い眼光が、その言葉を聴いた瞬間、わずかに鋭さを増して細くなった。

「ああ……。あの、北の浜の、化石みたいな舟のことかい」

 老人は自らの痩せこけた顎を、ゴウゴウと鳴る海のほうへと無造作に向けた。

「あの、大昔の、物凄い嵐の夜に……どこからかこの島へ、這うようにして流れ着いた、あの無残な木切れのやつじゃな」

その老人のぶっきらぼうな語り口は、まるでその歴史的な座礁の悲劇が、つい昨日の午後にでも起きた出来事であるかのような、生々しいリアリティを伴って世界の空気に響いた。

ミオさんは取り憑かれたように、東屋の乾いた日陰のなかへと、もう一歩足を踏み出した。

「あのおじいさん……あの舟はね、島の古い漁師さんたちの間で……あの夜、潮流に呑まれた『湊』の舟だって……そう言われているのですよね」

老人はその切実な問いかけを受け止めると、しばらくの間、深海のような沈黙をその場に湛えた。

 ただ、東屋の白い柱の隙間を、沖合からの冷たい風だけが、ヒュー、ヒューと寂しい乾いた音を立てて通り抜けていく。

やがて老人は、自らの衣服のポケットから古びた手拭いを取り出し、ゆっくりと口を開いた。

「……あの嵐の夜、海がどんなに狂っていたか、お前さんたちには分からん。今となっては、あれが一体どこの誰の、どんな名前の舟だったんぞ、科学的に証明することなんぞ誰にもできんよ」

老人はそこで言葉を一度区切ると、僕たちの目を真っ直ぐに射抜いた。

「けんどな……これだけは、この海と生きてきたワシの目が保証してやる。あの舟はな、間違いなく、死に物狂いで我が家へ“戻ろうとしとった”舟じゃ」

ミオさんが、自らの胸の奥で小さく、痛切に息を呑む気配が伝わってきた。

老人は自らの濁った瞳の奥に、かつての漆黒の嵐の夜の光景を鮮烈に呼び起こすようにして、骨太な言葉を続けた。

「あの夜の、瀬戸内の潮の向きがそうじゃったんじゃ。普通、ただ難破して流されただけのゴミなら、沖の激しい潮流に引っ張られて、外海へと消えていくはずじゃ。けんどな、あの夜の潮は、この島に向かって真っ直ぐに戻ってくる、執念深い逆流の潮じゃった。あの舟は、ただ波に流されて漂着したんじゃない。……何が何でも、この島へ、誰かの一番愛おしい場所へ“戻ろうとして”……最後の力を振り絞って、あの泥のなかに体当たりするように流れ着いたんじゃ」

その老人の放った決定的な自然の真実の響きに、僕の左胸の割れ目が、歓喜のノイズを立てて激しく震えた。

湊は、確かに、我が家へ帰ろうとしていた──。

 さっきミオさんが開いたあのお父さんの布書きのノートに、激しい筆圧の掠れと共に叩きつけられていたあの一筋の言葉と、この過酷な海を生き抜いてきた老人の生々しい生活の言葉が、時空を超えて、今この東屋の下で完璧なひとつの星座のように重なり合ったのだ。

ミオさんは自らの手のひらで『言葉ノート』を破れるほど強く握りしめ、震える声を絞り出した。

「……じゃあ、おじいさん。あの人は……湊は……」

老人は自らの頑固な首を、一度だけ、深く厳かに縦に振ってみせた。

「帰りたかったんじゃろう。何が何でも、自らの命を懸けてでも……この島で自分の帰りを待っている、誰かの一番大切な人間のところへな。潮は、その想いごと、あの舟をここまで運んできたんじゃ」

再び切り立った松林の隙間から突風が吹き抜け、ミオさんの長い髪が乱暴に踊った。その激しい揺らぎの隙間から、彼女がずっと大人びた微笑みの裏に封印してきた、あの巨大な孤独の痛みが、再び鮮烈に世界の空気のなかへと浮かび上がってくる。けれど今のその痛みは、もう彼女を絶望させる棘ではなかった。

老人は、そんなミオさんの隣に立つ僕の姿を、麦わら帽子のひさしの隙間から、ちらりと鋭く値踏みするように見つめてきた。

「……お前さんは、あの娘のそばに、ちゃんと立っておるんか」

突然の、逃げ道のない本質的な問いかけに、僕の喉の粘膜は一瞬だけ強張り、器用な活字が詰まった。

けれど、僕が足掻くよりも早く、隣にいたミオさんが、僕の目を真っ直ぐに見つめながら、凛とした声で先に答えてくれた。

「……はい。この人は、青井さんはね、おじいさん。私と一緒に、父の遺した言葉の軌跡を辿って、どこまでも一緒に旅をしてくれている大切な人です」

老人は僕たちのその確かな関係性の響きを聴くと、深く刻まれた目元の皺をいっぱいに緩め、ゆっくりと頷いてみせた。

「なら、ええ。……瀬戸内の潮というものはな、若者よ、ひとりぼっちの目ではね、どんなに凝視しても決して読み解くことはできんのじゃ。こうして、ふたりの目で、全く同じ水面の揺らぎをじっと見つめて、初めてその底にある本当の記憶が、分かることがあるんじゃよ」

その老人の実直な生活の哲学から放たれた言葉は、僕がこれまで東京の編集部で扱ってきた、どんな著名な作家の洗練されたレトリックよりも深く、重く、僕の魂の最深部へと染み渡っていった。

ミオさんはその老人の大きな背中に向けて、何度も深く、祈るように礼を言い、僕たちは再び、夜の帳が降りる海岸の道を歩き始めた。

それからしばらくの間、僕たちの間には一言の活字も交わされない、長い静寂が続いていた。けれど、その僕たちの肉体を包み込む沈黙の空間は、もう二度と僕を苛む、あの冷たく重たい拒絶の壁などでは決してなかった。

ミオさんは歩幅を合わせながら、消え入りそうな声で小さく呟いた。

「……青井さん。湊はね、本当に、何が何でも帰ろうとしてくれていたんですね」

僕は今度は迷うことなく、彼女のその確かな能動性に応えるように、強く深く首を縦に振ってみせた。

「うん。……ミオさんの言う通り、あの人は、命を懸けて帰りたかったんだと思う。その本当の想いを、潮も、あのおじいさんも、ちゃんと分かってくれていたんだ」

ドォン、と遠い海岸線から響き渡る、力強い潮流の重低音。

 その悠久のリズムが、僕の放った不器用な言葉を優しく包み込み、世界の空気のなかへと大切に溶かしていく。

 潮は、かつて我が家へと戻ることができなかった哀しいものたちの身体を運んでくる。けれど──彼らが最期まで諦めずに伸ばした、あの“帰りたかった”という切実な生の想いもまた、同じように時間をかけて、今を生きる僕たちの胸のなかへと、確かに運んできてくれるのかもしれない。

◆◆◆

シーン7

風を遮るもののない大久野島の小高い丘を下り、僕たちは再び、満ちていく潮流がすぐ足元まで迫る海岸沿いの細い砂利道を歩いていた。

 岬からの潮風は相変わらず容赦なく僕たちの衣服を叩き続けていたけれど、その激しい風の層のなかには、さっきあの東屋の老人が濁った声で放った、あの生活の知恵に満ちた言葉の残響が、確かな質量を持っていつまでも留まっていた。

──瀬戸内の潮というものはな、ひとりぼっちの目ではね、どんなに凝視しても決して読み解くことはできんのじゃ。

──こうして、ふたりの目で、全く同じ水面の揺らぎをじっと見つめて、初めてその底にある本当の記憶が、分かることがあるんじゃよ。

その剥き出しの哲学が、僕の精神の最も深い場所で、パキリ、パキリと快い音を立てて静かに響き合っている。

ミオさんは長い間、自らの歩幅を確かめるようにして黙々と歩いていたが、やがて何かを決断したように不意に足を止め、まだ灰色の波頭が不規則に砕ける海のほうへとその身体を向けた。

「……私の父はね、青井さん」

 ミオさんの口唇から漏れ出た声音は、沖合からの突風のノイズに今にも掻き消されてしまいそうなほど、細く、小さかった。

 「あの、最後の旅に出て、二度と帰らぬ人となってしまう前日の夜……。玄関で私の頭を優しく撫でながら、確かに“ミオ、今度の仕事はすぐに終わるから、すぐに家に戻るよ”って、笑って言ったんです」

その決定的な告白に、僕の左胸の最深部が、肉体的な痛みを伴って強く激しく揺さぶられた。

ミオさんはノートを抱きしめる両手にさらに力を込めながら、言葉を紡ぎ出す。

「でもね……父は、戻ってこなかった。……数日後、遠い島での突然の事故の報せが自宅の電話に響いたとき、私ね……“どうして、お父さんが”って激しく絶望するよりも先にね、ひどく冷めた頭で……“ああ、お父さんは、また約束を守れずに帰れなかったんだ”って、そう思ってしまったの」

ザザン、と激しい潮流の重低音が、彼女のそのあまりにも哀しい過去の独白を優しく抱きかかえ、世界の空気のなかへと大切に溶かしていく。

「私の父はね、いつだって私を一人にしないように、我が家へ急いで帰ろうとしてくれていた。でも、国や島の大切なインフラを守る仕事だから、一度現場でトラブルが起きれば、仕事は際限なく遅くなって……。私が子供の頃に交わした小さな約束を、守れないことのほうがずっと多かった……」

 ミオさんは、溢れ出しそうになる感情を堰き止めるように、薄い唇を血の味がするほど強く噛み締めた。

 「それでもね……今の私なら、お父さんのあのノートの文字を見れば、はっきりと分かるの。父は、何が何でも、一分一秒でも早く、私のいるあの温かい場所へ帰りたかったんだって」

その彼女の震える言葉の皮膚は、さっき見たあの白い舟の残骸──「湊」という男の哀しい難破の物語と、完璧に、寸分の狂いもなく重なり合っていた。

 帰りたかった。けれど、過酷な潮流のせいで、帰れなかった。

ミオさんは、そのお父さんの命の結晶である『言葉ノート』を、まるで赤ん坊をあやすかのように愛おしそうにその胸のなかで抱きしめ直した。

「父はね……あの砂に埋もれた湊の舟の残骸のなかに、自分自身の姿を重ね合わせていたのかもしれません。……大切な人の帰りを待つ家族のために、死に物狂いで我が家へ帰ろうと足掻きながら、それでも、激しい潮流のなかに引きずり込まれて、どうしても帰れなかった哀しい男の物語を」

ミオさんの紡ぐ声は、初夏の生ぬるい風のなかで激しく震えていた。けれど、その肉体的な震えは、もうかつてのように孤独な痛みを内側へ押し殺し、沈黙の殻に閉じこもるための不毛な震えなどでは決してなかった。

 それは、長年名前を与えられずに澱んでいた自らの心の傷口と真っ直ぐに向き合い、自らの手で本物の「言葉」へと昇華させようともがいている、表現者としての尊い産みの苦しみの震えだった。

僕はミオさんのすぐ真横に、防波堤のように真っ直ぐに並んで立ち、夕闇が迫る瀬戸内の海を見つめた。

 満ちていく灰色の潮流は、ゆっくりと時間をかけて砂辺へと寄せては返し、そのたびに足元の複雑な砂の模様を無慈悲に書き換えていく。けれど、どれだけ表面の形が変容しようとも、この巨大な自然の水塊は、かつてこの海で命を落としたお父さんの、そして湊の想いを、その深淵のなかにすべて優しく抱え込んで揺れているのだ。

「……ミオさん」

 僕は、自分の喉の粘膜の強張りを取り払うように、一語一語を確かめるようにしてゆっくりと、しかし明確な活字にして放った。

 「お父さんは、間違いなく、何が何でも帰りたかったのだと思います。他の誰のためでもない、この世界で一番大切な、ミオさんのいるあの我が家へ」

ミオさんは大きく見開いていた目を静かに伏せ、すべてを受け入れるように、小さく、深く首を縦に振ってみせた。

「……ええ、そうですよね。……私、そう信じて、そう思って生きていっても、いいんですよね」

その彼女の魂の迷子のような問いかけは、僕という人間に向けられたものでは決してなかった。それは、目の前でゴウゴウと鳴り響く、すべてを呑み込んできた冷徹な潮流そのものに向けて投げられた、祈りのような言葉だった。

僕は彼女のその横顔に対して、元編集者としてではなく、この旅を共にするひとりの人間として、強く、深く頷いてみせた。

「うん。……何一つ疑うことなく、そう思っていい。潮はちゃんと、その想いごと、あのお父さんのノートをミオさんの元へ届けてくれたんだから」

ミオさんは、ついに最期まで涙をこぼさなかった。

 けれど、その伏せられた瞳の最深部には、少女の頃から長い間、誰にも言えずに閉じ込められていた鋭い孤独の痛みが、僕の放った言葉の温かさによって、じわり、じわりと、優しくほどけて解き放たれていく確かな気配があった。

松林の隙間から、夜の気配を孕んだ心地よい潮風が吹き抜け、ミオさんの長い髪がサラサラと音を立てて踊った。

 その髪の毛の優しい揺らぎは、彼女の内の痛みが、世界の空気を震わせる本物の「言葉」へと、新しく生まれ変わり始めた決定的な証のように、僕の目には美しく見えてならなかった。

◆◆◆

シーン8

ミオさんの魂の底から放たれた切実な言葉が、初夏の生ぬるい潮風のなかに溶けて消えていくと、大久野島の海岸線を支配していた空気の密度が、目に見えて劇的にその質みを変えた。

 頭上の残光の明るさはさっきと何も変わっていないはずなのに、瀬戸内の島々の輪郭や、灰色の波止場の境界線が、まるで世界そのものが静かに泣いているかのように、僕の網膜の向こうで少しだけ滲んで見えた。

ミオさんはお父さんの『言葉ノート』を大切な盾のように胸元に抱いたまま、漆黒へと変わりゆく水平線をじっと見つめ続けていた。

 その気高い横顔には、長年背負ってきた喪失の痛みと、それを受け入れて明日へと踏み出そうとする、静かで強固な表現者としての決意が、美しいグラデーションを伴って同時に宿っている。

「……私の父は、最期の瞬間に潮流に呑まれるその時まで、諦めずに我が家へ帰ろうとしていたんですよね、青井さん」

 ミオさんの声は、ゴウゴウと響く潮の音の律動にそっと寄り添うように、どこまでも柔らかく、透き通っていた。

僕は言葉を返す代わりに、静かに、深く首を縦に振ってみせた。

 放たれた活字こそ少なかったけれど、いま僕が彼女の痛みに寄り添って返すその頷きの重みには、元編集者としての虚飾を一切剥ぎ取られた、絶対的な肯定の質量が宿っていた。

ミオさんは僕のその無言の肯定に救われたように、さらに言葉を繋いだ。

「嵐の夜に消えたあの湊もね、きっと、全く同じだったんだと思います。……この島で自分の帰りを待っている、あの『みお』のところへ、命を懸けて帰りたかった。……戻りたくなかったんじゃない。激しい潮流のせいで、ただ、戻れなかっただけなんだって」

その彼女の紡いだ「戻れなかっただけ」という決定的なフレーズが、僕の左胸の割れ目へと、凄まじい質量を伴って深く、深く突き刺さった瞬間。

 僕の精神の最も深い場所で、あの東京での挫折以来、頑固に凍りついていた強固な沈黙のヘドロが、ガタガタと音を立てて激しく、狂おしく揺れ動き始めた。

──帰りたかった。

──でも、戻れなかった。

そのあまりにも切実な言葉の重みは、決して歴史の彼方に消えた湊や、ミオさんのお父さんだけのものではなかった。

 それは、他人の放った空虚な活字に傷つき、表現することを諦めて東京から逃げ出してきた、僕自身の胸の最深部にべっとりとへばりついたままの、あの消せない「未練の泥」の正体そのものだったのだ。

目を閉じれば、あの東京の冷徹な編集部での、最後の一日の光景が鮮烈に蘇る。

 命懸けで並走していたはずの、担当作家の突然の失踪。

 僕を嘲笑うかのように鳴り響く、冷たい会議室の電話の音。

 他人の悪意に満ちた言葉に包囲され、自分の喉の粘膜が完全に強張り、本物の言葉が一切出なくなってしまった、あの決定的な落日の瞬間。

 誰に対しても何一つ言い訳ができず、ただ不毛な絶望の沈黙だけを抱えて、業界を去るしかなかったあの日──。

僕だって、本当は死ぬほど“戻りたかった”のだ。

 自分が誰よりも愛し、魂を捧げていた、あの本物の活字が躍る言葉の世界へ。

 作家と命懸けで言葉を紡ぎ出す、あの誇り高き編集者の仕事へ。

 そして……誰かに言葉を届けることを信じて疑わなかった、かつての真っ直ぐな「自分自身」の場所へ。

 けれど、業界の過酷な潮流に押し流され、僕の心はズタズタに引き裂かれて、どうしても戻れなかったのだ。

夜の冷たい風が吹き抜け、僕の肋骨の奥で、長年放置されていた未練の骨組みがキチ、キチと悲鳴を上げて軋んだ。

隣にいたミオさんが、僕のその肉体的な変容を察知したかのように、ふっと僕のほうへと顔を向けた。

「……青井、さん?」

 その彼女の呼びかける声音は、僕の魂の奥底で起きている激しい地殻変動の揺れを、自らの手のひらで優しく包み込んでくれるかのように、どこまでも温かく、慈愛に満ちていた。

僕は自らの胸のなかの真っ白な原稿用紙を引き裂くようにして、必死に本物の言葉を喉の奥から引っ張り出そうと足掻いた。

 喉の粘膜にべべりと張りついていたあの強固な拒絶の氷結が、彼女の温かさに触れて、じわりじわりと音を立てて剥がれ落ちていく、生々しい肉体感覚があった。

「……僕、も……」

 喉の奥から絞り出した声は、かすれていて、今にも風に掻き消されそうだったけれど、そこにはもう自分を取り繕う嘘は一切無かった。それは間違いなく、僕自身の意志で、自分の本当の弱さを晒すために外の世界へと放たれた本物の言葉だった。

「……僕だって、本当は……何が何でも帰りたかったんだと思う。ミオさん」

ミオさんはその僕の突然の自己開示の響きを聴いた瞬間、ハッとしたようにその大きな瞳を見開いた。

 その濡れた瞳のなかには、突然の僕の崩壊への激しい驚きと──そして、自分の傷を曝け出してくれた僕への、深い抱擁のような安堵の光が、美しいグラデーションを伴って宿っていた。

僕は、溢れ出しそうになる熱い涙を堪えることなく、世界の空気に向けて言葉を叩きつけ続けた。

「他人の悪意に負けて、表現することを諦めて逃げ出したけれど……。僕だって本当は、あの美しい本物の活字が躍る、言葉の世界に帰りたかった!……もう一度、あの誇り高き編集者の仕事に……表現することを信じて疑わなかった、かつての自分の元へ……帰りたかったんだ……っ!」

ドォン、と遠い海岸線から響き渡る、瀬戸内の悠久の潮流の重低音。

 その偉大な大自然のリズムが、僕の放った悲痛な叫びを、優しく力強く包み込んでいく。

ミオさんは僕のその剥き出しの涙の姿を遮ることもなく、そっと湿った砂利を踏みしめて僕のすぐ真隣へと近づき、防波堤のように寄り添って立ってくれた。

「……帰れますよ。青井さん」

 ミオさんの口唇から放たれたその声音は、僕たちの身体を包み込む初夏の潮風よりも、何倍も柔らかく、絶対的な救済の響きを帯びていた。

「自分の心のなかに、あんなに美しい『記憶の青』を宿していて……。今こうして、自分の魂の底から、もう一度あの場所へ“帰りたい”って、切実に願うことができるのなら……。あなたは間違いなく、あの誇り高き言葉の世界へ、自分の力でちゃんと帰ることができます」

その瞬間、僕の左胸の最深部が、ドクドクと熱い生のノイズを立てて激しく沸騰した。

 僕を長年縛り付けていた強固な絶望の結び目が、心地よい熱を伴って、自分自身の内側で完全に、バラバラとほどけて剥がれ落ちていく音が確かに聞こえた。

夜の帳が完全に降りる直前、切り立った海岸線から再び力強い風が吹き抜け、翡翠色だった海原が一瞬だけ、最後の夕陽を浴びてギラリと黄金色のまばゆい光を放った。

 その圧倒的な大自然の光の粒子のなかで、他人の活字に傷つき、深い沈黙の底で窒息しかけていた僕だけの「本当の物語」が、今度こそ明確な意志を持って、ゆっくりと、力強く世界の表層へと戻り始めていた。

◆◆◆

シーン9

岬の向こうから吹き付ける生ぬるい潮風が、終わりの始まりを告げるように、じわりじわりと肌寒い鋭さを帯び始めていた。

 昼なお重く濁っていた瀬戸内の海は、太陽の角度が鋭く傾くにつれて、光を吸い込むような深い紺碧こんぺきへとその色調を沈めていく。西日に照らされた僕たちの影は、白く乾いた砂利道の上に、どこまでも細長く、不気味なほど真っ直ぐに伸びていた。

ミオさんはお父さんの遺した『言葉ノート』を両手で大切に胸元に抱きしめ直した。その布張りの表紙を愛おしそうに指先でさする仕草は、まるで数年前に他界したお父さんの、あの生々しい皮膚の温度を、過酷な潮風の中で必死に確かめようとしているかのようだった。

「……青井さん」

 ミオさんは、波頭が静かに砕ける水面を見つめたまま、硬い声音でぽつりと呟いた。

 「さっき、あなた……あの東京の冷たい沈黙の中から、這い上がるようにして“僕も言葉の世界へ帰りたかったんだ”って、そう叫んでくれましたよね」

僕は無言のまま、静かに、深く首を縦に振ってみせた。

 その一言は、他人の放った空虚な活字に傷つき、東京から逃げ出してきた僕が、自らの沈黙の泥の底から、魂を削るようにしてようやく掬い上げた、一切の嘘のない剥き出しの本音だったからだ。

ミオさんは僕のその確かな頷きに背中を押されるように、さらに奥深い傷口を開いた。

「私ね……事故で父が突然帰らぬ人となってしまったあの日からずっと……心のどこかでね、お父さんに“裏切られた”って、激しく怒り続けていたの。……あの夜も、お父さんは私との小さな約束を守ってくれなかった。……お父さんは、私という娘の存在よりも、遠い島々の過酷な仕事のほうを、自分の意志で選んだんだって。ずっと、ずっと、お父さんを憎むことで、自分の孤独の言い訳にしてきたの」

そのミオさんの告白の皮膚は、切り裂くような潮風よりも、元編集者としての僕の左胸の割れ目へと、冷たく、痛烈に突き刺さった。

「でも……本当は、違ったのよね」

 ミオさんは大きな瞳を静かに伏せ、その長い睫毛をかすかに震わせた。

 「お父さんは、私を見捨てて逃げたんじゃない。一分一秒でも早く、私のいるあの温かい我が家へ帰りたかった。……ただ、瀬戸内の激しい潮流のせいで、どうしても戻れなかった、だけ……」

その彼女の声は、過去の記憶の生々しさに完全に震えていた。けれど、その頬には、もう大粒の涙がこぼれ落ちることはなかった。

 涙という一時的な感情の決壊よりも、もっと深い魂の領域で、彼女が長年抱え込んできたお父さんへの呪縛の痛みが、静かに、しかし絶対的な本物の「言葉」へと、その形を変えようとしているのが分かった。

僕は彼女のその尊い産みの苦しみに共鳴するように、自らの喉の強張りを取り払ってゆっくりと言葉を紡いだ。

「……ミオさん、僕も、全く同じです。東京の編集部で言葉を失って、逃げるようにこの瀬戸内へやってきたとき……僕は、自分が過酷な現実からただ“逃げ出した卑怯者”だと、自分自身をずっと責め続けていました。美しいはずの活字からも、僕を信じてくれていた人間からも、すべてを裏切って背を向けたのだと」

ザザン、と満ちていく潮流の重低音が、僕のその見苦しい告白を優しく包み込み、世界の空気のなかへと大切に溶かしていく。

「でも……本当は、僕だって違ったんだと思います。……僕も、死ぬほど帰りたかった。他人の悪意に満ちた言葉に負けることなく、もう一度、あの美しい活字が躍る本物の言葉の世界へ。……自分が誇りを持って生きていた、あの編集者としての本当の場所へ」

ミオさんが、弾かれたようにその顔を上げ、僕のほうへと視線を向けた。

 その濡れた瞳のなかには、突然の僕の自己開示への激しい驚きと──そして、同じ傷を持つ者同士が魂の深淵で出会ったかのような、深い共鳴の光が、夕闇のなかで美しいグラデーションを伴って宿っていた。

「……青井さんも、あの夜の湊や父と同じように……。帰りたくても、どうしても戻れなかった、哀しい漂流者だったんですね」

 その彼女の放った慈愛に満ちたフレーズが、僕の沈黙の奥底にある、あの冷たい会議室での傷口に、優しく触れてくる。

「うん。……帰りたかったのに、激しい潮流に押し流されて、どうしても戻れなかった」

ミオさんは僕のその弱さを拒絶することなく、そっと湿った砂利を踏みしめて、僕のすぐ真隣へと近づいてくれた。

 二人の衣服の袖が、潮風のなかで触れるか触れないかの、極めて近い距離。

 切り立った松林の隙間から吹き抜ける冷たい突風が、立ちはだかる僕たち二人の肉体の隙間をすり抜けていく。その透明な風の律動が、かつて一人ぼっちで凍えていた僕たちのそれぞれの痛みを、ひとつの強固な星座のように、優しく結び合わせていくのを、僕は皮膚の感覚ではっきりと感じ取っていた。

「……あの嵐の夜に消えた湊も、仕事に命を捧げた私の父も、そして、東京の活字に傷ついた青井さんも」

 ミオさんは、漆黒へと変わりゆく水平線を見つめながら、消え入りそうな声で小さく呟いた。

 「みんな、みんな、本当は愛おしい場所へ帰りたかったのね」

その彼女の言葉の響きは、この海がすべてを呑み込んできたあの「潮の記憶」そのもののように、どこまでも静かで、底知れぬ深みを帯びていた。

僕はミオさんの美しい横顔を、じっと見つめ続けた。

 その瞳に涙はなかった。けれど、その伏せられた瞳の最深部には、長年の孤独の痛みと、他者を受け入れるための圧倒的な優しさが、全く同じ深さの波紋となって、ゆらゆらと温かく揺れ動いていた。

再び強い風が吹き抜け、深い紺碧の海原が一瞬だけ、傾いた夕陽を浴びてギラリと黄金色に照り返した。

 そのまばゆい大自然の光の粒子のなかで、僕たちの背負ってきたそれぞれの傷跡が、境界線を無くして静かに重なり合っていくのを、僕は魂の底からはっきりと確信していた。

◆◆◆

シーン10

島を狂おしく叩いていた潮風の勢いが完全に和らぎ、大久野島の海岸線に、夜の手前の厳かな静けさがゆっくりと戻ってきた。

 太陽は水平線の彼方へと完全に没し、翡翠色だった海原は、燃え盛るような茜色から深い紫のグラデーションへと、ゆっくりと夕暮れの色に染まり始めていく。その光の残照はどこまでも柔らかく、砂浜に伸びる僕たちの影は無限に長く溶け合い、世界そのものが張り詰めた呼吸を静かに整えているかのようだった。

ミオさんは茜色の光をいっぱいに浴びた海を見つめたまま、お父さんの『言葉ノート』を、自らの命の拠り所のようにそっと抱きしめ続けていた。

 その夕陽に照らされた彼女の横顔には、少女の頃から背負ってきた巨大な喪失の痛みと──そして、その痛みをすべて自らの生の証として受け入れようとする、表現者としての毅然とした強さが、同時に宿っている。

「……私の父はね、あの日、私の元へ、ちゃんと帰りたかったんですよね、青井さん」

 ミオさんの口唇から零れ落ちた声は、凪いでいく潮の音の優しい律動にそっと寄り添うように、どこまでも静かで、穏やかだった。

僕は彼女のその確かな能動性に応えるように、ゆっくりと、しかし確かな質量を伴って深く首を縦に振ってみせた。

 その僕の頷きは、彼女の痛みを肯定すると同時に、自分自身の東京での最大の未練を、そのまま重ね合わせた表現者としての誓いでもあった。

ミオさんは僕のその想いを受け止め、さらに言葉を絞り出す。

「嵐の夜に消えたあの湊もね、本当は、何が何でも帰りたかったの。……この島で自分の帰りを待っている、あの『みお』のいる場所へ。……でもね、激しい潮流のせいで、どうしても……戻れなかった、だけ」

その彼女の放った「戻れなかっただけ」というフレーズが、僕の左胸の割れ目へと、凄まじい熱量を持って深く突き刺さった瞬間。

 僕の精神の最も深い場所で、あの東京での挫折以来、頑固に凍りついていた強固な沈黙の氷結が、ガタガタと音を立てて激しく、狂おしく揺れ動き始めた。

──戻れなかったのではない。

──ただ、過酷な潮流のせいで、戻れなかっただけなのだ。

その決定的な一文字の違いを伴った言葉は、歴史の彼方に消えた湊にも、インフラに命を捧げたミオさんのお父さんにも、そして他人の活字に傷ついて表現することを諦めていた、僕自身という哀しい漂流者に対しても、等しく放たれた絶対的な救済の光だった。

あの東京の冷たい編集部での、最後の一日。

 言葉を失い、誰にも言い訳ができず、ただ絶望の沈黙だけを抱えて去るしかなかったあの日──。

 僕は、表現することから逃げ出したのではなかった。あの過酷な業界の潮流のなかで、傷つき、引き裂かれて、ただ“戻れなかっただけ”なのだ。

 その絶対的な赦しが脳裏を駆け抜けた瞬間、僕の胸の最深部で、長年僕を縛り付けていた強固な呪縛の結び目が、心地よい熱を帯びて、パチンと音を立ててほどけていくのが確かに聞こえた。

ミオさんが、ふっと僕のほうへとその美しい顔を向けた。

 その濡れた瞳のなかには、僕の魂の奥底で起きている激しい地殻変動をすべて見透かしたかのような、深い共鳴と、どこか厳かな祈りのような光が宿っている。

「……青井さん」

 ミオさんは、暗闇を照らす灯籠の火そのもののように、どこまでも切実な声で僕に問いかけてきた。

 「言葉を扱い、人間の心と向き合い続けてきたあなたなら……どう思いますか。……私たちは、あの失われた場所に、もう一度帰ることができると思いますか」

その彼女の魂の最深部からの問いかけは、僕を縛り付けていたあの冷たい沈黙の奥底へと、直接、真っ直ぐに触れるものだった。

夜の気配を孕んだ最後の潮風が東屋の柱を吹き抜け、水平線の向こうで海原が一瞬だけ、最後の残照を浴びてギラリと黄金色に光を反射した。

僕は、ゆっくりと、肺腑のすべてを満たすようにして、大久野島の冷涼な空気を深く吸い込んだ。

 そして、かつて原稿用紙に万年筆のインクを走らせていたときのような、あの表現者としての圧倒的な能動性を持って、胸の最深部に沈んでいた本物の「言葉」を、自らの喉の奥から一気に掬い上げた。

「……戻れなかったんじゃない」

 僕の喉を破って放たれたその声は、かすかに震えてはいたけれど、そこにはもう自分を取り繕う迷いも嘘も一切無かった。それは、傷ついた彼女の未来のために、そして僕自身の再生のために、僕の意志で外の世界へと放たれた、本物の活字の響きだった。

「……僕たちは、ただ、激しい潮流のせいで戻れなかっただけだ」

ミオさんが、ハッとしたようにその薄い唇を開き、息を呑んだ。

僕は溢れ出しそうになる熱い涙を堪えることなく、彼女の目の前で、世界の空気に向けて言葉を叩きつけ続けた。

「あの夜の、湊も。……ミオさんの、お父さんも。……そして、東京の活字に裏切られて言葉を失った、僕自身も……。みんな、みんな、本当は自分の命を懸けてでも、帰りたかったんだ。……自分が最も愛した、あの世界で一番大切な場所へ。……自分の帰りをずっと待ち続けてくれている、一番大切な人のところへ!」

ドォン、と遠い海岸線から響き渡る、瀬戸内の悠久の潮流の重低音。

 その偉大な大自然のリズムが、僕の放った悲痛な叫びを、優しく力強く包み込み、世界の空気のなかへと大切に溶かしていく。

ミオさんの大きな瞳が、激しく、美しく揺れ動いた。

 それはもう、孤独に引き裂かれるような絶望の揺れでは決してなかった。彼女の胸の最も深い場所で、長年凍りついていた悲痛な呪縛のトゲが、僕の放った本物の言葉の温かさによって、完全に、バラバラとほどけて解き放たれていくための、歓喜の揺らぎだった。

「……青井さん」

 ミオさんは僕のすぐ真隣で、消え入りそうな声で小さく、しかし愛おしそうに呟いた。

 「私……お父さんがいなくなってからずっと、誰の口からでもない、あなたのような本物の表現者の口から……その魂の救いの言葉を……ずっと、ずっと聞きたかったんだと思います」

切り立った海岸線から再び心地よい潮風が吹き抜け、瀬戸内の海は、完全なる夕暮れの美しい紫色へとその表情を染め上げていった。

 その圧倒的なマジックアワーの光の粒子のなかで、僕たちを長年分断し、苛んできたあの冷たく重たい沈黙は、温かい生の余韻となって静かにほどけ、僕たちの背負ってきたすべての痛みは、世界の空気を震わせる本物の「言葉」へと、美しく生まれ変わっていった。

そして──夜の帳が降りる海岸線に立ち尽くしながら、僕は自らの肉体のなかで、確かに、圧倒的なリアリティを伴って感じていた。

 他人の活字に傷つき、深い水底で窒息しかけていた僕だけの、あの誇り高き「本物の言葉」が、今度こそ明確な意志を持って、僕の喉の奥へと、力強く戻ってきているのを。




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